婚約破棄されましたので、婚約者の再募集を開始いたします
「お父様、婚約破棄の件ですが」
朝食を終えた父が、紅茶のカップを持つ手をぴたりと止めた。
「うっ……持病の癪が……」
「なんですの、それ」
「…………」
「…………」
昨夜の夜会で、わたくしは王太子殿下から婚約を破棄された。殿下が真実の愛をお見つけになったからだそうだ。
大勢の貴族が見守る中、殿下はたいそう立派な声で宣言なさった。
『セシル・ド・サン=クレール。私は、そなたとの婚約を破棄する!』
わたくしもたいそう立派に一礼した。
『承知いたしました』
殿下は、なぜか驚いた顔をなさった。それ以上どうしろというのだろう。王家の了承を得たうえでの宣言である。床に転がって泣けば撤回される類のものではない。
わたくしは王太子妃候補として七年にわたり教育を受けてきた。語学、歴史、法、財政、外交、舞踏、礼儀作法、音楽、慈善事業、社交。何をしても評価がついた。
外国語なら三位。
舞踏なら二位。
歴史は一位ではないが上位。
社交は華やかさに欠けるが失点なし。
表情が硬い。減点。
しかし感情を出しすぎるのも王太子妃にはふさわしくない。やはり減点。
ずっとそんな調子だった。
わたくしには、誰にも負けないほど秀でたものはなかった。だが、致命的に劣るものもなかった。その結果、総合評価で一位になった。
そうして二年前、正式に殿下の婚約者となった。当時は嬉しかったと思う。殿下とは幼いころから顔を合わせていたし、好ましい方だと思っていた。恋などと呼べるほどのものではなくとも、いずれ共に国を支える相手なのだと考えていた。
ただ、わたくしたち妃候補が、ひとつ順位を上げるために外国語を覚え、歴史書を読み、笑い方まで直されていたころ、殿下はずいぶん楽しそうにしていらした。夜会。観劇。狩猟。友人との外出。そのうち、特定の令嬢のお名前も耳に入るようになった。
真実の愛、というものらしい。
なるほど。長年かけて総合点を競わせておいて、最後に採点外の項目で決めるのか。
そう思ったころには、殿下への薄い好意など、とうに消え失せていた。とはいえ、わたくしから婚約を破棄するほどの理由でもない。王家が決めた婚約である。殿下が役目を果たすというなら、わたくしも果たすつもりだった。
だから昨夜、『婚約を破棄する』と正式に言ってくださったとき、残念ではあった。同時に、これでようやく手続きができる、とも思った。
殿下が驚いたのは、わたくしが泣きもしなければ、怒りもしなかったからだろうか。だとしたら少し妙な話である。
感情を顔に出すなと七年かけて教えたのは、そちらではないか。
「ようやく終わったと思っていましたのに」
「言うな」
「前回、候補者の選定に一年半かかりましたわよね」
「言うな」
「また一からですわ」
「だから言うな!」
父――サン=クレール公爵は両手で顔を覆った。
「また面談するのか!?」
「もちろんです」
「嫌じゃ! わしは前回、候補者の父親と狩猟に七回行ったんだぞ!」
「ですが、家同士の婚姻ですもの」
前回の選定で最も消耗したのは、おそらく父だった。わたくしが候補者本人と会う一方、父はその父親や後見人と領地、財産、婚姻条件を詰め、狩猟や晩餐にも付き合った。ちなみに、晩餐は十二回あった。
王太子殿下との婚約が決まった日、父は祝宴の席で誰よりも晴れやかな顔をしていた。娘の将来が決まった喜びだと、わたくしは思っていた。選考業務が終わった喜びも、かなり混じっていたらしい。
「ご安心くださいませ。前回の評価表がございますから、一からではありませんわ」
父が、そろそろと顔を上げた。
「……本当か」
「ええ。ただし二年経過しておりますので、全項目再確認いたします」
「一からではないか!!」
「違いますわ。項目そのものは決まっておりますもの」
「わしにとっては同じだ!」
わたくしは紅茶を一口飲んだ。
「わしはもう知らん。年寄りをいたわれ。細かい家系図を見ると目が霞むんじゃ」
