嘘の弾丸
依頼主の依頼。執行者である私に与えられたモノは一発の銃弾が篭められた拳銃と一つの暗殺依頼。
暗殺自体は何度もしてきた。しかし、今回の暗殺依頼は今までのものとは完全に別物だ。
私は与えられた拳銃を革の黒いジャンパーの内側に潜めてから歩いた。持っている武器はそれだけだ。
向かう先は思い出が詰まっている枯れた桜。
その桜にもたれかかっている人がいた。灰色のロングコート、腰に巻かれた黒い革のベルトには似合わない程派手な装飾の施された長剣が挟まれている男。初めて会った時から変わらない彼の姿だ。
私は遠目に彼の姿を眺めた。手でジャンパーを探り、拳銃が確かにあることを確認してから近寄った。
彼は私を見つけ、顔を綻ばせながら手を上げた。
「遅かったね」
「ええ、少し準備に手間取ってしまって」
嘘だ。いつもの服を着て、拳銃を一丁持つだけの私が準備に手間取るはずがない。
あと三歩で彼に手が届く距離まで近寄った。この距離なら外さない。
周りには誰もいなかった。今日は聖誕祭があるから、町外れのこんな辺鄙な場所にくる物好きはいない。静寂に包まれた夜の空気で満たされている。
拳銃を向けた、彼に、私が。
与えられた任務は彼の暗殺だ。彼のような正義側の人間が悪側を垣間見ている状況は良くない。例えそれが見当違いで冤罪だとしても悪側と付き合いがある彼には可能性零の判断が下されず、故に暗殺依頼がきたのだ。
正義は悪と付き合いがあったが故に暗殺されることなったのだ、他でもない悪の手で。
拳銃を持つ手に震えはない。震えていればこの距離でも外す可能性が出てくるのに、私の手は震えるどころか微動だにしない。これでは外すことは出来ない。
彼は向けられた拳銃に驚かなかった。最初から分かっていた事のように受け入れた。
「そうか。もうきたのか」
「逃げてもいいのよ。もしかしたら逃げ切れるかもしれない」
「それは無理だ。君が失敗しても、他のマリアが僕を殺しにくるだろうし。それに、だ。君の腕は僕がよく知っているからね」
もたれていた桜から体を離し、真っ直ぐに私の方に向いた。銃口の先には彼の心臓がある。
不動の拳銃。女としての私は少しでもブレて欲しいと思う。だが一方で執行者としての私がそれを許さない。
月に照らされた私と彼。明るすぎて標的がよく分かる。
私は一度、目を閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇
桜がようやく満開になる時期だった、私が彼に出会ったのは。
私は町外れの辺鄙な場所に咲き誇る一本の桜に寄り添っていた。依頼を完了し、暇を弄んでいた結果だった。よりにもよってこんな桜を見に来たのはたまたまだ。
桜色と言うには濃すぎる桃色をした桜。綺麗などという感想よりも先に畏怖や戦慄を先に感じてしまう。だから私はこの桜を一目で気に入った。
しばらくそこで桜に背を預け、行き交う雲を目で追った。いつもより少し早い雲は急かされているようだ。
足音が聞こえた。遅いが確実に近付いていた。
私は逃げようかと考えた。なるべく人間との接触を避けようと思う職業病のようなものだ。だが、逃げようという考えは即座に否定した。相手が同業者であったなら、逃げたところで追ってくる。ならばここで迎え討った方が賢いと思えたからだ。黒い革のジャンパーの内側に手を差し込み、中にあるホルスターに納められた拳銃に手をかけ、すぐに動けるように身構えて足音のする方に目を向けた。
「そこに誰かいるのか」
木の向こうから現れた足音の主はおそらく私に向けて声を投げた。
灰色のロングコート、腰に巻かれた黒い革のベルトには似合わない程派手な装飾の施された長剣が挟まれている男。厄介な同業者に見つけられた。私は内心毒づいたが、一先ず身の危険は無くなったので拳銃から手を離した。
「マリアです」
適当に返事をしながら足元に咲いた花を足先でつつく。
相手の男は安心と言うには程遠いが気を緩めて近寄ってきた。お互い三歩で詰められる距離。油断だけはしてはいけないからだ。
「珍しいな。マリアはこんなところには来ないと思っていたよ」
「元来、マリアとは聖母を指します。桜を愛でることがあっても不思議ではないでしょう」
