『いつかきっと君に』…結ばれた絆はいつまでも…
(表紙絵)
『いつかきっと君に』…結ばれた絆はいつまでも…
・・ ・・ ・・ ・・
「すーたか すーたか すーいすいと」
星を散りばめた穏やかな夜空に、のんきな声が響いています。
「お役がすんだら、ごちそう君に こんにちは……
お口のなかでパーリパリ……
なあ、いとしのザリガニくん。
……あちゃー、こいつはまずい」
声の主は、慌てたように地上へ降りていきました。
・・ ・・ ・・ ・・
ー起の章ー
『兄ちゃん、ボールいくよ』
『おう! おもいきりこい』
新太は、向こうの雲の中にいる弟に声を返しました。
ヒューン。
風を切りながら、ボールが飛んできます。
ずいぶん高いところへ飛んできたようですが、だいじょうぶ。
なんたって、足元はトランポリンのような雲なのですから。
『それっ!』
新太は勢いよくジャンプしました。
スパン!
グローブでボールをつかみ、そのままくるりと一回転。ふわりと降りようとした、その時でした。
……おや?
下に、小さな子どもがいます。
新太を見上げていますが、動こうとしません。体をひねって、なんとか避けました。
『あぶないじゃないか!』
両手で顔をおおってしまった子どもに言いました。でも、子どもは何も言わず、立ったままです。ぽっちゃりした指の間から、涙がぽろぽろとこぼれています。
『ごめん。強く言いすぎたみたい。おっとと……』
優しくなだめようとした新太でしたが、急に体が沈みはじめました。
知らない子どもが流した涙が、雲に穴を開けてしまったのです。
……た、たすけて!
叫ぼうとしましたが、声が出ませんでした。
雲のかけらをつかんだまま、新太はずんずん落ちていき…… ……。
バタン!
足をばたつかせながら、はっと目を覚ましました。
そこは、畳の敷かれた小さな部屋。隣では父さんが、牛ガエルのようないびきをかいて寝ていました。
「なんだ。夢だったのか」
新太は、ほっと息をつきました。
ここは、海沿いの町にある病院の二階です。
小学四年生の新太と父さんがいるのは、患者の家族が泊まるための部屋。
母さんは、ほかの患者さんたちと別の部屋にいます。お腹には赤ちゃんがいるのですが、具合が悪くて、もうひと月も入院しているのです。
新太と父さんが病院にいるのは、ついに今夜、赤ちゃんが生まれることになったからでした。
晩ごはんを食べている時に、
「もうすぐ生まれそうです」
と電話を受け、あわてて病院へ駆けつけたのです。
けれど、なかなか生まれてきません。そこで、病院に泊まることになったのです。
「ふふ、まだ生まれてもいないのに、弟とキャッチボールをする夢を見るなんて……」
にやにやしながらつぶやいた新太でしたが、急にもぞもぞと足を動かしました。
……おしっこしたくなっちゃった。
もしかすると、雲から落ちる夢は、おねしょをしないように起こしてくれたのかもしれません。
「トイレ、いきたい」
横を向いている父さんに言いました。
「フガガ……そんなの、ひとりでいってこい。ガガー」
父さんは、薄目すら開けようとしません。
「そんなこといったって……」
新太は、かぼそくつぶやきながら起き上がり、そっと部屋の外に首を出しました。
トイレは、てらてらと濡れているような廊下の端にあります。
その遠いこと、遠いこと……。
入り口にともる青い電球は、手の届かない別の世界にあるようです。
カクン、カクン。
風が吹き込んでいるのでしょう。
廊下の窓にかかったブラインドが揺れています。
「なにか出てきそう……」
怖いのと、おしっこがしたいのが重なって、体がブルブルと震えました。
振り返っても、父さんはいびきをかいたままです。
「えーい!」
新太は歯を食いしばり、歩きはじめました。
明かりがついているのに誰もいないナースステーション。
母さんがいる部屋を通り過ぎ……。
そろそろビクビクしながら、やっとトイレにたどり着きました。
「あー、すっきり」
用をすませ、ズボンを上げた時のことです。
《いない、いない》
どこからか、かすれた声が聞こえました。
ガチン!
体が凍りつきました。
……誰か、後ろに?
