小話1
もし悪意に形があるとしたら、
悲しみに色があるなら。
彼女は「それ」を模したナイフを握りしめていた。
消えてなくなるものがたり。
小話1
男が引きつった形相で暗がりを走る。よほど驚いたのだろう、手に持っていた皮の鞄がアスファルトの上に転がって、無様な音を出す。僕は鞄を横目にその脇をすりぬけるが、墓地に剣が突き刺さった彼らのシンボルが描かれているのを見て――、舌打ちをして思わずナイフを持つ手に力がこもる。無抵抗の女子供を殺すのが正義か? 泣いて助けを求める人間に、無慈悲に杭をつきたてるのが正しいのか。そんな正義があっていいはずがない。
仮にそれが正義であったとしても、大切なものを守るという僕の信義の方が正しいはずだ。
男はちょうど蛍光灯の途切れた場所を見計らい、路地を曲がる。その後姿を負うが、たどりついた先に男は居ない。隠れたのだろうか。僕は深入りしないようにして、呼気を整える。状況は有利だ。助けを呼んだとしても、誰かがこの場所にたどり着く前に、こっちはこの刃を喉元へ、突き立てさえすればいいのだから。
ひゅっ
と風を切る音は、耳元で聞こえた。振り向けば、とがった切っ先を向けて、男がこちらをにらんでいる。初動を避けられたことに、さしたる動揺はない。男は落ち着いた様子で構えて、その先端を僕の喉元へと向ける。こっちは体制をたてなおせていない。体をねじり、左手の手のひらで男の切っ先を受け止める。ずぶり。男が笑ったのが見えた。
僕は痛みを感知する前に、ナイフで男の首を撫でた。すとん、と糸の切れた人形のようにその場にうずくまる。「化け物」と男はつぶやいた。血だまりが広がっている。もうすぐ失血死するだろう。こちらを見上げた視線には、恐怖と、憎しみがこもっている。ざまあみろという言葉は、夜の闇に溶けていく。
余韻に浸る暇はない。あと2人殺さなければならないのだ。手元のナイフの血をふき終わると、男が動かなくなっているのが見えた。持っていたナイフを男に握らせる。
深呼吸をして、空を見上げる。まるで突き刺さるようにとがった三日月。化け物なものか。僕は人間だ。化け物と対峙するのが生業のこいつも、まさかただの人間に殺されるとは思っていなかったのだろう。その油断が命取り。自分たちが人間に復讐されることはないという、狭い世界の中で生きている。
この結果は特別なことはない。ただの因果応報だ。奪われたものを奪い返しただけ。殺されたから、殺しただけ。
そして僕の信義は……殺されないように守るだけ。
ただ、それだけだ。
左手がしびれていた。男から受けた刃傷がうずいている。どくどくと、脈打つたびに血が流れる。いまさらのように思い出して、そっと左手を抱きしめる。