今では完全に違う。教会というとある宗教の信徒達が集う集団、その闇の奥にいる最も罪深き位階にいる信徒を執行者と呼ぶ。彼らは毎日二度教会に礼拝する。朝は自分の原罪を許される為に祈り、夜はその日の罪を許される為に祈る。そして許されたお礼に教会へ寄付を行う。
吐き気がする。罪を被せた組織に許されて金を払うなど、良くできたなどとは言い難いシステムだ。だが教会という力が無茶を可能にした。反逆すれば、未来がなくなる。
執行者に与えられた使命は単純にして明快だ。教会に多額の寄付をした依頼主からの仕事を、誰にも悟られないように遂行すること。ほとんどが、暗殺だ。
私も殺してきた。その数が両手の指を超えたくらいで数えるのを止めた。覚える行為が無駄以外の何物でもないと悟ったからだ。後悔もその時捨てた。感情はもとから死んでいた。
「そうだな。君みたいな女性が花を愛でるのは悪いことじゃない」
女性、そう評されたのは久しぶりだ。誰も彼も皆執行者としてしか見ていなかったし、それ以外の見方を持とうとしなかったから、女として見られたことなど保身の為に豪邸に引きこもっていた貴族に色目で取り入った時くらいだ。無論依頼を受けてのことだが。
だがこの男は、素の私を見て女性と評した。胸が熱くなった。理由は分からないが、男を直視できなくなり俯いた。興味のない素振りを見せれば向こうが勝手にいなくなるだろう。
足元に咲く花を踏み潰した。
「君は他のマリアとは違うね。また会わないか」
声が近かった。いつの間にか三歩の距離は詰められていて、反射的にジャンパーの下に伸ばされた腕は男の手によって止められていた。驚いた顔のまま男を見ると、笑っていた。
軽くあしらわれたことが歯痒くて仕方がない。私は抵抗しようという一心でもう片方の腕を男の剣に伸ばした。しかしそれすらも阻まれ、両手を頭の上で男の手によって拘束された。樹皮が私の手を刺激して、ちょっと痛い。
さっきよりも至近、吐息がかかる程の位置に男の顔があった。
「危ないところだ。僕の剣に触れたらどうなるか、君には容易に想像がつくだろう」
落ち着いたら思い出した。この男は教会騎士だ。教会の顔であり、行為全てを善とすることを神により約束されている集団の一人。腰に下げられた剣は神から与えられたものとして所有者以外の接触は禁止されている。もし仮に触れたならば、大罪として斬られなければならない。
そんなことすら失念するほど取り乱していた自分に腹がたつ。
体を捩り、どうにか逃げようとするが、男の手は私の腕の拘束を解かない。
「もう落ち着きました。だから離してください」
「まだ、答えをもらっていないけど。また会ってくれるか」
笑われながら言われると腹が立ってしまう。だから半分ヤケになりながら答えた。
「分かりました。会います。だから早く離して」
男の手が離れ自由が戻った。笑ったままの男を睨みつけ、手に付いた樹皮を払い落とす。
私と彼はこうして出会った。
◇ ◇ ◇ ◇
目を開けた。彼は変わらず立ったままだった。どこかに行ってくれていたら、もう少し長生き出来て、私が彼と生きる覚悟が出来ていたかもしれないのに。
でもわかっている。そんな事は有り得もしないもしもの話だっていうことくらい。教会に育てられた私が、その教えを生きる糧にし続けた私が、そんな希望に満ちたことを出来る訳がないことくらい、分かっている。
彼は相変わらずいつもの笑みをして立っている。どうして、なんて聞いても意味がない。彼もまた、教会に育てられ、その教えを体に叩き込まれた人間なのだから。彼の笑顔は教会の顔として作られたもの。本当の笑顔なんてあるのかすら分からない。
「桜の下で出会って、桜の下で別れる、か。運命的だね」
「そうね。でも私、運命って信じないの」
「前は好きだったじゃないか。嫌いになったのかい」
「あなたがいなくなる運命なんて信じたくないの」
持っている拳銃を強く握った。そうしないと感情を抑えきれそうにないから。撃鉄を下ろさず指さえ掛けないまま照準だけは外さない。
桜が風に吹かれて揺れる。いっそ桜が無くなれば胸を締め付けるような痛みも和らぐのではないかという気もする。けれど、風がいかに強く吹いても、桜という木は吹き飛ばせない。