首に力を入れ、キリキリときしむように振り返りました。
けれど、便座のある場所は暗く、開いた戸があるだけです。
《いない……どこだ》
また聞こえました。
年をとったお婆さんのようなしゃがれ声。
どうやら建物の外から聞こえてきたようです。
開いた窓の向こうを、さっと大きな影が走りました。
「まずいよ。早く戻らなくちゃ」
新太は元の部屋に駆け戻ろうとしました。
けれど、肝心の足は棒のようにつっぱって、動いてくれませんでした。
やがて廊下から、
カリッ、カリッ……。
硬いものを引っかくような足音が聞こえてきました。
《かくれても、だーめだよ》
さっきの声が、足音とともに近づいてきます。
「おばけがやってくる……」
新太はガチガチになった手で、ポケットをまさぐりました。
握りしめたのは、母さんに渡しそびれていた小さなお守りです。
《そうら、出ておいで》
足音が止まりました。
ドアの端から、細い白い塊が、ぬうーっと出てきました。
「おばけ、たいさん!」
新太は、お守りを投げつけました。
ウガーッ、グルルルル!
お守りは、カパッと開いた口の中へ飛び込み、白い塊はスッテーンと後ろに倒れました。
「ゴクリ……なんだ、こりゃ」
喉を鳴らしながら起き上がったのは、おばけではありませんでした。
「鳥……」
大きさは、新太より少し小さいようです。
白い体に、先っぽが黒い翼。
鋭く伸びたくちばしは、銀色に光っているように見えます。
それは、動物園のバードゲージで見たことのあるコウノトリでした。
でも、普通のコウノトリではなさそうです。背中には小さなリュックを背負っています。
それに、なんたって言葉を話すのですから。
「こりゃいかん。人に見られたらいかん!」
コウノトリは慌てて駆け出そうとしました。ところが、つるりと滑って、また転んでしまいました。
さっきまでの怖さはどこへやら。
新太は、思わず吹き出してしまいました。
「もう見ちゃったよ。だから逃げないで。もしかして君、赤ちゃんを届けに来たの?」
コウノトリといえば、すぐに思いつくのは赤ちゃんを運んでいる絵です。
それが本当だなんて思っていたわけではありません。
でも、一応聞いてみました。
驚いたことに、大きな鳥はこくりと首を垂れました。
「坊ちゃあ、おっしゃるとおりでさあ。でも、ちっと違う。
わしが届けに来たのは、羽鈴でさあ。
赤ん坊に宿っている天使が羽鈴を握って、赤ん坊はこの世界に生まれるんでさあ」
「そうだよね。赤ちゃんの体は、もうずっと母さんのお腹の中だものね」
新太は深くうなずきました。
「それで君が来たってことは、もうじき、ここで赤ちゃんが生まれるってことだね」
「まあ、そういうことなんで」
新太は飛び上がって喜びました。
病院にいるお腹の大きな女の人は、母さんだけです。
「早く赤ちゃんの天使に、羽鈴を届けてあげて。
ぼく、ずっと待ってたんだ。父さんも、もちろん母さんだって」
言いながら、新太はコウノトリのリュックをのぞき込みました。
でも、中は空っぽ。後ろのポケットから底にかけて、ビリビリに破れています。
「坊ちゃあ……わしは、とんでもない失敗をやっちまったんでさあ」
コウノトリは翼に顔を隠すように、首を曲げました。
「もしや、羽鈴、どこかにいってしまったの? それでさっき、『ないない』って探してたの?」
「そうでさあ。
ここに来る途中で、仲間からうまそうなザリガニをもらったんす。すぐに食べればよかったのに、リュックのポッケに入れちまった。
あいつはハサミで穴を開けて逃げ出して、そんで、羽鈴もどこかにいっちまったんでさあ」
「そりゃたいへんだ」
新太は腕を組んでうなりました。
目の前のビー玉のような黄色い目には、じんわりと涙が浮かんでいます。
コウノトリを責めても、どうなるものでもありません。
「それで、君はどうしてここに? 羽鈴はいなくなったんでしょう」