「五十二歳でしょう」
「五十二にもなれば霞む!」
「では、わたくしの一存で決めてもよろしいのですね」
「任せる……」
「ありがとうございます。では家令をお借りしますわ」
「えっ」
癪が治ったらしい。
「待て。モーリスは領地経営の補佐をしている」
「お兄様がおりますでしょう」
「えっ」
食卓の向こうで、兄が顔を上げた。
「次期公爵ですもの。よい機会ではありませんか」
「セシル。兄に何か恨みでも?」
「ございませんわ」
「ではなぜ突然、領地経営の荒波へ放り込む」
「次期公爵ですから」
「正論で殴るな」
兄は二十七歳。父の仕事を手伝ってはいるが、重要案件では家令のモーリスがそばにいる。要するに、そういうことである。
「婚姻は公爵家の重要案件ですわ。王太子殿下が白紙に戻してくださいましたので」
「殿下ぁ……」
兄が天井を仰いだ。兄まで王太子に恨みを抱き始めている。
扉が開いた。
「お呼びでしょうか」
モーリスだった。五十代半ば。父より年上だが背筋は真っ直ぐで、銀の混じった髪にも服装にも一分の乱れがない。
「ちょうどよかったわ。二年前の婚姻候補者選定資料を出してくださる?」
「承知いたしました」
「待て」
父が立ち上がった。
「どうしてもう話が通っている」
「昨夜のうちに申しつけましたので」
「昨日の今日だぞ!?」
「婚約破棄されたのが昨夜ですもの」
「普通もう少し落ち込まないか」
「落ち込んでおります」
「全然見えん」
「たいへん残念ですわ」
「どのあたりが」
「また選び直しです」
「そっちか!」
そちらだけではない。王太子妃として積み上げてきたものが、一晩で不要になったのだ。
腹は立っている。相当に。
それより問題は、わたくしが二十二歳になっていることである。二年前と今とでは、婚姻市場の状況がまるで違う。
「モーリス」
「はい、旦那様」
「行くな」
「しかしお嬢様が」
「領地はどうする」
「若様が」
「モーリス!」
兄が叫んだ。モーリスは何も聞こえなかった顔で一礼した。
わたくしは久しぶりに、少し気分がよくなった。
二年前の選定資料は、三箱あった。
「……こんなにございました?」
一箱目に家系図。二箱目に財産・領地・収入。三箱目に本人および親族の調査記録、面談記録、書簡、評判その他。
「婚約が成立したあとも、残していたのね」
「婚姻が成立するまでは何があるかわかりませんので」
まさか本当に役立つとは。
「一次候補、八十六名。家格、年齢、血縁、健康状態、婚姻歴、相続順位を確認し、三十二名に絞りました。そこから財政状況、領地の位置、親族関係、王家との距離、本人の評判を精査して十二名。面談と親族間の事前協議を経て、最終候補七名でございます」
「もう嫌になってまいりました」
「まだ始まっておりません」
「モーリス。慰める気は」
「前回の八十六名を最初から洗い直す必要はございません」
「まあ」
「ただし、新規候補を加えれば、確認対象そのものは百名を超えます」
「悪化しているではありませんの!」
なぜ若い男性は毎年成人するのだろう。
「成人を止められませんの」
「お嬢様」
「冗談です」
「旦那様なら本気でおっしゃいそうです」
「それはそうね」
父なら間違いなく言う。
「では、前回の上位候補から確認いたしましょう」
「一位は削除してくださいませ」
「王太子殿下ですね」
「ええ」
「備考欄に『再応募不可』と?」
「永久に」
モーリスの筆が迷いなく走った。妙にすっきりした。
「第二位はすでに婚姻。第三位は爵位を継承されましたが、借財が領地収入のおよそ四年分」
「除外」
「第四位は昨年、突然修道院へ」
「…………そういうことにしておきましょう」
「第五位は隣国へ移住。第六位は昨年の国境紛争で戦死されました」
「……そう」
そこだけは笑えなかった。わたくしはしばし目を伏せた。
「ご冥福を」
「はい」
少しの沈黙のあと、モーリスが紙を一枚めくった。
