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第73話 癒えない傷 2

 耳を澄ませて、心の中の言葉を探す。朝の森に響くのは、風が木々を揺らす音だけ。早朝の冷たい空気が肌を刺し、木漏れ日が地面にまだら模様の影を描いている。

 その光景の中央に立つ存在を前にして、私の胸の奥では、決意と不安が渦巻いていた。


 今、私とラキの目の前に立ちはだかる()()は、正直なところミラクであるとは信じがたかった。


 影を纏い、闇に溶け込むようなその姿は、もはや人の形をしているとは言い難い。無尽蔵に蠢く黒い靄の、あいまいな輪郭の影。朝日を浴びても濃い闇は薄れず、むしろ深まるようにすら見えた。


 ……でも、()()が私に呼びかけるたび、私の中の()()が反応する。ミラクを前にした時だけ疼く、心の奥の衝動。

 私の吸血衝動は……()()が流す血の匂いが、影を纏う明らかに人外の姿を、間違いなくミラク本人であると告げていた。


 向けた槍の切先にいる、かつて旅を共にした存在を見つめながら、私は口を開いた。


「ミラクにされた理不尽なこと、そのすべての理由を、知りたいの。許すことはきっとないけれど……ミラクがなぜそんなことをするのか……心の底から、理解したいの」


 言葉に出すと、自分がどれほど愚かな願いを口にしているのか実感する。喉が渇き、心臓が不規則に打つのを感じる。……吐き気を伴う、不快感。それでも、引き返せない。何かを変えなければ、前に進むことができないから。


「……」


 ミラクは、目を細める。


 その瞳には、複雑な光が宿っていた。私を見下す、嘲笑と哀れみ。私に対する、期待と失望。すべてが混ざり合って闇に染まった読み取れない感情は、私を大河に突き落としたあの夜のミラクと重なる。


「理解、か」


 そのまま下を向いて、笑いの混じった声で低く、呟いた。可笑しくてたまらないと言った様子で、ミラクは肩を小さく震わせた。


「何も理解していないくせに、事もなさげに言うんだな」


 顔を上げたミラクは疲れたような顔をしていた。何度も何度も期待に裏切られて、諦めてしまっているように見えた。

 ……確かに、私は理解していない。

 ミラクも、今の私ではミラクを理解することは決して叶わないと思っている。

 ……だから、何かを壊そうとしている。

 私の根幹を揺るがすほどの、絶対的な何かを。


「……ねえ、ミラク」


 私は、息を吸い込む。冷たい朝の空気が肺を満たし、意識が研ぎ澄まされる。ミラクが何を壊そうとしているのかはまだ分からない。でも、それごと私はミラクに向き合わなくてはいけない。逃げ続けることはできない。


「感情って、他人から奪い取るものではないはずよ。自分の心に、目を向けてみて」


 ミラクは皮肉めいた笑みを浮かべる。その笑みには、私の言葉を予測していたかのような諦念が滲んでいた。


「俺は、お前には感情を抱くことができる。今もこうして話しているだけで、時間を共にした上で殺さなければ手に入らなかった熱が――生きている実感が湧くんだ」


 ミラクは闇が揺らぐ自身の手を見つめながら言った。

 

「ミラク」


 私は、真っ直ぐにミラクを見つめていた。ここで視線を逸らしてはいけない。


「あんたはきっと、私を殺したとしても満足なんかしない。……だって、ミラクはどこまでも独りよがりだから」


 風が吹く。木の葉が舞い、影が揺れる。

 ミラクと目が合う。……かつて黄色だった瞳には、今は言葉通り影が浮かんでいる。


 ――人は、何のために生きているのだろう。

 幸せになるため?

 ……それなら、幸せって、いったい何?

 心が、満たされていること?

 ……それなら、どうやったら心は満たされるの?