「へい。天使に近づくと、自分から飛んでいこうとするので、こっちに来たんではと思ったんでさあ」
「もう、天使が受け取ったのでは?」
「それがでがんす……。さっきまでいた天使も、どこかにいっちまったんでさあ」
悲しそうにコウノトリがくちばしを向けた先、母さんのいる部屋は、静まり返ったままです。
「天使もいないって……赤ちゃんはどうなっちゃうの?」
「生まれようという気持ちがわかないまま、スースー寝たままっす」
「じゃあ、羽鈴も天使も探さないと。どこか、ほかの場所にいるんだね」
「へい、おっしゃるとおり」
首を伸ばしたコウノトリは、丁寧にお辞儀をしました。そして、開いている窓のへりに飛び移りました…。
と、
「あや、グルルル……」
喉を大きく鳴らしました。黄色い目は、海辺の方を見つめています。
「あれ、変だ」
新太も声を上げました。
変なのは、歩いて十分もあれば行き着く灯台でした。
光が、暗い空の高いところを指して、ぐるぐると回っています。そんなところに、船が浮かんでいるはずがありません。
「天使はきっと、あそこでさあ。たぶん羽鈴も……。
高い空に光を回してる。こりゃ、急がんと!」
バサリと翼を打ち下ろし、コウノトリは灯台の方へ飛んでいきました。
「ぼくも行く。自分のきょうだいのことなんだ」
いびきのもれる部屋を横目に、新太は階段を駆け下りていきました。
ー承の章ー
夜の海辺は、とても静かでした。黒い波が、チャポリ、チャポリと音をたてています。
灯台は、入り江にそった散歩道の先にあります。新太は、アスファルトの割れ目から伸びたシダの葉に足をすべらせそうになりながら、先を急ぎました。
先ほど空に伸びていた光は、ずいぶん弱まっているようです。
目をこらすと――
「やっ、コウノトリ。あんな所に」
光を放つ大きなレンズを隠すように、コウノトリが翼を広げてへばりついていました。
新太は急ぎました。
昔、大砲が置かれていた場所を過ぎ、ほどなく白い灯台にたどりつきました。
高い塀には、漁師さんがかけたのでしょう、魚とりの網がかかっています。それを梯子のようにして塀を越え、建物をぐるりと回る階段を登りました。
「坊ちゃあ、来てくださったんすか」
小さなテラスに出た時、しゃがれ声が降ってきました。
「そんな所で何してるんだい?」
「天使でさあ。空に光を送って、お迎えの舟を呼ぼうとしてたんでさあ。それを止めようと……ああ、もうだめ。焼き鳥になっちまう」
熱そうな大レンズにへばりついていたコウノトリが、バサリと落ちてきました。
翼のあちこちに首を突っ込んでいるところを見ると、焼き鳥にはならずにすんだようです。
「天使はどこに?」
新太が見まわすと……いました。
テラスの端、柵の上に、二、三歳くらいの小さな子どもが、空を見上げて座っていました。
白いスモッグを着て、背中にはウチワのような透明な羽根が生えています。
その周りを、羽根の生えた鈴が、シャンシャンと音を鳴らしながら飛んでいました。
「ねえ」
新太は、そっと近づいて声をかけました。
「……ぁぁ」
天使が振り返りました。小さな目には、涙が浮かんでいます。
「どうしちゃったんだい? みんな、君が羽鈴を握って、からだと一緒に生まれてくるのを待ってるんだよ」
新太が腕を伸ばして抱きしめようとすると、天使は逃げるように、ふわりと飛び上がりました。
「…だめなの」
「どうしてだい?」
「ボク、コウノトリを驚かそうとして、ちょっと体から離れていたんだ。その時に……兄弟で楽しそうに遊んでいる、あなたの夢を見てしまった」
「あ……あのキャッチボールの夢」
新太は、はっとしました。
「そういえば、泣いている子がいた。もしかしたら、君だったの?」
「うん。すごく仲よさそうで、本当にうれしかった。だけど、あの光景を見た途端に……」
天使は、言葉を詰まらせました。
「……また、大切な人が、笑っている時に、突然いなくなるんじゃないかって……。だから、生まれるのがこわくて……」