「第七位。ロラン・ド・ラ・トゥール辺境伯。三十歳。未婚」
「まだ独身でいらしたのね。なぜ」
「私にお尋ねになりましても」
「縁談は」
「複数ございました。すべてまとまらなかったようです」
「何か問題でも」
「確認いたしましたが、特には」
「ではなぜ」
「ご本人が慎重なのでは」
「……わたくしたちのことは言えませんわね」
「仰るとおりでございます」
ロラン・ド・ラ・トゥール。二年前、最終候補七名の最下位だった男である。
最下位といっても、八十六名から七名まで残った一人だ。条件はむしろよい。古い辺境伯家で、領地は豊か、借財なし。国境防衛を担い、軍務にも領地経営にも明るい。評判も親族関係も問題なし。
ではなぜ七位だったのか。
「遠いのよねえ……」
「はい」
王都から馬車で十日。秋から春先はもっとかかる。
わたくしはサン=クレール公爵家の娘である。辺境伯家に嫁いだからといって、王都や実家とのつながりをすべて切ってしまえばよいわけではない。二年前、そこを考えれば考えるほど、十日という距離は軽い問題ではなかった。
本人にも、そう申し上げた。
『閣下ご自身について、大きな懸念はございません。ただ、遠いですわ』
辺境伯は少しだけ、妙な顔をしていた。今思えば、多少は気を悪くなさったのかもしれない。
「ただし、二年前とは事情が変わっております。こちらを」
モーリスが地図を広げた。
「橋が二か所、架け替えられました。ラ・トゥール領側が費用の一部を負担したようです。宿駅も三か所増設」
「どのくらい短縮されましたの」
「王都まで約十日でしたが七日ほどになったそうです」
「三日も?」
「早馬なら、さらに」
「……評価を上げてくださいませ」
「すでに上げました」
さすがである。
「本人が主導したの」
「はい。工事は二年前から順次進められております」
「二年前?」
「前回の選定が終わった後ですね」
地図を見る。橋。街道。宿駅。
「目的は?」
「領内の穀物と鉄鉱石の輸送改善が主と聞いております」
「なるほど」
それなら筋が通る。わたくしとの婚姻に落選した腹いせに道を造ったわけではないだろう。
……たぶん。
「前回、本人の評価は」
「こちらです」
ロラン・ド・ラ・トゥール。
口数少なめ。
礼儀正しい。
質問への返答は明快。
領地財政を詳細に把握。
軍事責任について現実的。
妻に求める役割は、領内の慈善事業と家政。ただし協議を希望、強制の意思なし。
王都滞在、年二、三回。
社交、不得手。
舞踏、可。
狩猟、得意。
「お父様が気に入りそうですのに」
「旦那様は、閣下のお父君と三度狩猟へ」
「三度も」
「最終候補中、最多です」
「それで七位に?」
「旦那様は候補者選定に私情を挟まれませんでした」
「それは立派ですわ」
「その結果、現在あの状態ですが」
「……あとでお礼を言っておきます」
父の燃え尽きには、理由がある。
「では辺境伯に打診を。再選定を始めたことと、ご本人に意思がおありかどうかの確認だけで結構です」
「正式な求婚要請ではなく?」
「ええ。新しい候補者も見なくては公平ではありませんもの」
モーリスが別の紙束を取り出した。
「こちらが今年新たに対象となる方々でございます」
「もうあるの」
「昨夜、婚約破棄を伺いましたので」
「あなた、仕事が早すぎません?」
「家令ですので」
「それで説明がつくのね……」
成人したばかりの伯爵令息。兄の結婚で相続順位が変わった侯爵家の次男。留学から戻った公爵家の三男。妻と死別した若い伯爵。十七名。
「母親との同居予定は」
「重要項目ですか」
「非常に」
「承知いたしました。追加いたします」
「兄弟の借財」
「確認いたします」
「愛人と賭博」
「除外対象としてすでに外してございます」
わたくしは紙束を眺めた。
「……なんだか官吏の登用試験のようですわね」
「婚姻のほうが確認項目は多うございます」
「そうでしたわね」
夕食の席で、父はわたくしを見るなり身構えた。
「何人だ」
