『蜘蛛』
「臆病と 言い得て妙と 嘲笑う 蜘蛛の巣に住む 救世主かな」
一度躓き、足を挫くと暫らく動けない。またそのうち動けるようになる。
しかし、いざ歩もうとすると、挫いた時の速さで歩くことは困難で。
それなら完全に痛みが引いた時、元の速度で歩けば良い。
人とは厄介な物でそうではないらしい。再び足を挫く事を回避しようと、その歩みを弱めてしまう。
臆病になれば足を二度と挫かない為に、躓かない為に立ち止まり、空の雲の流れを眺めて、月と太陽の鬼ごっこを見ているだけになる。
元の速度、もしくは痛みを覚えた時の速さ以上で歩くには、脳に鮮明に植えつけられた痛みの記憶を完全に忘れなければならない。または乗り越えなければならない。
…残念ながら、私はそんなに物忘れが酷いほうでは無い。負の記憶は固定されてしまう。そして痛みを乗り越えられるほどの冒険者でもない。世間で言うところの臆病者であろう。
臆病風に吹かれたなどと世間で言うが、その風でさえ鎌鼬のように身を切り裂いていく。
風は「置いて行くぞと」吐き捨てて、痛みにうずくまる私を横目にそそくさと過ぎ去っていく。
倒れ挫いたのが夏ならば、暑さと痛みの熱が混ざり誤魔化せたかもしれない。
挫いたのが身を縮こませる冬だったから軋む関節と身を切る寒さと相反して、挫いた部分が熱を放ち、知りたくも無い痛みを意識しなければならないのだろう。
ところがどうだ。痛みに堪えながら、ふと周りを見ると鎌鼬や臆病風など存在しないような時間の流れの中、人は颯爽としっかりと歩いて行くではないか。
私は先ほどまでのきりりとした痛みとは違う金属の球の如き鈍痛に加え、焦燥感、劣等感に苛まれる。目に見えないそれらに絡め取られ、途方に暮れながら、蜘蛛に食われるという救いを待つのみとなる。