「私は、自分が独りぼっちだとは思わない」


 私は、ミラクを見つめる。木漏れ日が揺れて、ミラクの影が地面で不自然に蠢いている。まるで生き物のように、這い回り、うねっている。


「一人で旅をしていたときだって、私には故郷があったし、未来には希望もあった」


 思い出す。故郷のシャトラント村の風景。さざ波の音。温かい人々。そして、ライトの道場――……私の、帰る場所。


「今、私には仲間がいる。私は独りではない」


 拳を握りしめる。爪が掌に食い込んで、痛みが走る。でも、その痛みが現実を実感させてくれる。


「でも、ミラクはずっと独り」


 私は、孤独を知らずに生きていた。

 でも、ミラクはずっと、何も持たずに生きてきたんだ。

 ミラクは、伏せていた視線を上げる。


 私が何を言おうとしているのか――それを理解しながらも、跳ね除けるような視線だった。拒絶の闇と、それでいて縋るような光が交錯している。救いを求めながらも、それを拒絶しているような、矛盾した目だ。


「……それも、もうじき終わる。満たされるはずなんだ。お前が、絶望に染まれば――」


「……ミラク」


 私は、言葉を続ける。喉が震える。でも、言わなければならない。


「受け入れてもらいたいなら、あんたも何かを受け入れなければならない」


 風が吹いて、木々が揺れる。鳥の鳴き声が、遠くで響く。


「ミラクの手は、取る」


 私は、真っ直ぐにミラクを見つめる。視線を逸らさない。


「でもそれは、私がミラクの方に行くのではなくて――」


 一拍置いて、はっきりと告げた。


「ミラクが、私の方に来るの」


 ミラクは、悲しそうな顔をした。


「……それも悪くないのかもしれない。……だがな――」

 

 こうなることを分かっていたみたいな、でも、そうなって欲しくなかったみたいな……期待と諦めの入り混じった顔をしたまま、言葉を続ける。


「――それでは、満たされないんだよ」


 黄色い瞳に、影がかった闇が増す。


「……ねえ、ミラク!」


 その不穏さを押しのけるように、私は声を張り上げる。喉の奥から絞り出すように。森に、私の声が響く。


 気づけば、懇願するように両手で槍を持っていた。


「自分の心に目を向けてみて? ミラクだって、誰かを殺したりしなくても、自分自身に満足することが、きっとできるはずよ」


 静寂。ミラクが纏った影が、闇を増す。

 木々の葉が風に揺れる音だけが、二人の間を満たしていた。小鳥の鳴き声すら、もう聞こえない。


「そして、いつの日かミラクが自分を理解できたなら、私にそれを伝えて欲しいの……」


 

 

 このとき、私は希望を持っていた。ミラクが、変われると信じていた。人は、変われる。そう信じていた。


 私は本当に、どこまでも愚かで……一生癒えることのない傷に苦しむ覚悟なんか、できていなかった。……ミラクの執念を、ほんの一握りすらも、理解なんかできていなかったんだ。


 **


「……いつまで、そんな甘い言葉を吐く?」


 ミラクの声が、冷たく響く。


 失望したその目は闇に染まり、もう今の私は映っていない。今ミラクが見ているのはきっと、大河で殺されかけた瞬間の私、あるいは砦で再会した時の私、それか――ミラクに何かで塗りつぶされた後の、私。


「俺を憎む気持ちを思い出させてやろう」


 一歩、近づく。影が、ミラクの足元から這い出すように広がっていく。地面を覆い、草を枯らし、闇を広げていく。


「……いや、より鮮烈に刻み込んでやる」


「……!」


 影が私の足元に届く寸前、何とか飛び退く。背筋に冷たいものが走る。これまでとは違う、何か決定的な一線を越えようとしている気配に、本能が警鐘を鳴らす。


 どくどくと脈打つ鼓動。全身に汗が伝う。


「聞くが、お前は欲求を満たさずに健全な精神を保てるのか? 欲とは、本能的で生理的なものだ」


 闇の中心で、ミラクは問いかける。

 

「所属欲、承認欲、支配欲――この世にはたくさんの欲望が渦巻いている。お前だってそうだろう?」


 ミラクは、私を見つめる。その瞳は、私の本質を見透かすように黒く光る。私の内側を覗き込んでいるような鋭さに、瞳孔が開いた。


「吸血、食事、睡眠……それらを満たさずに生きていられるか?」


「……生きて――」


 言葉に詰まる。確かに、私だって欲求を抑えきれない時がある。……ああそうだ、私は吸血衝動に駆られて、ラキを――……。


「……俺は、その欲が殺人だっただけだ。衝動には、身を任せずにいられない。全身に響き渡る鼓動に、喉の奥の吐き気を伴う渇きに、背徳的だと理解しながらも、熱に浮かされて身を委ねるだけ――……」


