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第74話 癒えない傷 3

 久しぶりに見たライトの槍には、乾ききらない血が滴っている。血に濡れた槍は、影に覆われたまま空中に浮かぶ。やがて影は空気に溶けるように消え、槍は私の前の土に無造作に落とされた。

 土埃が目に染みる。


「これは何?」

 

 それでも私は目を見開いたまま、ミラクに問いかけた。

 

 だけれど、ミラクは見極めるように私を見ているだけで、何も答えてはくれない。


 もしかしたらミラクかラキが何か言ったのかもしれない。でも、私には何も聞こえなかった。

 何か考えようとしても、頭の中がぐるぐるするばかり。

 ――なんで。なぜ、ライトの槍をミラクが持っているの? ライトは、もう都に辿り着いていた? ……いや、そうだとして、なぜミラクがライトの槍を?


「……幻術?」


 朧げな声が溢れて、自分の声にはっとする。……幻術。そうだ。そうとしか、考えられない。だって、万が一にも、ライトがミラクなんかに負けるなんてこと、起こるはずがないから。絶対にあり得ない。

 そう思って私は顔を上げる。


「これは現実だ。ライトは間違いなく死んだ」


「しっ……!?」


 しかしミラクははっきりと言い切った。ミラクの言葉には一片の躊躇いも感じられない。


「お前らが呑気に城から移動している間にな」


「そんなデタラメをよくもッ……!」


 煽るように続けられた言葉に頭の中で何かが切れて、一瞬だけ思考が真っ赤に染まる。気づけば踏み込んでいた。

 地面に置かれたままの槍の横を飛び越えて地を蹴り、ミラクとの距離を一気に詰める。


「――っ!?」


 しかし踏み込んだ足が地面の影に嵌る。槍の軌道が逸れて、ミラクの纏う影を掠めただけで終わった。

 

「無策に突っ込めばこうなる。遠距離で攻撃すればよかったな」


 頭上から振るミラクの声。

 ――何!?

 地面に手と膝をつく。冷たい土の感触が、震える手のひらに伝わる。

 ……私、こんなに動揺しているっていうの? ミラクが吐く、こんな()なんかに……。

 確かに無策だったけれど、こんな明らかな罠に嵌るなんて。

 ふと目に入る、土に汚れた手。同じように地面に手をついた記憶が、脳裏をよぎった。

 ……あれは、そう。

 波の音が聞こえていた――ライトに、稽古をつけてもらったときだ。

 思い出した瞬間、噛み締めた奥歯が鳴る。


「……俺と旅をしていた時は戦闘の思考はもう少しまともだったはずだが」


「うるさい! お前にそんなこと言われたくない!」


 苛立ちと勢いに任せて立ち上がり、必死に叫んで否定する。現実は思い通りには進まない。何も思い通りにはならない。どれだけ頑張って向き合おうとしても、受け入れられない現実が突きつけられる。

 ……違う。これはきっと幻術。現実ではない。


 ミラクと向き合ったまま、半歩だけ下がる。

 何度も見てきた記憶の槍と全く同じに重なる槍が、背後にある。少しだけ振り向いてその槍を見てから、また目を背ける。


「……こんな槍、偽物だ!」


 低い体勢から一気に頭を狙う。ミラクの指摘通りに遠距離の血液操作をするのは癪で、何より直に一発入れてやりたかった。


「槍だけでは不満か。ライトの死体を見たいのか?」


 だけれどミラクに告げられた、冷たく容赦のない一言。それに息を呑み、槍は空振る。

 思い出すのは、影から突如取り出されたラナ。そしてライトの槍。嫌な予感が奔る。ミラクの周りを蠢く闇が急にこれ以上ないくらいに不気味に思えて、攻めあぐねる。


「し、死体?」


 ――もし。

 もし仮に、ミラクの言葉が事実だったとして。

 ミラクに無策に近づいて、影の中から目の前に()()()()()を突きつけられたら、私は――。

 持ち直せる自信が、ない。

 

 ……いや。


「……そんなものあるはずがない!」


 声が掠れるのを誤魔化しながら叫び、虚勢を張る。

 いくつか生み出した血の(やじり)で注意を逸らし刺すように槍を突く。しかしミラクは避けない。影が槍の勢いを殺し、絡みつく。

 

「ライトがお前なんかに……っ!」

「信じたくないか」


 影が私の腕を強引に捻り上げる。関節が悲鳴をあげる。咄嗟に血の刃を無数にミラクに飛ばし、何とか距離を取らせる。


「はあっ、はぁ――」

 