「新規候補が十七名」
「多い!」
「前回より少ないです」
「晩餐は」
「まだです」
「狩猟は」
「まだです」
「よし」
何がよいのだろう。
「ところでお父様」
「嫌だ」
「まだ何も申しておりません」
「候補者の父親と会えと言うんだろう」
「いずれ」
「父親とは手紙でいい」
「婚姻相手のお家ですよ」
「家系図を読めばわかる」
「先ほど目が霞むと」
「今日はよく見える!」
都合のよい目である。
「父上。今回はセシルに任せると言ったんでしょう」
兄が横から口を挟んだ。
「言った」
「なら楽じゃないですか」
「お前はわかっておらん。候補が絞られたら、結局わしが呼ばれるんだ! 前回は雨の中まで狩猟に付き合わされた!」
「雨でも?」
「候補者の父親が『この程度なら鹿は出ます』と言うから、三時間歩いた!」
「……それはかなりお気の毒ですわね」
「だろう!」
生まれて初めて、父の主張に心から同意した。
再募集開始から四日目。わたくしは新規候補十七名を十二名まで絞った。父は一度も書庫へ来なかった。兄は家令を奪われたまま、毎夕、執務室から死んだ顔で出てきた。
「セシル。いつまでモーリスを借りる」
「終わるまでですわ」
「いつ終わる」
「前回は一年半」
「返せ!」
「ではお兄様も手伝ってくださる? この十二名の、母方四代までの婚姻関係を」
「モーリス、セシルをよろしく頼む」
兄は去った。薄情者である。
その日の午後、新規候補から最初の書簡が届いた。
「レニエ伯爵家次男からです」
「早いわね。内容は」
「以前より敬慕していた旨と、婚姻候補となる意思が。四枚ございます」
「四枚」
「恋文ですので」
昨年の園遊会で見かけたらしい。美辞麗句が並んでいる。
「こちらから送った質問事項は」
「まだご返答がございません」
「……恋文を書く時間はあったのに?」
「そのようです」
わたくしはそっと手紙を置いた。
「モーリス。減点して」
「照会事項への未回答で?」
「ええ。それと――返答の早さも評価項目に必要かしら」
「新設いたしますか」
「検討しましょう」
五日目の昼。新規候補の一人について、「領地は近いが母親が非常に難しい」という看過できない報告を検討していると、侍従が飛び込んできた。
「お嬢様。ラ・トゥール辺境伯閣下へ向かった使者が戻りました」
「もう? 出発したのは四日前でしょう」
「はい」
「辺境伯領まで、片道七日はかかるはずよ」
「私もそう思うのですが」
「どこまで行って戻ってきたの」
「それが……辺境伯閣下もご一緒です」
「なんで」
淑女らしからぬ言葉が出た。モーリスまで眉を上げた。
「もう来たのか!?」
父が廊下の向こうから現れた。癪も目の霞みも、どこかへ行ったらしい。
「……セシル。もう、そいつでいいんじゃないか?」
「まだ本人と話しておりません」
「しかし来たんだろう。なら意思はあるんだろう」
「だから本人と面談するのです」
「ぐぬぬ……」
父はしばらく苦しそうな顔をしたあと、立ち上がった。
「わしも行く」
応接室には、二年前より少し日に焼けた男が立っていた。濃い茶色の髪を短く整え、旅装の上に黒い外套をまとっている。
「お久しぶりでございます、サン=クレール公爵令嬢」
「お久しぶりです、ラ・トゥール辺境伯閣下」
父とも礼を交わす。
「ずいぶん早かったな」
「たまたま王都寄りの地域を視察しておりましたので」
「なぜ王都へ?」
「代理人から、あなたと王太子殿下との婚約が解消されたと知らせがありました」
「……それで?」
「王都へ」
「即日?」
「はい」
父の目が光った。選考担当者の顔である。あれほど嫌がっていたくせに。
「わたくしの婚約破棄は、それほど重要事項ですの?」
「王太子殿下の婚姻予定の変更です」
「わたくし個人ではなく?」
「…………王太子殿下の婚姻予定の変更です」
「二度おっしゃいましたわね」
横を見ると、モーリスが何食わぬ顔で何かを書いていた。
「こちらからの使者とは?」
