ベンチ
休日の昼下がり。
春の穏やかな気候と、優しく降り注ぐ太陽の光により、人々の間にはゆったりとした時間が流れていた。
舞台は広い公園。遊具があるような子ども向けというよりは、走り回るのにぴったりな広々とした原っぱがあり、のんびりとした風が流れる、そんな公園だ。
そこに置いてあるいくつものベンチ。そのうちの一つが、男のお気に入りのベンチだった。
公園の中でもひっそりと隅の方に存在し、木々の葉たちが自然のカーテンを作る場所。彼の休日の大半は、そこで過ごされることが多かった。それは今日も同じだ。
しかし今日、男の気持ちだけは、感情だけは、いつもと違った。
男の座るベンチに、一人の女が近付いてきた。
年齢は男と同じくらい。大学生よりは上だが、まだまだ若い部類に入る年齢だろうか。
小さめのショルダーバッグをかけ、身軽な格好をしている。恐らく散歩の途中だろう。
男は「しめた!」と思った。
女がベンチの隣りに座った瞬間、男は待ってましたと言わんばかりの勢いで口を開く。
「やあ、今ちょっと時間良いかな!」
言ったあとに後悔した。
誤解されるような言い回しと、焦りから来た語気の強い聞き方。これは無視されるかもしれない。
「……」
まずいと思った瞬間には、時既に遅し。
女はこちらを一瞥したあと、嫌な顔をして立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 誤解なんだ! いや、誤解というか……助けて欲しいんだ!!」
「……助け?」
嫌そうな顔を崩さぬまま、女は聞き返す。彼女は再び座り直した。
「実は俺、さっきまでここで本を読んでいたんだ。それで読み終わったし、“さぁ帰ろう”って思って立ち上がったら……」
深刻な間が流れ、女も唾を飲む。もしかしたらこれは大変な事情があるのかもしれない。
真剣な表情につられ、女は再び座り直した。
「立ち上がれなかったんだ」
「はぁ?」
慌てて口に手を当てた。
いくら相手が怪しい人物でも、さすがに素直に反応しすぎてしまった。寧ろこの男が危ない存在なら、波風立てず怒らせないようにしなければならないのに。
「……ペンキがついて汚れちゃったとか、お尻が濡れちゃったとか、ですか?」
とりあえず寄り添ってみる。
「汚れただけなら、どれほど良かったことか……っ!」
悔しそうに、何かを噛み締めて、その引き結んだ瞼から涙が出るんじゃないかというほどの表情で、男は拳を握りしめる。
「……立てないんだよ」
「え?」
「どうやらまだ乾き切ってなかったみたいでさ、まずペンキがズボンにつくだろ? そのあと、その状態のまま乾いたんだよ。俺の体重を感じながら……!」
「えっと……つまり?」
「俺の尻が引っ付いたまま乾いたせいで、立ち上がるにはズボンを脱ぐ必要があるんだ」
「……っふ」
「笑ったな?」
「いえ、すみません」
真剣な表情にも関わらず、話している内容がそれはもう情けない。その事実に女はつい吹き出してしまう。
「だから君に、新しいズボンを買ってきて欲しいんだ。勿論お金は渡す」
「本当なんですか? その話」
まだ疑いが拭いきれない。
「本当だ! 情けない男だと思うかもしれないが、事実なんだよ!」
「でもペンキって、そんなに粘着力あります?」
「そう思うだろ? 俺もそう思ってた。ついさっきまで!」
半ばやけくそになりながら、頭を抱える男。ぶつぶつと独り言を言ったかと思えば、たまに奇声を上げる。
やはり怪しい男だ。けれどもし話が事実なら、このまま放っておくのはさすがに酷いだろう。
「……分かりました。信じますね、貴方のこと」
「ありがとう」
「それで、ズボンを買えば良いんですね?」
「あぁ。このお金を使ってください」
無駄に恭しく渡す男に、女は困ったような笑みを浮かべる。
「でも……このお金、受け取れません」
「え! なんで!? 君だけが頼りなんだ! 頼むよ!!」
必死な男を他所に、女は穏やかな微笑みのまま、遠い目をした。
「……ペンキ、まだ乾いてなかったみたいです」
「お、おいそれって……」
「私、立ち上がれないです」
春の柔らかさに負けない女の笑顔に、男は情けなく絶望するしか無かった。