彼は僅かに表情を曇らせた。よく見ないと気付けないほどの変化だったが、私は見逃さなかった。見たくない顔だった。そんな顔をさせたくなかった。
撃鉄を起こした。乾いた金属音が響き、彼は私を見た。曇った表情が消えて晴れやかそうだ。――そんなはずないだろうに。
「撃つのか」
「撃たないと」
そうか、と彼は呟き、そうだよな、と一人納得した。もう生きようとしていないようで腹が立つ。いつもは好きだった彼の性格が、今の私を苦しめる。
どうして、と聞いても、どうしても、としか答えないだろう。葉のない桜が妙に恨めしい。どうして桜は一度散ってしまうのだろうか、ずっと同じ葉を付けていてはいけないのだろうか。
彼と会うのは楽しいことなのに笑えない状況が、憎らしい。
遠くから爆発音が聞こえた。聖誕祭用の打ち上げ花火が上がっているのだろう。
花火か、私はまた昔を思い出した。
◇ ◇ ◇ ◇
桃色の花びらがすべて落ち、すべてが葉桜になったころ。私は彼と出会った桜の木に寄り添って空を眺めていた。
服装はいつもと違い浴衣姿だ。今日は夏祭り。彼と一緒に回ることになっているのだ。だがここに彼がいないと私には別の意味を含んでいる。浴衣の裾に手を入れた。そこにあるナイフを手で弄ぶ。
私はここに殺しにきたのだ。そうでなければ、教会がここへくることを認めてくれる訳がない。このナイフは私物で、教会からは銃を与えられている。それは太腿のあたりに縛り付けている。
それにしてもと、私はナイフを弄っていた手を胸の前に持っていく。今日の空は雲がない。夏祭りの最後には花火があがるので、綺麗に見えることだろう。今まで夏祭りの日は教会の地下で十字架に一日中祈り続けていた。だからこうして外で過ごすのは始めてだ。といっても明日は一日中祈り続けなければならないのだが。
視線を戻すと目の前に彼がいた。相変わらず私に気配すら感じさせない。
「ごめんね、夏祭りの初めは教会騎士が教皇を警護しなければならないんだ。待ったかい」
「待つのは好きよ。来るか来ないかって運命で決まっていると思わない。運命は好きなの。それは教会から決められた私の道じゃない、私だけの道だから」
「そう。僕も好きになろうかな。君が好きなら悪いものじゃなさそうだし。じゃあ行こう」
彼は私の手を取り騒がしい音の方に歩いていく。ここからそこまでは遠い。その間はほとんど二人でいることになる。繋がれた手から温もりが伝わってきて、それだけで私の体はどんどん熱くなる。浴衣が熱い。
騒がしさが近い。出店がちらほらと見えるようになってきた。美味しそうな匂いに楽しそうな音、おおよそ私がいることを許されない場所。少しだけ、ここに来たことを後悔してしまう。それと一緒に足も自然とこれ以上先へはいかないとばかりに地面を踏みしめて、そこに留まろうと踏ん張る。
だが、私の足は遅くなるどころかより速くなっていた。私の意志ではない。彼が握っている私の手を私が後ろに引くよりも強い力で引っ張っているからだ。抵抗しようとしても、私の力では彼には到底及ばない。
「行こうよ。きっと楽しいから」
「……はい」
祭は私にとって初めてのことばかりだった。果物を飴で包んだお菓子、飴を囓るとその下からは甘い果汁が滲み出てきた。雲のようなお菓子を食べると白い綿が髭のように残っている。氷を砕いたものにシロップをかけたものを食べると、美味しかったけど頭がきんきんと痛くなった。
彼は私がそんなことに反応するたびに嬉しそうに笑った。初めてをたくさん貰った。幸せな時間が流れ、次第に私と彼の距離は縮まっていく。
バン。空に大輪が開いた。綺麗だった。
そして、私と彼との間に絶望的な間ができた。
私は彼から離れ、彼も私を追わなかった。きっと気付いていただろうに追わないでいてくれた。それが嬉しくもあり、悲しくもある。なぜならそれは私と彼との間に絶対に越えられない壁があるということだからだ。
溢れかえる人の間を滑るように抜け、標的を見つける。見た目は品の良い好青年で隣には私なんかとは比べものにならない女性を連れている。しかし、裏では教会を脅かすほどの勢力を抱えていて、反旗を翻そうとしているらしい。らしいというのは、その情報の真偽は私には関係のないことだからだ。