「だが、その槍の血の匂いはどう説明する?」


「――!」


 荒い息をつく私にミラクは告げる。……本当は分かる。生きているライトから、槍だけ奪って逃げ切るなんてことは、絶対に無理だ。ライトは、私が知る誰よりも強い。もし、その手から槍を奪うことができるとするならば、そのときライトは――。


 思わず振り向き、視線は地面に落ちる。


 いてもたってもいられず、ミラクに背を向け、土の上のライトの槍に手を伸ばす。

 後退し、槍を掴み、そのまますぐにミラクにまた向き直る。

 腕の中の、覚えがある槍の重さ。そして指先に触れた、血の感覚。

 粘ついた感触に、私は目を見開く。

 ――鼻を突く鉄錆の匂いの奥に、ライトがいつも纏っていた海の香りが混じる。

 認めたくない現実。喉の奥に、泥を直接流し込まれたような吐き気がせり上がる。……ああ、これは――。


「本当に愚かだな、サキ」


 呆然と手を震わせる私にミラクは語る。その声には、哀れみと嘲笑が混ざり合っていた。


「宝物庫では影蝕の秘薬はまだこの身体に完全には馴染んでいなかった。修復が間に合わず、俺は死ぬ可能性すらあった」


 ミラクの体を覆う影が、脈打つように揺れる。

 私はライトの槍をゆっくりとまた置いた。


「お前はそこで、まだ抵抗できるうちに、せめてもの抵抗をしておくべきだったんだよ」


 影が足元に到達し、跳ぶ。木の幹を蹴って高く飛び、血槍を構える。


「なんで!?」


 空中から、急降下で突く。槍の切っ先がミラクの喉を狙う。しかし影が盾となって、受け止める。

 着地と同時に横薙ぎ。連続で突く。突く。突く――すべて、影に阻まれる。


「……なんでお前は、そうなのよ!?」

 

 上手くいかないことがもどかしくて堪らずに涙が溢れそうになる。変だ。今まで戦闘中にこんな気持ちになることなんてなかったのに。泣き出してしまいそう。何でこんな子供みたいな。

 

 冷静に自分を諌める心の声の裏でも、疑問と胸を抉る後悔は止まらない。

 ――どうして。どうして私は、あの時ミラクを殺さなかったの?


「許せない。お前を――そして、私自身を……!」


 声が震える。

 思い出すのはラキの言葉。

『ミラクは、決してお前の期待に応えない』

 その通りだ。殺せるならそのときにミラクを殺しておくべきだったんだ。

 それなのに私は期待してしまっていた。ミラクが、変わってくれることを。理解し合えることを。

 その結果が、これだ。

 

 ライトの、死……。

 ――いや、それは違う。


 ミラクのことを、信じてはいけないんだ。

 

 ライトが死んだなんて、そんなことは嘘だ。

 嘘に、決まっている。こいつのいつものタチの悪い嘘。


 それでも、ラナを攫っていたことや、今までにこいつがしてきたことはもう、絶対に許さない。


「どうした?」


 ミラクの声が、冷たく響く。

 影が波のように押し寄せる――後退。横に跳ぶ。木の陰に身を隠す。


「まだ終わるには早過ぎるが……」


 呼吸が荒い。手が震えている。でも槍を握り直す。血を操作して、刃を尖らせる。

 ――ライトがミラクなんかに負けるはずない!

 木の間を駆け抜け、ミラクの死角に周った。そして怒りとともに放った一撃は、ミラクの喉元を掠める――はずだった。だが、切っ先がミラクに触れる寸前、そこにあったはずの実体が陽炎のように揺らぎ、槍は虚しく空を切った。


「……っ、なんで!?」

 

「まだ目を背けるのか。あれだけ向き合うと言っておいて」


 いつの間に背後に。振り返りざまに横薙ぎを放つが、今度は泥のように重たい影が槍に絡みつき、動きを強制的に止められる。足元の影が蛇のように伸び、私の足を払う。

 視界と地面がひっくり返る。肺の空気が強制的に吐き出され、思考が白く染まった。


「確かに、普通なら俺はライトに勝てないさ」


 倒れ伏す私を見下ろしミラクが一歩、前に出る。

 影がさらに伸びる。私は影を無理矢理に引き払い、翼で羽ばたいて躱す。


「だが、言ったろう? そのためにラナを使ったんだ」


 ミラクが余裕の表情で一歩踏み出した、その瞬間。

 蔦のような影が地面から伸び、飛ぶ私の体を絡め取ろうとする。

 呼吸が荒くなる。視界の端がちかちかして、ミラクの輪郭が二重三重にブレて見える。


「……っ!」


 反射的に後ろへ。けれど、視界が歪んで距離感が掴めない。仕方なく着地した足首に、冷たい何かが巻きついた。

 影だ。蠢き、這い上がり、私の自由を奪っていく。

 動けない。焦る私の目の前に、影の中に紛れてミラクが現れる。

 