 ミラクの言うそれは、確かに私の吸血衝動に近かった。喉の奥が渇く感覚に、全身を駆け巡る熱。抗いがたい誘惑。理性では分かっているのに、体が求めてしまう感覚。……満たさなければ、きっと生きていくことはできない。


「……お前も、覚えがあるはずだ」


 私の表情の変化を見て歪に目を細めて、ミラクは言う。それは私の弱さを、見透かすようで、思わず言葉に詰まりそうになった。だけれど、私は――。


「――私は、帝国の闇と向き合うと決めた」


 私は、言葉を返す。声が震えないように、必死で抑え込んで。拳を握りしめて。


「……ミラクからも、目を逸らさない」


「俺と向き合うというのなら……俺を変えようとする――その傲慢な態度を改めろ」


 ミラクは、静かに言う。その言葉には、どこか諦めに似た響きがあった。ミラクはまるですでに結末が決まっているかのような物言いをする。


「……それができないなら、お前の理想論はただの自己満足だ。お前が独善的だと批判する俺と、何ら変わらない」


「……っ」


 ミラクの言葉は、私の核心を突いていた。言い返す言葉が、思い浮かばない。


「衝動的に生きてはならないだと? 理性や協調は大切だと? ……そんなことは、都を彷徨く浮浪児だった頃から理解している」


 少し間を置いて、ミラクは苦しそうに言葉を搾り出した。言葉を探しているというより、過去を噛み締めているような沈黙だった。


「……それでも、俺は――」


 言葉が、途切れる。

 ミラクは、()()を確かめるように視線を落とした。足元に落ちた影が広がり、地面を覆っていく。影は冷たく、重く、何かを隠すように地面に貼り付いていた。

 次の瞬間、その影が脈打つ。心臓の鼓動に合わせるように、黒が濃くなる。

 ミラクは、影から視線を上げた。まっすぐに、私を見る。


「俺が、受け入れて欲しいなどと頼んだか……?」


 ミラクの声が、静かに響く。何かを拒まれているのに、同時に縋られているような気がして、息が詰まった。ずっと一人で生きてきたミラクの、空虚さと、そして切望を感じる。


「俺は、一方的にお前を支配下に置きたいと告げているだけだ。……ならば、お前は自分を守るために俺を殺せば良い」


 ミラクの言葉は縋るような響きを含んだまま、冷たく私を突き放す。


「それだけの話だろう?」


「……」


「そうしないのは何故だ?」


 影が、ざわりと揺れた。


「……教えてやろうか」


 ミラクは、私を見つめる。その瞳に宿る影が、炎みたいにゆらゆらと揺れている。


「受け入れて欲しいと思っているのは……」


 影がゆらめくその目の奥は、憎悪と悲しみが混ざり合って燃えているように見えた。

 ……そのせいか、私は浅くなる呼吸を必死に繋ぎながら、ミラクの言葉を聞いていることしかできない。


「お前の方だからだよ、サキ」


 鋭い視線に射抜かれ、一瞬、周囲の音が遠のく。耳鳴りが響く体の奥で、心臓が跳ねた。


「……わた、し?」


 私が――ミラクに……受け入れて欲しいと、思っている……?