「途中で会いました。私宛てだと聞き、そのまま同行を」
「困惑していたでしょう」
往復十数日のつもりで出たのに、目的地の本人が向こうから走ってきたのである。当然だ。
「王都には代理人を?」
「二名。宮廷関係と商業関係です」
「二年前は一名でしたわね」
「情報が遅ければ判断も遅れますので」
モーリスと目が合った。加点である。
「街道も整備なさいましたわね」
「はい。橋を架け替え、宿駅も増やしました。王都までは七日ほどです」
「ずいぶん短くなりましたわね」
「穀物と鉄鉱石の輸送改善です」
「二年前、わたくしは『遠い』という理由で順位を下げました。お気を悪くなさらなかった?」
「少し」
「正直ですのね」
「当時は、辺境伯領が遠いのは当然だと思っておりましたので」
「今は?」
「妥当な評価だったと思っています」
「なぜ?」
ロランはそこで一度口を閉じた。
「……今ここで申し上げることでもありません」
気にはなったが、問い詰めるほどのことでもない。
「街道整備は二年がかりだったと伺いました」
「途中でやめる理由がありませんので」
父がなんともいえない顔をした。わたくしもたぶん同じ顔をしていた。少々、執念深い方なのかもしれない。領主としては頼もしい。
「辺境伯。狩猟はまだするのか」
父が口を挟んだ。
「はい」
「そうか……」
「公爵閣下も以前は」
「いや、わしはもうしない」
「そうなのですか」
「絶対にしないぞ」
何と戦っているのだろう。
ロランが帰ったあと、父は応接室から動かなかった。
「セシル。あいつでいいんじゃないか?」
「またですの」
「金もある。道もできた。来るのも早い」
「大事ですわ」
「だろう! もう新しい候補は見たくないんだ!」
心からの叫びだった。
「では、辺境伯を第一候補にして、ほかは書面で絞ればいい」
いつの間にか兄が来ていた。
「お兄様まで」
「モーリスを早く返せ」
「そこですの」
「重要だ」
家族の利益が一致し始めている。危険である。
その日の夕方、わたくしはモーリスと書庫に籠もった。
「モーリス、新規候補の十二名は?」
「三名から回答がございました。レニエ伯爵家次男は恋文四枚、照会事項への回答なし」
「減点」
「王立法院勤務の伯爵令息は必要事項をすべて回答。ただし母君から別途、長文の書簡が」
「何が?」
「結婚後の社交、子の養育、仕立屋、朝食の時間まで」
「除外」
「まだ面談前ですが」
「除外」
「承知いたしました」
怖い。母親が。
翌日の正午前、ラ・トゥール辺境伯から資料が届いた。領地収支三年分、主要産業、王都邸、親族と使用人、軍役、災害時備蓄、街道の維持計画。そして婚姻に際し協議したい事項が十二項目。
「……モーリス。全部そろっていますわ」
「はい」
「昨日の今日ですのに」
「おそらく、元から整理されていたのでしょう」
十二項目に目を落とす。婚姻後の王都滞在、個人財産、公爵家との往来、将来の子供の教育、辺境伯不在時の権限。その中には、王都と領地を往来する際の護衛と移動日数まであった。
「……ちゃんと結婚する気なのね」
「そのようです」
資料の一番上に、短い書状が添えられていた。
『昨日の件につき、関連資料をお届けいたします。正式な面談は本日以降いつでも対応可能です。ご都合のよい日時をご指定ください』
「モーリス。加点して」
「承知いたしました。返答の早さの項目を新設いたします」
「恋文四枚より、こちらのほうが安心しますわ」
「多くの令嬢は、恋文四枚を喜ばれるかと」
「そうかしら」
わたくしはもう一度、資料を見る。街道維持計画。なかなかよい。
「わたくし、結婚に向いていないのかしら」
「むしろ向いていらっしゃるのでは」
「どうして」
「生活は長いので。恋文は四枚で終わりますが、街道は毎年補修が必要です」
名言のような、そうでもないような言葉だった。
扉の外から、父の声がした。
「セシル。面談は」
「まだ決めておりません」