「ライトの死を信じないと言うならば」


 至近距離。逃げ場のない状態で、ミラクが私の目を覗き込む。鬱陶しくまとわりついてくる影は、冷たくて重い。まるで深い水の底に沈んでいくような感覚がして、嫌な記憶が蘇る。

 ニーナの死。初めての仲間に裏切られた記憶。


「なぜこんなに乱れているんだ?」

 

「うるさい!! ……もう、もう二度と! あんなことは繰り返させないと決めていたのに!!」


 腕に絡みつく影に、無我夢中で力を込めた。

 血は血管を破いてしまいそうな勢いで身体を巡り、自分でも驚くほどの力が出る。拘束を無理やり千切り解いた、その瞬間――眼前に新たな影。そしてミラクの蹴りが容赦なく腹に入った。


「かはッ!」


 肺から空気が押し出される。息が、できない。

 地面に叩きつけられた衝撃で、視界がぐにゃりと歪んだ。地面の冷たさが頬に伝わってくる。木漏れ日が揺れている。朝の光が目に痛い。霞む視界の端に、手放してしまった血の槍が見える。

 ……掴ま、なきゃ。

 泥を掻くように手を伸ばす。指先が槍の柄に触れた――はずだった。


 届かない。

 指先が、空を掻いた。

 

「あ……れ?」


 おかしい。確かにそこにあったのに。目を凝らすと、槍は私の手よりも右側に転がっていた。

 距離感が、ずれている? さっきから攻撃が噛み合わないのも、防御が遅れるのも、そのせい?

 自分の感覚が信じられなくなる恐怖。それが理解できた時、歪んだ視界の中で、黒い影が揺らめく。ミラクが近づいてくるのが見えた。

 ……間に合わな――!


 しかしその瞬間、風を切る音。ラキの双剣が飛来し、ミラクを狙う。


「ラキ!」


 ミラクは影を盾のように展開してそれを防ぐ。剣が影に弾かれ地面に突き刺さる。

 しかし既にラキはまた駆けていた。地面を蹴り、一瞬でミラクとの距離を詰める。地に刺さった双剣を引き抜きざま、斬撃を放つ。


「サキ! ミラクは幻術使いだ、視力に頼らず聴力や嗅覚を頼りに戦え!」


 言いながら、双剣とラキの流れるような連携がミラクを襲う。飛来する二本の剣を避けたと思ったら、ラキからの蹴り。そして空気を裂いて飛び返ってくる双剣。息もつかせない連撃が、ミラクに叩き込まれる。


 しかし、ミラクの影が、すべてを受け止めていた。


「無駄だ」

 

 ラキの足元から影が伸びて、その動きを封じようとする。ラキは、それを予測して跳躍。空中で体を捻って、影を躱す。

 着地と同時に、再び斬撃。しかし、ミラクは動じない。


「お前では、俺を止められない」


 影が、波のように押し寄せる。地面を覆い、空気を満たし、光を遮る。

 ラキは、剣で影を切り裂きながら後退する。しかし、影は切っても切っても湧き出てくる。

 

「……何なんだ!? お前のこの力は、ただの魔術と呼ぶにはあまりにも!」


 ラキの動きが、徐々に鈍くなっていく。影が、足に絡みつき始めている。しかしラキはなぜか大きく抵抗しない。何かを見極めるようにミラクと、ミラクが操る影を観察している。その視線に釣られて私もミラクを見る。動きが、さっきより重い気がする。影で顔は見えないけれど、呼吸が荒くなっているように聞こえた。

 

 ――ラキは何かに気づいたの?


「ラキ!」


 私は、叫ぶ。

 血液操作で血の槍を手繰り寄せて、それをミラクに向ける。血の一部分を浮遊する刃へと変形させ、先攻させた。逃げ場を塞ぐように、四方から血の刃を放ち、私はその後を追って踏み込む。


 ――少し目が惑わされるくらいなら、血で逃げ場なく攻撃したらいい!