「えっ……大切な人が、いなくなるって?」
「ボク、ずっと昔のことを思い出してしまったんだ」
天使は、空を見上げました。
「夏の日の朝、兄さんとキャッチボールしていたら、急に空が光って……何もかも消えてしまった……」
小さな声が震えています。
「兄さんが笑いながら言った『おう』っていった掛け声……まだ耳に残ってる。そのすぐあと、世界が消えてしまったんだ」
天使は、ぎゅっと目を閉じました。
「この世界でも、またあんな悲しいことが起こるかもしれない。そう思ったら……」
うつむいた天使の目から、雪のかけらのような涙がこぼれました。
……急に空が光って、何もかも消えてしまった……
天使の言葉に、新太は胸がつまるような思いがしました。
……天使は昔、ほかの子の体に宿っていた時に、戦争というものを体験したんだ。僕の夢を見て、その時の悲しさを思い出してしまったんだ……。
《そんなこと、もう起きないよ!》
ポイと言えたら、どんなに楽なことでしょう。
でも、戦争は今も世界のどこかで起こっています。
それに、一瞬で幸せが消えてしまった天使の気持ちは……。
新太の口は、薄く開いたまま、動きませんでした。
「まずいでっせ、坊ちゃあ! 天の舟がこっちに来やす!」
コウノトリが叫びました。
空を見上げると、きらめく星の間から、揺りかごのような形をした金色の小舟が、ゆっくりと降りてきていました。
「お迎えが来た」
天使は涙をぬぐいました。
「短い時間だったけど、お話ができて本当によかった。さようなら」
「ちょっと待って! 君はどこに行ってしまうの?」
震える唇で、新太は聞きました。
「空の彼方にある、すてきな花畑だよ」
天使は、ふわりと飛び上がりました。
羽鈴も一緒に飛んでいます。けれど、元気をなくしたように、鈴の音は聞こえません。
「……体から離れた天使は、ちがう体に宿るまで、そこで草花の世話をするんだ」
このままでは、天使は行ってしまいます。
赤ちゃんの体は、お母さんのお腹の中で眠ったままです。でも、どうしたら……
頭を抱えた新太の体を、コウノトリが大きな翼でおおいました。
「坊ちゃあ、天の舟が近づいてまさあ。翼から出ちゃ、だめでっせ。舟の漕ぎ手は、天使には優しいが、生きている人間には鬼みたいに恐いんす」
すぐにも、金色の光が差し込んできました。
レースのカーテンをすかして見るように、その向こうがぼんやりと見えています。
まばゆいばかりの天の舟が、テラスの横に降りてきました。
櫂を握る優しい顔をした女の人が、七色の羽衣を振って、天使を招いています。
天使は静かに羽ばたき、舟に乗り込みました。
「はて、乗り手は一人ですか。ここには、もう一人いるような気がするのですが」
漕ぎ手が、コウノトリに話しかけました。
「こ、ここにいるんは、わしだけでさあ。さっき人間の子どもに触られちまったんで、あんたさまは、そう思っちまったんでさあ」
コウノトリが、慌てて答えました。
「羽鈴を運ぶ仕事とは、本当に大変なことですね」
漕ぎ手は、納得したようにうなずきました。
「ええまあ……そうでっさねえ」
必死にごまかすコウノトリの翼の後ろで、新太の心は、ぶすぶすとくすぶっていました。
……これでいいのか。このまま天使を行かせてしまっても。ずっと悲しい心を持ったままで……。
そんな言葉が、耳の奥で何度も繰り返されていました。
ー転の章ー
「坊ちゃあ、もうちっとの我慢でさあ」
コウノトリがささやきました。けれど、その声は新太の耳には届きませんでした。
頭の中は、自分のつぶやきでいっぱいだったのです。
……ぼくは、赤ちゃんに生まれてきてほしい。でも、天使の悲しみは、どうしようもなく痛くて深い。……苦しい……息も胸も……ああ、ぼくはどうすれば……。
ゆらゆらと昇りはじめた舟の上で、後ろ向きに座った天使が、そっと手を振りました。
その瞬間、バチンッ!