「辺境伯は今日でもいいんだろう。午後にしろ」
扉が開いた。聞いていたらしい。
「まだ新規候補が」
「いらん! わしはもう、候補者の父親と飯を食いたくない!」
「ラ・トゥール辺境伯のお父君は、亡くなっていらっしゃいますわ」
「……」
父が止まった。言ってから、わたくしも気づいた。モーリスも気づいた。兄まで廊下の向こうから顔を出した。
「父上」
「なんだ」
「辺境伯なら、候補者の父親との晩餐、ないですね」
「……そうだな」
「狩猟も」
「……ないな」
「本人が当主ですから」
「……そうだな」
父の顔が明るくなっていく。
「セシル。今日にしろ」
「お父様」
「一回くらい親孝行をしろ!」
婚約者選びで父親孝行を要求されるとは思わなかった。
「わかりました。では本日の午後に、正式面談を」
「よし!」
「ただし、その後ほかの候補者とも」
「うっ、持病の癪が……」
「またですの」
「年を取ると色々あるんだ!」
モーリスが静かに紙へ書き込む。
「では本日午後二時。ラ・トゥール辺境伯閣下との正式面談。旦那様ご同席」
「待て! わしもか?」
「もちろんです」
「今、腰が」
「面談が終われば、ほかの候補者との晩餐を減らせるかもしれませんわ」
「……行く」
癪も腰痛も、すぐに治った。
午後二時。父は開始十五分前から応接室にいた。
「ずいぶんお早いですわね」
「別に」
「返答の早さの加点を狙って?」
「わしは候補者ではない!」
父が怒鳴ったところで、扉が開いた。
「ラ・トゥール辺境伯閣下がお見えです」
「通せ!」
返事まで早い。
ロランが入室し、わたくしと父に礼をする。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ」
机の上の評価表を、ちらりと見た。今日増えた「返答の早さ」の欄だけ、すでに満点である。
正式面談では、提出された十二項目について順に確認した。王都滞在、公爵家との往来、領地での権限、将来の子供の教育。ロランの回答はどれも具体的で、決め切れないことについては、相談して決めたいとはっきり言った。
「二年前、ご自分が七位だったことは覚えていらっしゃる?」
「もちろん」
「ほかの候補も?」
「最終候補だけは。競合相手ですので」
やはり、少々ではないかもしれない。
「今回は自信がおあり?」
「あります」
即答だった。
「領地収入は二年前より一割二分増。輸送能力は約三割向上。借財なし。災害用の備蓄基金を新設し、昨年、王都邸も購入しました」
「王都邸まで」
「以前は宿を使っておりましたので」
「……モーリス」
「すでに確認しております」
家令が恐ろしい。辺境伯も恐ろしい。
「閣下。ほかにも候補者がおります」
「承知しています」
「それでも候補に加わるおつもり?」
「はい」
「二年前、一度お断りしておりますのに」
「条件が変わっていますので」
「また選ばれなかったら?」
「それはそのときでしょう」
「腹は立ちませんの?」
「あなたが結婚相手を慎重に選ぶことは、私にとっても悪いことではありません。選ばれたなら、十分に検討した結果だとわかります」
わたくしは少し言葉に詰まった。
「……二年前より、お上手になりました?」
「何がでしょう」
「なんでもありません」
「ひとつ、よろしい?」
ロランがこちらを見る。
「はい」
「昨日のお話、覚えていらっしゃる?」
「もちろんです」
「二年前の評価を、今は妥当だったと思うとおっしゃいましたわね」
「はい」
「なぜ?」
ロランは少し黙った。
「その後、別の縁談で何人かの令嬢とお話ししました」
「ええ」
「皆様、辺境については『遠いのですね』とはおっしゃいました。景色が美しいのか、とも」
「まあ」
「王都のお屋敷はどちらにあるのか、王都には年に何か月滞在するのか、と尋ねられたこともあります」
「それは……」
「私が一年の大半を領地で過ごすとは、あまり想定されていなかったようです」
わたくしは黙った。