 

 けれど、思うように血が応えない。感覚を研ぎ澄まそうとするほど、焦りが邪魔をする。刃の軌道が乱れる。その隙をミラクは見逃さなかった。

 ミラクはラキを包む影を保ったまま、こちらの攻撃を容易く受け流す。


「くっ……!」


 そのとき、影に拘束されたままのラキが、無理やり片腕を動かした。一本の双剣が、ミラクへと投げつけられる。

 ミラクは影で私を抑え、影を纏った回し蹴りで飛来する剣を弾く。

 しかし直後、弾かれたはずの剣が、空中で軌道を変えて死角からミラクの背後を狙う。


「――!」


 ミラクが振り向いた瞬間、異形のその体を剣が首から胸にかけて斬り裂く。


「やったか!?」


 ラキが叫び、私も緩まった影の感触に勝利を確信しかけた、そのとき。


「……やってくれたな。修復は消耗するというのに」

 

 怒気が滲んだミラクの声。次の瞬間、影がうねり、声を上げる間もなくラキの身体を高く持ち上げ――そして、容赦なく地面へと叩きつけた。


「ガッ……ハ――!」


「ラキ!」


 倒れたラキを見た瞬間、頭の中が真っ白になる。

 ――また、守れない。その思考が、足を縫い止めた。

 ミラクは倒れたラキを一瞥して、また私の方を向いた。

 その目には、満足げな光が宿っている。

 ミラクが、近づいてくる。


「は!?」


 気づいたときには、足首に冷たい感触が絡みついていた。影だ。振り払おうとしても、力が入らない。


 影が、這い上がって私を包み込む。腕も拘束されてしまった。血を操作しようとしても、身体が動かせないせいか感情の乱れのせいか、血が形を持たない。

 そしていつのまにか眼前にいたミラクが目に入る。ミラクは私の髪を荒く掴んだ。


「……っ!」


 痛みが頭皮を走り、髪が何束か千切れる。無理やり顔を上げさせられた私は否応にもミラクと目が合う。

 影が混じったミラクの黄色い目。


「気分はどうだ?」


「……最悪」


 私は、ミラクの腕を掴む。影に拘束されながらも、皮膚が軋むのを感じても震える手で、必死に。


「……離、して」


 声が掠れる。

 ミラクは、私を見たまま目を細めた。


「懐かしいな。こうしてお前を見下ろすのは」


「離せって、言っているのよ……!」


 私は、全身の力を込めて、ミラクの手を振り解こうとした。

 しかしミラクは、離さない。影の拘束は強まる。


「聞かせてくれ。今、どんな気持ちだ?」


「お前なんか……、お前のことなんか――!」


 許せない。こいつを壊してしまいたい。怖い。憎い。嫌い。大嫌い。――それなのに、目を逸せない。

 ……。どれが本当の気持ちなのか、私にはもう分からない。混ざり合っている。憎しみと、悲しみと、そして――何か、名前のつけられない感情が。


 ……私は、自分が許せない。ミラクのことも許せないけれど、何よりも自分が許せない。

 ……それなのにこの重たい気持ちを抱えているのに耐えられなくて、解放されたいとも思ってしまっている。


 その瞬間、ミラクは私の髪から手を離した。私は影の沼の中に沈みかける。


「ハッ……ハハハハハッ……!」


 ミラクの笑い声が、森に響き渡る。

 森の静寂を切り裂いて、木々の間に反響する。

 そして笑いが、止まる。


 静寂。風が、木々を揺らす音だけが聞こえる。ミラクは私を見下ろし、静かに微笑んだ。


 その笑みは、先ほどの狂気が嘘のように穏やかだ。でも、その穏やかさがかえって不気味で、背筋に冷たいものが走る。


「ああ……」


 恍惚とした声。


「最っっ――高だっ……!」


 杯から溢れたように、ミラクは狂喜した。再び、笑い声が森中に響き渡った。


「お前のその、入り乱れた感情。ああ……なんだろうな? この、胸が高鳴るような、吐き気がするような、満たされるような、底が抜けて落ちていくような……」


 ミラクは両手を広げて、天を仰ぐ。その姿はまるで何かを讃えているみたいだ。朝日を浴びて、影が地面に長く伸びる。


「……快楽。熱に溺れる。そんな言葉では足りないが、そうとしか形容しようがない。お前が絶望し、俺を憎み、それでも縋ろうとするその歪な情念……。サキ、お前のその心が壊れる音が――! 俺は……欲しくて欲しくてたまらないんだ――!」