胸の内でぐるぐると回っていたものが、はじけました。
「やっぱり、行っちゃだめだ!」
大声で叫んだ新太は、コウノトリの翼を押して前に飛び出しました。
そのままテラスの柵を乗り越え、空に浮かぶ舟へジャンプしました。
「ああ、坊ちゃあ!」
コウノトリが、甲高い声をあげました。
「生きている人間が、この天の舟に……」
舟の縁にしがみついている新太の目の前で、漕ぎ手の七色の羽衣が、硬そうな白い布地へと変わりました。
優しそうだった漕ぎ手の顔は、目をつり上げた恐ろしい顔へと変わっています。
「これより舟の行き先は変わった」
低い声が響きました。
「生きている人間の重さを知らぬこの舟は、行く先知らず。ならば、まず向かうは、行く先知らずの永遠の世界」
漕ぎ手は、ずいと櫂をかきました。
舟に体を引き上げた新太は、驚いている天使を抱きしめ、すぐにも舟から飛び降りようとしました。
ケガをしても、灯台のテラスには、なんとか着地できそうです。
ですが――
新太の腕は、漕ぎ手の万力のように強い片手に、つかまれてしまいました。
「一度乗った舟、向こうの港に着くまで、降りることは許されぬ」
灯台の光が、バチバチと点滅しはじめました。
星のまたたく紺色の空に、真っ黒な穴があいています。
クィコゥ……クィコゥ……。
櫂がかかれるたびに、舟は穴へ近づいていきます。
その中には、片手に何かを持った不気味な白い影が飛び交っていました。
時おり止まっては、腕をこちらへ伸ばしてきます。
「ぼくは、羽鈴を握った天使を赤ちゃんの体にとどけるんだ。あんな、わけのわからない世界になんか行くものか!」
新太は必死に暴れました。
けれど、腕をつかむ力はたいへん強く、振りほどけるものではありませんでした。
「お願いです。この人を降ろしてあげてください」
天使が震えながら訴えました。
「この人は、ボクを人の世界に迎えようとしてくれただけなのです」
「あなたは心配しなくていいのですよ。用がすんだら、天の花畑に送ってあげますからね」
漕ぎ手の顔は、天使に向ける時だけ、元の優しい顔に戻っていました。
クィコゥ……クィコゥ……。
天の舟は、黒い穴にさしかかりました。
顔のない影のひとつが近づき、手に持っていたものを新太の手に押しつけました。
それは、砂時計のような形をしていました。
中では、赤い炎と青い水が、入れ替わるように揺れています。
「こんなもの……」
新太が投げ捨てても、影はすぐに拾い上げ、また手に押しつけてきます。
「それは、向こうの世界で使う永遠の時計」
漕ぎ手が静かに言いました。
「受け取れば、舟はすぐにも港に着き、天の花畑へ向かえる」
「そんなの、だめだよ。この人は、この世で生き続けるんだ!」
新太が抱いていた天使が飛び上がりました。精いっぱい羽ばたいて、舳先を押し返します。
「舟の行き先は変えられない」
漕ぎ手は新太を片手で押さえつけながら、櫂をさらに強くかきました。
舟は、また穴へと引き寄せられていきます。
新太の手の中で、奇妙な時計の炎が弱まり、水がぽたりと落ちました。
胸の奥に、冷たいものが広がります。
……ぼくが向こうに行けば、天使は花畑に帰れる。それでも、いいのかもしれない…
そんな思いが、新太の心をかすめました。
「お兄ちゃん!」
天使の声が響きました。
「ボク、お兄ちゃんと一緒に生きる。だから、あきらめないで!」
シャン、シャン、シャン、シャン……。
天使の決意が伝わったかのように、羽鈴が波打つように飛びました。
その時でした。
後ろで様子をうかがって羽ばたいていたコウノトリが、舟に飛び込んできました。
「カークルル……漕ぎ手さま、見てくだせえ!