それが真でも偽でも、この銃はきっと私に渡されていたのだから。
走りながら器用に浴衣を捲る。人が多いし私自身も動きを止めないので、誰も気にするまでは至らないようだ。太腿に巻き付けてある銃を引き抜き、それを握ったまま腕を袖の中に隠す。
消音装置が付けてある銃。持った瞬間に安全装置を外し、トリガーに指をかける。そして慌てている少女を装い近付き、そのまま偶然を装いぶつかって――――。
花火の音が私の耳に届いた。私は彼と待ち合わせをしていた桜の木にもたれていた。足下の雑草を踏みにじりながら花火を見ていた。ここからでも見れるんだな、とそう思いながら。
袖に空いた穴はそれだけで私の今を表しているようだ。
「ここにいたのか。探したよ」
わざわざ足音を立てて彼は私のところにきた。三歩で届く距離まで近づかれて、ようやく目線を下ろした。相変わらず、彼は笑顔だった。
その笑顔が眩しい。見てられないので視線をさらに下ろす。踏みつぶした雑草がひどく惨めな感じがしたので、隠すようにまた踏んだ。
「今日は楽しかった」
唐突に彼が聞いてきた。
私は答えるのを躊躇った。今の気持ちで答えられるようなものではなかったからだ。
「僕は楽しかったよ。君と一緒に回れたからなおさら楽しかった」
「私も、あなたと回れたから楽しかった。けど、最後の最後で私は楽しい時間を捨てちゃった」
「捨ててないよ」
驚いて顔を上げた先には、悪戯っぽい顔をした彼。
「今日は不幸にも一人の男が、自分の持っていた銃の暴発により死んでしまった。これが教会の最高権力である教会騎士が出した結論さ。君は何もしてないよ。人混みに流されてここについてしまっただけでしょ」
そんなことできるはずがないと、私は思わなかった。彼は教会騎士だ。その行動の全てを善とされている集団の一人。彼が言えば月さえ太陽になる。だから今回もそういうことだったのだろう。
私はそんな彼に呆れながらも、嬉しい気持ちでいっぱいだった。しかしそんなことをおくびにも出さずに、いつも通りの無表情を作ったつもりで訂正することにした。
「私は今日、とっても楽しかったわ。今度はもっと近くで花火がみたいわ」
それは私なりの、彼の求めに対する答えだった。
◇ ◇ ◇ ◇
バンと花火の音が私の耳に届いた。初めて夏祭りに行った日と同じ場所で花火を見る、こんな素敵な状況がちっとも嬉しくない。彼も照準も動くことはないと諦めてしまった。
「私はあなたを殺すわ」
はっきりと言った。こんな時普通の女性だったら震える声にでもなったのだろうかと、どうでもいいことを考えながら銃を握る手を見た。
と、私の腕はぴくりとも動いていなかったが、引き金にかける指は小さく震えていた。そこだけが自分の本当の気持ちだと思った。
「……一緒に逃げない」
答えの分かっている問いを投げた。きっと最後の最後まで私は彼が思い直してくれることを期待してしまったのだろう。ありえない答えが来ることを。
「それは無理だ」
最初と同じ答えが返ってきた。彼は自然体のまま、この運命に身を委ねている。教会の決めた運命に流されてきた彼は、自分が死ぬ最後の最後まで、自分の運命というものを持とうと思えないのだ。それが教会という大組織で教皇を除いて最高の地位にいる教会騎士の性とも言える。従順でなければその地位に置く意味がないということだ。
期待していなかったはずなのに、やっぱりその答えを聞くと悲しい。幾多の人を殺してきた私でも、本当に心を許した人を殺すのは始めてだ。今までと何が違うと、必至に思いこもうとしても、感情はそれを受け入れてはくれない。だが、それでも私は人殺しだ。この体は彼を殺すために必要なことを全て整えている。
「そう。もう聞かないわ。私があなたを殺す。他の誰かではなくて、この私が」
一度瞬きする。一瞬の暗闇の後、私は変わった。殺すための使い、執行者へと自分の気持ちを切り替えた。
思えば、私は彼を殺す対象として見ていなかった。だから、彼には敵わなかったのかもしれない。そう気付くと、今の私は直感的に彼に負けないと確信できた。
絶対に逃がさない。例え彼が反抗したとしても、私の弾丸は彼の心臓を撃ち抜き、その生涯を終わらせることができるだろう、いや、できる。例え指が震えていても照準はぶれない。