 目が熱を帯びている。理性的でない。熱に浮かされている。

 人として、何かが壊れている。到底、受け入れられない。


 それでも――拒絶する覚悟も、私は持てていない。


「サキ」


 ミラクが、何かを思い出したように私の名を呼ぶ。


「ライトがどう死んだか、知りたいか?」


 私は、睨みつけることしかできなかった。涙で滲む視界の向こうに、ミラクの影が揺れている。

 聞きたくない。でも知らないままではいられない。

 ミラクは、楽しそうに微笑む。あとひと押しで何かが叶うと思っているような、期待の滲んだ笑みを私に向ける。


「俺はライトにある幻覚を見せた」


 ミラクは、淡々と続ける。

 

「何を、見せたの……」


 震える声で問い返すと、ミラクは目を細めた。その瞳に宿るのは、満足と陶酔。

 

「緑の髪に、赤い瞳。一本角の、鬼族の女だ」


 息が詰まった。


「……サリィ、に?」

 

 ミラクは満足そうに頷いて、語り始めた。


 緑髪を風に靡かせながら、赤い瞳でライトを射抜くサリィの姿。ミラクの言葉が、まるで目の前で繰り広げられているかのように鮮明に脳裏に浮かぶ。


 幻のサリィが、ライトに告げた。

『私は、取り返しのつかない過ちを犯したとき、誰かに叱って欲しかった。誰かに、終わらせて欲しかったの』


 そして、穏やかに微笑んでこう言った。

 

『だから、ライトのことは私が終わらせてあげる』


 ライトは何も言い返さなかった。ミラクの声が続く。偽物だと分かっていながら、それでも、ライトはただ呆然と立ち尽くしていたのだと。


 言葉が、杭のように打ち込まれていく。一つ一つが、私の呼吸を奪っていく。


「そして――」


 その一瞬が、永遠のように長く感じられた。風の音すら、遠のいていく。


「ライトは()()殺された」


 幻のサリィの姿にですらなく、ライトはミラクに殺された。


「……やめてよ」


 声が震えて、うまく言葉にならない。


「ライトは最期にサリィの名を呼び、そして」


 ミラクは、歪んだ目で私を見つめる。


「『ありがとう』と言った」


 一拍置いて、はっきりと告げる。

 ミラクは、さらに続ける。容赦なく、言葉の刃を突き立てる。


「だが、その言葉は偽物のサリィには届かなかった」


 ライトの死の間際、ミラクは幻術を解き、サリィの姿から黒髪の獣族の少女、ラナの姿が現れたという。ミラクが語っていく話はあまりにも残酷なものだった。


「ライトは何も守れず、何も成し遂げられず――ただ、絶望の中で死んだ」


「……もう、やめて」


 膝から力が抜けた。地面に手をついて、ただ泣いた。涙が土に染み込んでいくのを、ぼんやりと見つめる。


「どうだ? これが、ライトの最期だ」


 ミラクの声が、上から降ってくる。

 言葉にできない虚無が、胸を満たす。


「お前のせいでライトは、最期まで救われなかった」


 その言葉が心臓を握り潰す。

 ――私が都に呼んだから。私がミラクと関わったから。

 認めたくない。でも、否定できない。


 ミラクは満足そうに微笑んで、両手を広げた。まるで世界そのものを抱くように。


「ライトの絶望。そして、お前の絶望――最高だった」


 涙が止まらなかった。何か言おうとしたけれど、声にならない。掠れた音が漏れるだけ。


「……っ」


 涙が、溢れる。止まらない。呼吸ができない。

 ミラクは、私を見下ろす。その視線には、冷たい確信があった。


「お前は、サリィの代わりだったんだよ」


 その一言に心臓が、止まりそうになる。


「ライトが本当に愛していたのは」


 ミラクの声が静かに、残酷に響く。


「最期まで、サリィだけだった」


「……そんなこと、ない。ライトは、私を……」


 言葉が続かない。冷たい影の感触だけが、今の私に残された現実だった。


「現実を受け入れられるか? ……目を背けたいだろう?」


 ミラクの声が頭上から降ってくる。それとともに、影が足元から伸びてきた。ゆっくりと、でも確実に、私に向かって這い寄ってくる。


「……それなら、今は沈め」

 

 まとわりつく影を振り解く気力もない。影は私を包み込み、偽りの現実――幻想の世界へと導く。


「……」


 身体が影の中に沈んでいくのを感じる。少し足掻いてみたけれど、余計に沈んでいくだけ。何より私の気力はもう完全に削がれ切っていた。


 ――ライトはもういない。この世の、どこにも……。

 ミラクが、ライトを殺してしまったから。

 ……私は、何がしたかったんだろう?