「そうだ。お前が、俺に受け入れて欲しいと思っているんだ」


 ミラクは、一歩近づく。影が、足元から這い寄ってくる。冷たい闇が、私に迫ってくる。


「……っ」


 足から纏わり付いてくる影を振り払って、一歩、後ろに下がる。


「……とすれば、だ」


 そんな私を馬鹿にしたように、ミラクは言う。


「お前が先程さえずった理論に従うと……最初にお前が、俺を受け入れるべきだろう?」


「……!」


 ――違う。

 そう言いかけて、私は気づく。……否定できない。

 自分で口にした言葉が、今になって刃の向きを変える。

 守るために口にしたはずが、私自身を追い詰めていく。


 喉が詰まって、息が浅くなる。それでも、苦しいのは呼吸だけではない。

 私は、愚かだった。正しさに縋っていれば、何もかも守れると思っていた。

 考えようとするほど、ミラクの論理が絡みつき、身動きが取れなくなる。


「……っ!」


 ――腕を掴む感覚。

 痛いほど強く掴む力が、私を現実に引き戻す。


「……ラキ?」


 背後には、ラキがいた。ラキは何も言わず、ただ私の腕を掴んでいる。その手は震えていて、抑えきれない怒りが伝わってくる。


「……もういい」


 声は低く、短い。


「サキが話すと言うからしばらく様子を見ていたが、ミラク、お前の詭弁はもう十分だ」


 ミラクは、目を細めた。その目には、興味深そうな光が宿る。


「……割り込むなと言ったはずだが?」


「お前の言葉を黙って聞いていろと――?」


 ラキは、私とミラクの間に割って入って、双剣を構える。その刃が、朝日を受けて鈍く光った。殺意を宿した、冷たい光。


「――できるわけがない」


「……分かるか? お前の言葉では、足りないんだよ。お前は()()()に過ぎない」


 ミラクは、笑う。愉悦に満ちた、冷たい笑み。……人の神経を逆撫でする笑顔だ。


「……かわり? 何を、言って――」


 私が思わずこぼした声に、ミラクは満足げな顔をした。ここでミラクの言葉に反応するべきではなかったと後悔するが、もう遅い。


「……ラキ。お前では、決してサキを満たすことはない」


 ミラクは、楽し気に続ける。何もかもを見透かしたような余裕は、すべてがミラクの予定通りに進んでいることを告げる。


「なぜなら、俺の言葉は真実だからだ。サキは――」


「もう黙れ」


 ラキが、遮る。声に、怒気が滲む。


「それ以上、サキに――」


「サキに、何だ? 真実を告げるなと?」


「……」


 ミラクの言葉に、ラキが押し黙る。


「お前も、分かっているだろう?」


 ミラクは、ラキを見つめる。その視線は、容赦なくラキの核心を突いていた。ラキは不快そうに体を震わせる。


「サキは、俺を求めている。理解を、受容を、そして――」


「口を閉じろ!」


 ラキの怒声が森を震わせた。殺気が、一直線にミラクへ向かう。ラキが踏み込んだ、その瞬間。


「……!? ……サキ、何で!?」


 ラキが振り返り、驚愕の声を上げる。

 私が、ラキの腕を掴んだからだ。

 ラキの目には、ミラクへの怒りと私への戸惑いが混じっている。


「助けてくれたことは、感謝してる」


 一拍、間を置く。


「でも……ここは、私が向き合う」


 膝に力が入らないのを自覚しながら、それでも地面を踏みしめた。

 逃げない、と決めた自分を、裏切らないために。


「……サキ」


 ラキの声が低くなる。止めたいのに、止めきれない声だ。


「ただ……その、本当に勝手なのだけれど、お願いがあるの」


 私は、ラキを見た。

 守ろうとする視線と、踏み込むことを恐れる視線が、同時にそこにあった。


「――そばにいて」


 それだけ言った。ラキは、しばらく黙っていた。拳を握りしめて、何かを堪えているように見えた。葛藤が、その表情に現れている。


「……分かった」


 ラキは、剣を下ろす。しかし、その手は柄を強く握りしめたままだった。


「だが、ミラクが一線を越えたら、容赦しない」


 ミラクを睨む。その瞳には、静かな殺意が宿っていた。

 張りつめた沈黙。その中心に、ミラクが立っている。


 ミラクは私とラキを順に見渡し、すべてを確かめるようにして口を開いた。


「サキ。お前は、俺を受け入れたいと言った。俺を……理解したいと言った」


 ミラクの声が、静かに響く。低く、重く。


「ならば――」


 影が、蠢く。足元の影が、不自然に動き始める。まるで生き物のように這い回り、うねり、広がっていく。


「俺の行いも、受け入れられるのか?」