「そのたびに、二年前のあなたの質問を思い出しました」
ロランは淡々と言った。
「冬は何日かかるのか。街道はどの程度通れるのか。ご実家との往来をどうするのか。王都に滞在する場合、誰が領地を預かるのか。将来子供ができた場合、教育はどうするつもりなのか」
「……聞きましたわね」
「はい」
「ずいぶん覚えていらっしゃるのね」
「最終面談でしたので」
一拍置く。
「それに、最下位になった理由でしたので」
モーリスが咳払いをした。絶対に笑った。
「当時は、遠いという理由だけで最下位になることに、多少納得がいきませんでした」
「やはり」
「ですが、後になってわかりました。あなたは単に遠いことを嫌がっていたのではない。実際に辺境へ嫁ぎ、そこで暮らすことを考えたうえで問題にしていた」
わたくしは返事をしなかった。
あのときは、ただ必要なことを確認しただけだった。
「二年前、あなた以上に、自分が結婚した後の生活まで考えて話をした方はいませんでした」
「……」
「その後も、いませんでした」
ずいぶん静かな声だった。
「それで、ほかの縁談は」
「条件が合いませんでした」
「それだけ?」
「それだけです」
「……本当に?」
「比較すると、難しかった」
比較。
「何と?」
「あなたと」
今度は父まで完全に黙った。
わたくしも、すぐには返事ができなかった。
「ですから、婚約が解消されたと聞いて」
「はい」
「今度は、七位のまま終わるつもりはありませんでした」
その言葉で、昨日から引っかかっていたものが、ようやく一つにつながった。
街道。橋。宿駅。代理人。王都邸。
どれも領地経営上の理由はある。きっと、それは全部本当なのだろう。
ただ、その改善点を選ぶきっかけになったものが、二年前の評価だったのだとしたら。
「それで即日?」
「時間を置く理由がありませんでしたので」
少し、おかしくなった。
「笑われましたか」
「いいえ」
笑ったけれど。
「ただ、閣下らしいと思っただけです」
わたくしは評価表を見る。条件はもう足りている。
二年前、わたくしは評価され続けた末に、総合一位になった。どの項目でも圧倒的ではなかった。ただ、落とす理由がなかった。だから選ばれた。
殿下もまた、わたくしの家が用意した評価表では一位だった。それでも最後には、どちらの表にもなかった「真実の愛」とやらで、すべてがひっくり返った。
「モーリス」
「はい」
「ひとつ項目を追加してくださる?」
「何をでしょう」
少し考える。
「……やはり結構ですわ」
書面にできないものまで、無理に項目にする必要はない。
わたくしは評価表を引き寄せ、ラ・トゥール辺境伯の名の横に「一位」と記した。
「もうひとつ、確認しても?」
「もちろんです」
「今後、街道の補修を途中で放り出す予定は」
「ありません」
「領地経営も?」
「ありません」
「では」
わたくしは評価表を閉じた。
「わたくしとの話も、途中で放り出さないでくださいませ」
ロランは一瞬だけ目を見開いた。それから、いつものように迷いなく答えた。
「もちろんです」
その返事も早かった。
「よし!」
父が立ち上がった。
「ではこれで終わりだな!」
「お父様、まだ第一候補です」
「第一候補!?」
「正式決定には、もう少し確認が」
ロランは笑わなかった。ただ、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「うっ……持病の癪が……」
モーリスが静かに評価表を回収する。
扉の外で侍従が咳払いした。
「お嬢様。恐れ入ります、レニエ伯爵家より速達が」
「今度は何枚?」
「六枚でございます」
「増えましたわね」
「照会事項への回答は?」
「ございません」
「モーリス」
「減点済みでございます」
さすがである。
婚約者の再募集は、始まったばかり。
ただし一位は、もう決まった。
お読みいただきありがとうございました。下の☆から評価をいただけると励みになります。