 たった一人の家族を守ることもできないで、帝国を変えるだなんて。まるで、世界で独りぼっちになってしまったみたいな気分だ。

 暗い闇に、一人だけで取り残されたような気分。


 ――私が、守るべきだったのは誰? それはラキや、ラナに……そして、ライト。

 ――私が、殺したいほど憎んでいるのは、ミラク。


 でも。……ライトにとって、私は代わりだった。

 ――今までは、そんなふうには思っていなかった。

 だけれど、遺される私のことなんて気にもせず、本当にサリィの幻に礼を言って、ミラクに抵抗もせずに殺されたのなら…………。

 胸に、冷たい確信が落ちる。

 サリィの代わり。ただの、代わり。


 ……なら、ラキは?

 ふと、不安が湧く。ラキだって、いつか私を見捨てるかもしれない。

 ラキのことは大切だけれど、私がミラクのことばかり気にしているって、ラキは気づいているから。何も返せていない私をいつか、見限るかもしれない。

 ラナも、私とラキならラキを選ぶかもしれない。


 ……でも、ミラクだけは――。

 歪んだ確信が、胸に根を張っていく。

 

 ミラクは私の弱さも、すべてを知った上でそれでも、狂気的に私を手に入れようとしている。


 ……それって――。

 ミラクは言った。真の意味で、私を理解してくれると。


 ライトの死はあまりにも受け入れ難くて、胸に込み上げるこの感情を、悲しみや憎しみとして消化することもできない。

 感情が、形を持たない。ただ、虚しいとだけ感じる。

 どうしようもなく、胸が空っぽで寂しい。


 ……ああ、そういうことだったのね。


 ミラクの言葉が、蘇る。


『受け入れて欲しいと思っているのは、お前の方だ』


 ……そうなのかもしれない。

 私は、ミラクを求めていたのかもしれない。

 

 だって、ミラクがこの心を埋めてくれるというのなら。

 ――この、底の見えない虚しさを。この、どうしようもない孤独を、埋めてくれるというのなら。

 私は、縋ってしまうかもしれないから。


 ミラクの足音が、近づいてくる。

 影が濃くなって、もう視界も覆われてしまった。外の世界にかろうじて繋がっているのは、伸ばしている片腕だけ。

 

 影の中の暗闇の世界は、冷たいけれど、それでいてどこか温かい。深い水の底に沈んでいくような感覚。

 ……ああ。

 これが、ミラクの世界。孤独と偽りで満ちた、暗闇の世界。

 私は、その影の中に沈んでいく。

 


 遠くで、ラキの声が聞こえた気がした。

 でも、それはもう、とても遠い。


 手を伸ばしても、届かない。水の中にいるみたいに、すべてが遠のいていく。


 ただ暗闇の中に沈んでいく。ミラクの影に、包まれながら。

 ……でも――。


「……サキ!」


 また聞こえた、ラキの声。遠いけれど、確かに聞こえる。

 私の名を呼ぶ声。

 その声に、意識がわずかに浮上する――ふと、脳裏に二人の顔が浮かんだ。

 ラナ。薄い寝衣を纏って、影の中から取り出されたあの無防備な姿。

 そしてラキの、必死な顔。


 ――……守る、って、決めたのに。


 指先に、微かな感覚が戻る。強く拳を握りしめると、爪が掌に食い込んで、痛みが走る。

 痛い。影の暗闇が冷たい。……でも、これは現実の感覚だ。

 この痛みは、幻ではない。

 

 まだ、私は、絶望なんかしていない。

 ――でも、もう、気持ちの受け止め方が分からない。どうすれば良いのか、何がしたいのか、分からない。


 **


 サキが片腕以外沈みきったのを見届けてから、俺はラキへと目を向けた。影に組み伏せられ、泥土に塗れながらも、俺を睨む目だけは決して屈していない。


「――さて。サキが沈んでいくのにも構わず、声をかけるだけで、動けない()()を続けるお前は……何を企んでいるんだ?」


 先ほどから拭えない違和感。不自然だ。

 ラキもサキの絶望を導く過程の一つ。徒に殺しはしないが、ラキは油断ならない。

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