 受け入れられる訳がない――ミラクの言い草からは、そんな確信めいた狂気が滲んでいた。そして、彼の期待に応えるように地面を揺らめく影から、何かが現れる。


 それは、小さな、人の形。


「――え」


 私は、息を呑んだ。心臓が、止まりそうになる。全身の血が、冷たくなる。


 しかし、そんな動揺も許さないほどに、突きつけられた現実は、重くのしかかる。


「ラナ……!?」


 そこにいたのは、意識を失ったラナだった。薄い寝衣を纏ったまま、影に包まれて浮かび上がるその姿は、まるで悪夢のようだった。人形のように、力なく。


「……ッ」


 その姿に、無意識に噛み締めていた奥歯が鳴る。

 ……ラナは、ミラク――お前が、勝手に触れていい存在なんかじゃない。


「ミラクッ……!! ラナに何をしたの!?」


 自分のものとは思えない、憎悪に満ちた声が出る。

 槍を握る手に、力が入る。血が、槍の形を変えて、刃を研ぐ。

 今すぐにでも、ミラクの喉を掻き切ってやりたい。

 影を纏った体を、切り刻んで、地面に這いつくばらせてやりたい。


 あの子は――私が、守るべき存在なのに。


「……ラナ……!」


 ラキの声が、震える。怒号でも、悲鳴でもない。喉の奥から零れ落ちた、押し殺しきれなかったそれは――恐怖だ。

 失うかもしれないという想像が、理性より先に身体を支配した、剥き出しの恐怖。


 私は、その声に我に返る。

 ――ああ、そうだ。ラナは、ラキの姉だ。

 私が、ラキより先に取り乱してどうする。


 ……この怒りを、抑えられるのかは分からない。でも、私が冷静にならないと……!


「貴様……ッ!」


 ラキの足が、半歩、前に出る。剣に力が籠もり、殺気が一気に立ち上った。


 私は、咄嗟にラキの腕を掴んだ。


「……っ、ラキ……待って!」


 声が、荒れる。ミラクを今すぐ斬り伏せたい衝動が、自分の中にある。でも――罠、かもしれない。今飛び出せば――ミラクの思うつぼだ。

 冷静に。冷静にならなければ。


「……っ」


 ラキは、私の手を感じて動きを止める。

 拳を握りしめる。全身が震えている。

 

 ミラクは、そんな私たちを見て――満足そうに微笑んだ。


「落ち着けよ? ただ用が済んだから、返してやろうというのに」


 影が揺れる。

 次の瞬間、ラナの体が――影から放り出されるように地面に降ろされた。


「ラナ……!」


 思わず声が出る。


「……っ」


「サキ、放せ。俺は冷静だ」


 ラキはとても冷静には見えないけれど、目は据わっていて、覚悟を持って行動しようとしているように見える。


「……うん」


 私は手を離した。

 これ以上、ラナをミラクの目の前の地面なんかに、寝かせていたくない。その気持ちは私もラキも同じだ。


 ラキが、動く。

 ミラクから目を離さずにラナに近づいていく。警戒を解かずに。一瞬たりとも、油断せずに。


 私も、槍を構え直す。ミラクとラキの間に立つように、位置を変える。ラキを守る。ラナを守る。そのために。


 ミラクは、動かない。

 出来の良い見世物でも眺めるかのように、こちらを見ていた。


 ラキが、ラナの傍らに膝をつく。

 視線は、ミラクに向けたまま。一瞬たりとも、ミラクから目を離さない。

 片手で剣を構え、もう片方の手でラナの首筋に触れる。脈を確認する。

 息を呑み、沈黙。


「……生きている」


 しかし、ラキの掠れた声に滲んだ安堵はほんの一瞬だった。

 影に包まれていたこと。ラナがミラクに連れられていたという事実。

 それらが、遅れて胸を殴る。恐怖に、無力感に苛まれる。

 次の瞬間、怒りが遅れて込み上げる。奥歯が、ぎり、と鳴る音が聞こえた。

 ――今すぐ斬り伏せたい。衝動が、身体を突き動かす。


 それでも、ラキは深く息を吸い込み、その衝動を無理やり押し殺した。

 その様子を、私は横目で見ていた。


「……よかった」


 ラナの命の無事に小さく息を吐く。だが、油断はできない。


 ミラクが、一歩動いた。


「……!」


 私は、即座に槍を向ける。ラナを庇うように立ちはだかる。血を操作して、刃を鋭くする。

 ラキも、剣を構え直す。


 しかし、ミラクには特に何かをしようとする気配はない。


「続けろ。邪魔はしない」


「……」


 信用できるわけがない。でも、ラキは決断した。


 ラナを抱き上げ、木陰へ向かって、駆ける。


 その背を守るように、私は一歩前へ出る。

 ミラクとの距離を、詰めさせない。


 ……一歩でも踏み込めば、その時は殺す。その意思を込めてミラクを睨む。

 