彼は、ああと頷く。全てを諦めているようで、その実、最後まで彼は彼のままだ。諦めているんじゃない、この姿勢こそが彼そのものなのだ。
彼が彼自身を揺らしたのは秋の日のあの時だけだ。
◇ ◇ ◇ ◇
天上窓からステンドグラスを通って神々しい光が降り注ぐ。ここは昼頃の教会。しかし、今ここにいるのは善良な一般市民でも、神の教えを説く司祭でもない。教会の巡礼者が座るための長椅子は今は脇に避け、石の地面に両膝をつき、両手を組んで黙祷する集団。そこに男はいない。全員がある一つの罪を背負わされた女達だ。
生きている罪。ここにいる大半、九割強は貴族が愛人との間にできてしまったいてはならない子供だった。男であるなら、どこかの工場や坑道に送られ一生こき使われる。女であるなら、ほどんどは娼婦として薄汚い館でその身を穢して生きていくことになり、残りは私のように依頼者の依頼を遂行する執行者となる。
その中で教会に踏み入れて良いのは執行者だけだ。他は既に人でありながら人ではなく、人の形をした何かだ。執行者であっても、朝と夜の二回教会で祈ることで人であるという証明をしなくてはいけない。
今日は休息日となった。朝の祈りの時にそう告げられた。私達にとっての安息日とは神様がお休みになった日ではない、依頼者からの依頼が無い日のことをさす。しかしだからといって、私達にとっては苦痛がないというわけではない。
時刻は昼。私達は朝食もまともに食べられないまま、まだ日も昇っていない時からずっと祈りの姿勢を崩すことなく今に至っている。そしてこれは日が昇っている間中ずっと行われる。膝が痛くなっても身動ぎ一つせず、両手がくっついてしまったのではないかと錯覚するほどの時間、教会に拘束される。
隣の同族の心音さえ聞こえてくるような静寂な空間。彼女達は自ら被っている罪を、被らせた相手に向かって祈ることで赦してもらおうとしている。
しかし、私は違う。私と彼女達では決定的に違うことがある。それは私は初めから教会に捨てられ、ここの教えしか知らずに育ってここにいるということ。彼女達のようにまっとうな社会というものを経験していないため、今の私が罪を被っているという当たり前の事実を、否定できるだけの社会的知識を持ち合わせていない。それに私にとって一日中祈るという行為は、記憶を持ってからよくあったので、苦痛ではなく日常の一部として行うことができていた。
「つまらないわ」
私は祈りを止めた。苦痛の有無ではなく、感情の問題として祈りの姿を変えることにしたのだ。立ち上がり、自然体のまま祈り続けている彼女達を見る。皆、私が祈りを止めているということに気が付いているだろうに、顔すら上げようとせず祈っている。それがここではもっとも賢い生き方だからだ。
教会の扉が開く。私は悪びれもせず、開いた扉の方を見た。本来この安息日に教会への立ち入りは司祭でも禁止されている。ここは今日一日教会でありながらこの世でもっとも地獄に近い場所となっているからだ。
その扉が開く。つまり安息を打ち破るものは、依頼だと決まっている。
扉にいるのはここの司祭だ。集団の中で一人だけ立っている私に目を向け、出てくるように合図を送ってきた。私はそれに反応することなく扉に向かう。
出たところにいたのは窓がカーテンで隠れて、中に誰がいるか分からないようになっている馬車だった。中に偉い人でもいるのだろう。ひいている馬にまで絢爛豪華な装飾が施されている。
私は無感動にそれを確認した後、踵を返した。司祭が私をここに連れてきたのは、依頼の重要性を確かめさせるためだ。つまり、依頼に失敗されて困るのは私ではなく司祭だということ。依頼に対して適切な人選ができなければ、この教会の司祭はやっていられない。
そんなこと、いちいち確認されなくても分かっている。私は依頼を実行する。
部屋に戻り、掛けてある黒いジャンパーと、机に置いていたナイフを取ってまた司祭がいるところへ行く。私の姿を確認すると、一丁の拳銃を私に手渡した。弾は二発。
「私は誰を殺せばいいのですか」
「すべてはここに記されています」
事務的な応対で渡されたのは一枚の紙。そこに記されているのは標的の数と場所。
