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ベンチ

作者: 日向透
掲載日:2026/07/18




 休日の昼下がり。

 春の穏やかな気候と、優しく降り注ぐ太陽の光により、人々の間にはゆったりとした時間が流れていた。


 舞台は広い公園。遊具があるような子ども向けというよりは、走り回るのにぴったりな広々とした原っぱがあり、のんびりとした風が流れる、そんな公園だ。

 そこに置いてあるいくつものベンチ。そのうちの一つが、男のお気に入りのベンチだった。


 公園の中でもひっそりと隅の方に存在し、木々の葉たちが自然のカーテンを作る場所。彼の休日の大半は、そこで過ごされることが多かった。それは今日も同じだ。

 しかし今日、男の気持ちだけは、感情だけは、いつもと違った。


 男の座るベンチに、一人の女が近付いてきた。

 年齢は男と同じくらい。大学生よりは上だが、まだまだ若い部類に入る年齢だろうか。

 小さめのショルダーバッグをかけ、身軽な格好をしている。恐らく散歩の途中だろう。

 男は「しめた!」と思った。

 女がベンチの隣りに座った瞬間、男は待ってましたと言わんばかりの勢いで口を開く。


「やあ、今ちょっと時間良いかな!」


 言ったあとに後悔した。

 誤解されるような言い回しと、焦りから来た語気の強い聞き方。これは無視されるかもしれない。

「……」

 まずいと思った瞬間には、時既に遅し。

 女はこちらを一瞥したあと、嫌な顔をして立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 誤解なんだ! いや、誤解というか……助けて欲しいんだ!!」

「……助け?」

 嫌そうな顔を崩さぬまま、女は聞き返す。彼女は再び座り直した。


「実は俺、さっきまでここで本を読んでいたんだ。それで読み終わったし、“さぁ帰ろう”って思って立ち上がったら……」

 深刻な間が流れ、女も唾を飲む。もしかしたらこれは大変な事情があるのかもしれない。

 真剣な表情につられ、女は再び座り直した。

「立ち上がれなかったんだ」

「はぁ?」

 慌てて口に手を当てた。

 いくら相手が怪しい人物でも、さすがに素直に反応しすぎてしまった。寧ろこの男が危ない存在なら、波風立てず怒らせないようにしなければならないのに。


「……ペンキがついて汚れちゃったとか、お尻が濡れちゃったとか、ですか?」

 とりあえず寄り添ってみる。

「汚れただけなら、どれほど良かったことか……っ!」

 悔しそうに、何かを噛み締めて、その引き結んだ瞼から涙が出るんじゃないかというほどの表情で、男は拳を握りしめる。

「……立てないんだよ」

「え?」

「どうやらまだ乾き切ってなかったみたいでさ、まずペンキがズボンにつくだろ? そのあと、その状態のまま乾いたんだよ。俺の体重を感じながら……!」

「えっと……つまり?」

「俺の尻が引っ付いたまま乾いたせいで、立ち上がるにはズボンを脱ぐ必要があるんだ」

「……っふ」

「笑ったな?」

「いえ、すみません」

 真剣な表情にも関わらず、話している内容がそれはもう情けない。その事実に女はつい吹き出してしまう。

「だから君に、新しいズボンを買ってきて欲しいんだ。勿論お金は渡す」

「本当なんですか? その話」

 まだ疑いが拭いきれない。

「本当だ! 情けない男だと思うかもしれないが、事実なんだよ!」

「でもペンキって、そんなに粘着力あります?」

「そう思うだろ? 俺もそう思ってた。ついさっきまで!」

 半ばやけくそになりながら、頭を抱える男。ぶつぶつと独り言を言ったかと思えば、たまに奇声を上げる。

 やはり怪しい男だ。けれどもし話が事実なら、このまま放っておくのはさすがに酷いだろう。


「……分かりました。信じますね、貴方のこと」

「ありがとう」

「それで、ズボンを買えば良いんですね?」

「あぁ。このお金を使ってください」

 無駄に恭しく渡す男に、女は困ったような笑みを浮かべる。

「でも……このお金、受け取れません」

「え! なんで!? 君だけが頼りなんだ! 頼むよ!!」

 必死な男を他所に、女は穏やかな微笑みのまま、遠い目をした。

「……ペンキ、まだ乾いてなかったみたいです」

「お、おいそれって……」

「私、立ち上がれないです」

 春の柔らかさに負けない女の笑顔に、男は情けなく絶望するしか無かった。




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