 だけれど、ミラクは動かなかった。

 最初からこうするつもりだったのか、ただ愉しげに笑っている。

 

 木陰で、ラナの体を地面に下ろす微かな音。

 ラキは膝をつき、背を向けないままラナの状態を確かめる。目立った外傷がないことを確認すると、ラキは上着をラナに掛けた。

 その間、ラキの殺意と注意は、一瞬たりともミラクから逸らされていない。


 そして、ラキが、立ち上がる。

 剣を構え直し、私の横に並ぶ。二人で、ミラクと対峙する。


 私の呼吸は、まだ荒い。槍を握る手に、力が入りすぎて痛い。


 ラナの、あの姿が頭から離れない。影に包まれた、無防備な姿。


「……っ」


 また、怒りが込み上げる。……許せない。私たちがいない時に、ラナを狙うなんて。ミラクを、絶対に――。


「サキ」


 ラキが、小さく呼ぶ。


「……分かってる」


 私は、短く答える。分かっている。冷静にならなければいけない。


 でも――怒りが、収まらない。


「……ミラク」


 私は、ミラクを睨む。

 これまでにないほどの、殺意を込めて。


「あんたは――絶対に、許せない」


「……何だ、案外そっちだったのか? お前の心を乱すのは」


 ミラクは興味深そうに言う。


「……は?」


 私はミラクの言葉の意味がわからなくて、ただ睨み返す。どう言う意味だろうとラキに尋ねるように視線を向ける。だけれど、ラキの意識はこちらにはなかった。

 

 ラキの目は無意識のうちに、何度もラナのいる木陰を振り返る。

 その姿に胸を締め付けられながら、私は小さく呟く。


「……大丈夫。ラナは、生きてる」


「……ああ」


 ラキの声は、まだ掠れていた。安心しきれない声。


「ラキ……お前らの姉弟の情というものも……いつか味わいたいものだ」


 ミラクの声が、冷たく響く。ラキにとって踏み込んではならない領域を、自覚してか無自覚かは分からないけれど、ミラクは嘲笑と共に踏み荒らす。

 

「……黙れ」


 ラキの声が低く落ちる。

 感情を削ぎ落としたような声音だった。怒りよりも不快や嫌悪が先立ち、ただミラクを拒絶していた。


「そう殺気立つな。お前の姉は、無事だったろう? ……今のところは」


「……っ」


 ラキの全身から抑え込んでいた殺気が滲み出て、毛が逆立つ。

 ミラクはそれを見て、追い打ちをかけるように笑みを深める。


「だが――……」


 ミラクの視線が、地面に逸れた。


「もう一つ、良いものを見せてやるよ」


 ミラクの声からは、愉悦の混じった期待が滲む。先ほどまでとは打って変わって、まるでこれから最高の見世物を披露する演者のようだった。


 ミラクの足元の地面。深い影から、何かが現れる。

 それは――。


 槍。


 血に塗れた、槍。


「……これ、は……」


 私は、息を呑む。声が、震える。

 その槍を見た瞬間、体が凍りついた。血の気が引いて、足先から全身が冷たくなる。

 

 ――見覚えがある。

 柄の部分。使い込まれた質感。握られた痕。

 刃の形。何度も見た、独特の曲線。

 ……なんで。


「……ライトの、槍……?」


 私は、記憶を辿りながら声を出した。ただ、記憶の中の槍と一致するそれを不思議な気持ちで見ていた。


「ああ」


 ミラクは、淡々と答える。あまりにもあっさりと、その事実を肯定してしまった。


「なんで、それを、ミラクが――」


「お前がここに来るまでの間……運良く、時間が合ったんだ」


「…………」



 ……ありえない。……でも。……まさか――。


 言葉が途切れる。

 私は、()()()()()に、すぐには辿り着くことができなかった。頭が、追いつかない。

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