二人には、誰にも切れん絆ってもんが生まれてるんす!」
いつの間にか、新太と天使の胸の間に、桃色の糸が生まれていました。
細い糸は、少しずつ太くなっていきます。
糸から縄へ。
縄から綱へ。
「絆は、強く、美しいもの…」
漕ぎ手は、綱を見つめました。
「それは誰にも切ることはできない。たとえ住む世界が違っても、長く伸びて、二人を結びつづける」
そう言いながらも、櫂をかく手は止まりませんでした。
やがて、新太の心は疲れはて、天使の羽ばたきも弱まってきました。
それでも、二人の間に生まれた桃色の綱は消えませんでした。
最初よりも、ずっと太くなっています。
「坊ちゃあたち、こうなったら、一か八かの賭けでさあ」
コウノトリは、桃色の綱をくわえました。
水飴のように伸びる綱を、ぐいっと引っ張ります。
そして――
どこかへ向かって飛んでいきました。
「さあ、前に、前に!」
漕ぎ手は、なおいっそうの力を込めて櫂をかきました。
舟は、ぐいっと黒い穴へ入っていきました。
ー結の章ー
《こら、何してる!》
突然、雷鳴のような低いどなり声が、新太の胸に響き、舟が、ガクンと止まりました。
ぼやけていた目を見開くと、自分と天使の胸から出ている桃色の綱が、途中で合わさり、その先が下へ、ぴーんと伸びていました。
《子どもだけで、舟に乗ってはだめだ!》
また、どなり声がしました。
綱を伝わって、強く、優しく、びんびんと胸に響いてきます。
《そうよ。どこかへ行ってしまったら、どうするの》
さざ波のような優しい声が、そのあとを追うように響きました。
「父さん……母さん……」
新太がつぶやいた瞬間、桃色の綱が、ぐいぐいと引かれはじめました。
疲れを知らない漕ぎ手は、舟の横板のでっぱりに綱を巻きつけ、櫂をかきました。
けれど、下から引く力は、櫂で進む力よりもずっと強いものでした。
グイ……グイ……。
舟は、どんどん引き戻されていきました。
やがて、不気味な白い影の腕は届かなくなり、空にあいた穴も、蓋をしたように見えなくなりました。
ミシ……ミシミシ……。
舟がきしみはじめました。
横板にヒビが入っています。
今、舟は確かに元の世界にあります。
でも浮いているのは、灯台よりもずっと高い空の上。
こんな所で宙に投げ出されたら、ケガをするどころではすみません。
新太は、壊れかけた舟の上で、どうすることもできませんでした。
バリバリッ!
激しい音とともに、横板がはずれました。
同時に、ほかの板もはじけはじめました。
あっという間のこと、舟はばらばらに壊れてしまいました。
「お兄ちゃん!」
くるくると回りながら落ちていく新太の服を、天使がつかみました。
懸命に羽根を振るわせていますが、力は弱く、二人はずんずん下へ落ちていきます。
と――
ふんわりと、体が浮きました。
羽衣をひらめかせた漕ぎ手が、新太を抱きかかえていました。
「はなせ!」
新太は、恐ろしい腕から逃れようとしました。
わけのわからない世界に連れていかれるより、下に落ちた方がましです。
「さてさて…」
漕ぎ手が静かに言いました。
「あなたたちが生みだした絆に引かれ、舟は壊れてしまいました」
その顔は、天使に向ける時と同じように、優しく微笑んでいます。
「今、私にできることは……天の花畑に送ろうとしていた天使の幸せを願うこと」
漕ぎ手は羽衣の糸を引き抜き、天使の首にかけました。
「これで、しっかり飛べるでしょう」
そう言うと、二人から離れ、きらめく星の間を昇っていきました。
グイ……グイ……。
新太と天使は、まだ引っ張られています。
また音を鳴らしはじめた羽鈴も、二人についてきます。
海辺を過ぎ、やがて病院が見えてきました。
《ふたりとも、どこにも行ってはだめよ》
《そうだ。どこかに行っちまったら、心配もできないだろ》
だんだん、声の響きが小さくなっていきます。
桃色の綱は、ほとんど見えなくなっていました。
「ボク、もうくたくた……」
天使の首にかけられた羽衣の糸が、消えかけています。
息を切らせた天使は、新太を下に降ろしました。
「坊ちゃあがた、おケガもなさそうで何よりんす」
そこは、緑色の電灯がついた病院の玄関。そのひさしの上でした。
隣には、コウノトリがとまっています。
