序章 災厄
視界に色が戻る。
夕陽に負けない紅の輝きが辺りを照らす。
火だ。
紅蓮に燃え盛るそれは、あらゆる物を火種として、全てを飲み込まんと盛り焚けている。
「――――」
耳に音が戻る。
幾つもの悲痛な音が響き渡る。
悲鳴だ。
血を流し、恐怖し、化け物に喰われている人達の助けを求める声だ。
「か……っはぁ……!」
呼吸が戻る。
鉄臭さや、生臭さなどが混じりあった臭いが肺に満ちる。
血や臓腑、化け物の臭いだ。
吐き気を催すが、内臓はほとんどが零れてしまっているし、中身も空だ。
「ま……だだ……っ」
鉄の味が広がる。
口内の異物を吐き出す。
少々の血と幾つかの欠けた歯だ。
引き抜かれた舌が再生したことで言葉をはっきり喋る事ができる。
「……あ」
熱や痛みが全身を再び駆け巡る。
のたうち回りそうな激痛の中、右手に硬く滑らかな感触を感じる。
お菓子の缶容器だ。
それはとても大事な物で、大切な人から受け取った物で……。
「ぐっ……」
立たなくては。
手足はもう直っている。
圧砕、貫通、千切れた部分はどれも綺麗になっている。
腹部から散乱した内臓も体内に収納される。
それは掃除機の自動巻取りを思い出させる様だ。
千切れてしまったものは残ってしまうが問題は無い。
「ぎぁ……かはっ……」
途方もない不快な感覚と共に欠けた部分が再生する。
長いようで短い時間で完全に体は直った。
立ち上がった体は血に濡れているが傷一つ無い。
損害と言えば衣服が血で汚れ、大きく破損してしまっているぐらいか。
「化け物……」
口から零れた言葉。
そいつを形容する言葉はそれぐらいしか思い浮かばなかった。
だが、これ以上適切な表現はないと思う。
辛うじて人の形をしたナニカ。
二本の足で直立し、二本の腕を振り回し、一つの頭には深紅に輝く双眼と裂けた口があった。
全てが黒に染まるそれは災厄だった。
「caca――!」
そいつは嘲笑う、自らが起こした災厄に。
そいつが生み出した小さな化け物達は、瞬く間に成長し、街一つを阿鼻叫喚の地獄に変えてしまった。
そいつが腕を振るうたびに、轟音と共に幾つもの家屋が吹き飛んだ。
そいつが何かを叫ぶだけで、不可視の何かが地形を抉り変えた。
そいつは人々の恐怖に慄き泣き叫ぶ姿を嗤っていた。
そいつはただ甚振るためだけに、一人の子供を不死に近い何かに作り変えた。
「――――っ!」
背後から響く声。
今、守らなくてはいけない大切な人。
幼い彼女が泣いて叫んでいる。
何て言っていたのかは覚えていない。
自身の全てを化け物に向けていたから。
「この……化け物がぁ!!」
声を出せ、張り上げろ。
この身が、心が健在であることを。
足を前に、走り出せ。
闘志が消えてないことを示せ。
少しでも意識を逸らせば、この甚振りは終ってしまう。
そうなれば、彼女の身が危ない。
化け物の狙いは彼女なのだから。
この絶望的な甚振りにも勝機はある。
ただ一つ、時間を稼ぐ事。
「わああぁ――!」
幼い体で振り上げた拳は届かない。
自身の身長の倍程まで伸びた腕に捕まえられたからだ。
「ぐっ――あっ」
喉を掴まれ、頚椎ごと圧砕された。
酸欠の苦しみと痛みに視界が白く染まる。
「ca!」
化け物はお構いなしだった。
面子のように地面に叩きつけられた。
化け物は伸びた腕をしならせ、地面に赤い花を咲かせる。
「がっ……ごぁ……っ」
「cululu――」
痛みに苦しむ様子が見たいのか、腕を縮めて目の前に吊り下げられる。
深紅の双眼は語っていた。
……もう諦めたらどうだ?
嘲りを籠めたそれは十分に伝わった。
だから。
「ま゛、だまだだ……化げ物……」
ほぼ再生した口で答え、ぺっ、と血を吐きつけてやった。
前に見た映画の真似だ。
少しでも嫌がらせになれば、とやったが効果は大きかった。
「cua――!」
格下の、それも子供に侮られる、というのは我慢ならなかったようだ。
四肢を千切られ、内臓を抉られ、脳内をかき混ぜられた。
直る傍から裂かれ、抉られ、潰された。
そんな永遠とも思えるような痛みは唐突に止んだ。
再生中で霞む視界に広がったのは、子供程度なら丸呑みできそうな裂けた口。
遊びは終わりのようだ。
……間に合わなかったか……。
自身の迂闊な挑発で好機を失った事。
大切な人を守れなかった事に自責の念に駆られる。
生臭く、凶悪な牙に飲まれるその時、
「cu!?」
希望は来た。
風を切り裂いて来たそれは矢だ。
幼いといえ、自身の腕ほどある矢は、化け物の片足を貫いて地面に縫い付けた。
力ずくで引き抜こうにも足はピクリとも動かない。
「――っ!!」
驚愕する化け物に、二の矢三の矢が飛来する。
回避するには足が動かない。
「cuaa――!」
化け物は回避した。
動かぬ足を自らの手で切り捨てて。
しかし、矢の射手はそれすら読んでいた。
それは輝く光の矢。先程の矢よりは小さいが、威力は比ではないことが一目でわかった。
狙いは化け物の頭。
地面を転がり、片足を失った化け物は即座に逃げられない。
「――え?」
トンっという衝撃。
胸に刺さる、半ばまで埋まった矢を見て理解した。
盾にしたのだ。今食べようとした自分を。
思わず引き抜こうと両手で掴もうとしたが、出来なかった。
「が、あああ――!」
身体の内側から食い荒らされるような激痛。
連続して襲い掛かる痛みに、ただ叫ぶ事しかできなかった。
痛みにのたうち回る視界には、
「――っ!!」
悲鳴を上げ、こちらへ必死に手を伸ばす彼女と、
「caa――」
彼女に喰らいつこうとする、化け物が視界に映っていた。
助けられなかったと自らを呪う。
大切な者が穢される様を白くなる意識の中で見つめていた。
……お前だけは絶対に許さない。