標的は一人、場所はここからそう遠くない。歩いていける距離だ。書かれている備考を確認する限り、どうやらお忍びでこちらの方まで来ているようだった。
「そして、これは殺しではありません。悪魔に目を付けられる前に私達が彼を救ってさしあげるのです」
どっちだって構うものか。
司祭は私に向けて十字をきった。それには礼で答え、私は音もなく駆け出す。歩けばほどほどの距離だが、走れば日が沈む頃には帰ってこられるだろう。
それから休憩もいれて二時間ほど走り続けて、ようやく目的の場所についた。街の近くにある広場で、祭りのような騒ぎがある。どうやら宴会をしているようだった。
私は渡された拳銃を手で確認し、そして騒がしい宴会の中に音もなく侵入した。
祭りの騒がしさは最初と最後でまったく違っていた。標的はいつの間にか死んでいて、側にはその標的と敵対していた人の愛用する拳銃が落ちている。そして、それを発見されるころには私は既に帰路についているところだった。簡単だったが標的が一人になるタイミングを謀るのに時間がかかり、もうすぐで教会という頃にはもう日は完全に沈んでいた。
自分で勝手に課していたノルマをクリアできなかったので、その反省をするために私は、またあの桜のところにきていた。
「仕事の帰りかな」
そこに、いつもと変わらない姿で彼がいた。いや、一つだけいつもと違うところがあった。彼は自分の象徴たる剣を持っていなかった。
「剣はどうしたの」
「今日は僕としてここにきたんだ。だから置いてきたよ」
抱きしめられた。彼の暖かさが体中から伝わってくる。流石に疲れている体では彼の抱擁を解くことはできない。それに、私自身、とうとうという感じがしている。
「いいよ」
だから私は受け入れた。今日は一日中彼の暖かさを感じるとしよう。
この邪魔な服を脱ぎ去って。
◇ ◇ ◇ ◇
体を重ねて、一人の女となっていたあの日、彼も私もただの男女だった。何度も何度も行為を行い、日が明けるほどになってようやく終わった。それ以後は、一切交わらなかった。
初めての我慢できない感覚だった。今まで絶対に抱くことはないだろうと思った気持ち、聖典の中でしか説かれないと思っていた一つの感情を私は知った。
「好きよ」
拳銃を握る手に力を篭める。今生の別れだ、せめて笑顔で彼を見送ろう。
彼は一瞬驚いた顔をする。それから、私と同じように笑った。
「あなたのことが大好き」
念を押した。聖典では人は死んだら生まれ変わる。だから、生まれ変わった後も、また出会ってこの気持ちが生まれるように、私は想いを伝えた。
彼は頷いた。気持ちが伝わったのだと思う。一言二言、私に言って、それから静かに眼を閉じた。
バン、近くで花火の音が響いた。
真っ赤な血が舞う。
銃口からは硝煙が上り、すぐに消えた。
彼は静かに地面に倒れた。まるで眠っているかのような安らかな顔だ。
私はもう動くことのない彼の横に座り、彼の頭を膝の上に置いた。今にも起きてしまいそうな気がして、恥ずかしいという感情を覚えた。
役目を終えた拳銃に目を向け、それからポケットの中に空いている手を伸ばす。いつもは何も入っていないそこには、一つだけ救いがあった。
銃弾。私が今日使っている拳銃で使える弾。私が彼と一つになった日の記念にずっと持っていたものだ。あの日の依頼で、私が弾を使ったのは一回きり、渡された二発の内の一発は未使用のままだったのだ。それを銃に備え付ける。
執行者には死ぬ自由はない。あらゆる自由は教会で行われる祈りによって獲得されるのだ。だから、運命に逆らう術を知らない私に、本来ならこの銃でこの後どうするかを決める資格はない。それ以前に銃に弾を備える自由さえ、本来の私にはない。
「ありがとう」
お礼を言って、拳銃を頭の横へ持っていく。死ぬ自由すらない私は、しかし今だけは死ぬことが赦されている。
彼は言った、好きにしていいよと。その意味を謀りかねる私に彼は続けた、今日は剣を持っているからと。
そうだ、だから私は死ねる。それを善として、神に赦されたのだから。
バンと花火が上がった。
最後に私は重たくなっていく体への抵抗を止め、彼に乱暴に不器用な口づけをした。
私にお似合いな、血の味がした。