新太は天使と一緒に、無事に病院へ戻ってきたのです。
「ありがとう。君のおかげで助かったよ」
新太は、のぞきこんだ細長い首を、そっとなでました。
「お礼なんて、とんでもねえす。
元はといえば、わしがちゃっちゃっと羽鈴を渡さんかったから起こったこと。それに、家族の絆を運ぶなんぞ、めったにできない仕事ができたんすから」
コウノトリは、恥ずかしそうに目玉をくるくると回しました。
「そんで、あんさんはどうするんすか?」
新太の前で羽ばたいている天使に、コウノトリが聞きました。
「ボク、はっきりわかった」
天使は、新太を見つめました。
「生まれ出る先には、悲しみを包んでくれる、あたたかい家族が待っていてくれるって」
少しだけ胸を張りました。
「不安はある。けど、自信をもって羽鈴を握れる」
そして、少し寂しそうに付け加えました。
「だけど……生まれてきた時には、今夜のことを忘れてしまってる」
新太は、小さな体をそっと抱き寄せました。
「大丈夫。ぼくがきちんと覚えているから」
その柔らかい背中を、そっとなでました。
「もし、君が寂しそうにしていたら、教えてあげる。君は兄ちゃんを助けてくれた、素敵な天使なんだよって」
「きっと、きっとだよ」
天使は微笑みながら、新太のほほにキスをしました。
そして、肩にとまるように飛んでいた羽鈴を、ぎゅっと握りしめました。
ふっ――。
世界が、静まり返りました。
トクッ……トクッ……。
命の響きが、天使の体から聞こえてきます。
「うん! きっと!」
力強くうなずいた新太の腕から、天使は飛び立ちました。
だんだん体が透けていきます。
そして、二階の廊下にある開いた窓へ飛んでいく途中で、ふっと見えなくなりました。
コウノトリが、翼を広げました。
「カックルウ。これで、わしのお役はすみました。では、坊ちゃあ、お元気で」
こくりと頭を下げると、バサバサと翼を打ち鳴らし、夜空へ飛び立っていきました。
「さあ、急がなくちゃ」
ひさしから飛び降りた新太は、玄関を押し開け、二階へ駆け上がりました。
「父さん、起きて!」
「フガガ……なんだ。まだトイレ、行ってないのか」
「違うよ。赤ちゃんが生まれるんだ!」
「生まれる?」
父さんは、ぱちんと目を開きました。
その大きな手は、重いものでも引っ張ったように赤く腫れています。
「看護婦さんが教えにきてくれたのか? ぜんぜん気づかなかった」
「そうじゃなくて、父さんと母さんが、赤ちゃんの体から離れた天使を、ここまで引っ張ってきたんだよ」
「ほう……。確かに、何か大切なものを引っ張る夢を見ていたような……」
首をかしげた父さんが、腫れた手を見つめ直した時でした。
廊下の方が、足音や、ベッドを引く音で騒がしくなりました。
「赤ちゃん、とうとう生まれますよ」
部屋をのぞきこんだ看護婦さんが言いました。
「新太、ちょっと体を貸してくれ」
立ち上がった父さんが、太い腕を伸ばし、新太を脇に抱えました。
「急になに?」
「自分の力を試しているんだ」
父さんは笑いました。
「守っていく命が、またひとつ増えるからね」
そのまま、ずんずんと分娩室へ向かって歩きはじめました。
「いけるぞ。命ってやつは、それだけで力をくれる。母さんも頑張っているはずだ」
「うん!」
新太は、太い腕の中でもぞもぞしながら、力いっぱい頷きました。
シャン…………
シャン……シャン……シャン……シャン……。
どこからともなく、軽やかな鈴の音が聞こえてきます。
やがて、目の前の扉が開いた時――
命が花開くような泣き声が、飛び出してきました。
《誕生、おめでとう》
新太は、胸の中でつぶやきました。
《ぼくは今夜のことを、決して忘れない。いつかその時が来たら、きっと君に話してあげる》
・・ ・・ ・・ ・・
「すーたか、すーたか、すーいすい。
お役がすんで、すーいすい……」
月がぽっかりと顔を出した夜の空に、のんきな声が響いています。
「やや、あんな所に、逃げたザリガニがいるわい」
声の主は、下に見える池のほとりへ降りようとしました。
けれど、思い直したように羽ばたき、そのまま高く舞い上がっていきました。
「まあ、いいさ。わしは、なんだか腹いっぱい。
すーたか、すーたか、すーいすいと……」
・・ ・・ ・・ ・・
終わり




