白魔と、二人きりのひととき
吹雪が吹き荒れ、強風によって丸太小屋の窓が震える。何も見えない。この環境では、普通の動物は生きられない。白魔の世界。
「アルナ、そろそろご飯にしましょうか」
そう言ったのは、私の師匠であるテオリネ様だ。
私は窓から視線を外し、テオリネ様へと振り返る。
テオリネ様は、胸まで伸びた暗い金髪を揺らしながら、垂れ気味の灰色の瞳をこちらに向けていた。その瞳は灰色だ。だが角度によっては、深い青にも見える。いつ見ても、息を呑むほど綺麗だった。
「はい、テオリネ様」
外の咆哮が嘘のように、部屋は静かで暖かかった。
テオリネ様は、火掻き棒で暖炉を掻き回していた。厚い毛皮越しでも、その体つきの豊かさがわかる。やがて、その暖炉の灰の中から、私の顔ぐらいの大きな鍋を取り出す。
テオリネ様は、火かき棒を壁に立てかけ、腰のホルダーに挟み込まれた短杖を掴み上げた。
「動け」
異国の言語のような、けれど、どこか神聖な言葉で言った。
鍋が震え、浮き上がる。まるで、言葉に呼応するように。
──魔術言語。考えるまでもなく分かった。
その鍋は暖炉の前のテーブルに一直線に浮遊していき、音を立てないで着地した。
鍋は一度も揺れない。私だったら、こぼしちゃいそう⋯⋯。
「⋯⋯揺れてない」
感嘆のような吐息が漏れ出した。
「アルナもできるようになりなさい」
甘く香ばしい匂いが、ふわりと鼻を擽る。
テオリネ様は軽い笑みを湛え、湯気が立ち上る鍋からキャベツのスープを皿に取り分ける。私はテーブルに置かれた黒いパンを片手に持つ。
「はい!じゃあ、頂きます!」
パンをスープに浸し、口に含む。
口に広がるのは、パンの重厚な酸味と、スープの仄かな酸味。そこに玉ねぎと人参の甘みが重なり、酸味をやわらかくまとめている。
何度食べても、飽きることがない。そんな味だった。
「美味しいです⋯⋯!」
「アルナはそれが好きね。でも、少し落ち着いて、ゆっくりと食べなさい⋯⋯」
テオリネ様は、紅茶を私に差し出しながら、優しく言った。紅茶には、僅かにお酒が入っていて、体がスープと相まって暖まっていく。
ふと、顔を上げた。
テオリネ様は、暗い金髪をかき上げ、耳にかけた。それから、銀のスプーンを音を立てず操り、口に含む。そのまま、パンを一口分だけちぎり、口に入れる。
上品で、絵画のような美しさ。
テオリネ様がふと、こちらを見て、首を傾げる。
「なに?」
それがまた、美しかった。
私は、顔を赤く染め、ぷいっと食事に戻っていく。
「なんでも、ないです」
食事を進めていく。
暖炉がパチッと鳴った。
◇
食後、テーブルには、本がいくつも積まれている。テオリネ様と共に、紅茶を楽しみつつ、本を読む。ちらりとテオリネ様の様子を窺う。
このテーブルの本の殆どは、テオリネ様が読むために持ってきたものだ。そのジャンルは幅広い。無頓着とさえ言っていいぐらいに。
今、読んでいる本だって、砂漠の魔物について──その対処法、だ。ここらへんは砂漠の魔物なんて出るはずがない。
そのテオリネ様が、本から視線を外し、口を開いた。
「アルナ、明日は街に出るわ。準備しておいて」
テオリネ様は街の方を見たまま、そう言った。まるで、吹雪の向こうが見えているみたいに。
⋯⋯そうだった。こんな大規模な吹雪だったら、こんな未開拓領域にある家を超えて、街に届いているかも。
「⋯⋯そうですか。この吹雪ですもんね。分かりました。準備しておきます」
「よろしくね」
その一言で、元の穏やかな空気に戻っていった。
◇
吹雪が窓を撫でる。その吹雪の奥、微かに太陽の光が見える。晴天だ。
まあ、温かくならないけど。
翌朝、吹雪はある程度収まっていたが、それでも、吹雪で積もった雪は、まるで溶けていないし、今も振り続けている。
「動け。ふぅ」
私は、荷物を入れた膨らんだ大袋を浮遊させる。テオリネ様のように、完璧に制御はできていないが、私だって浮かせるぐらいだったらできる。
でも、その師匠はといえば。
「動け」
二連続詠唱。
口が二つあるかの如き声。
その原理は簡単。高速で二回詠唱すればいい、と言っていた。⋯⋯まだ、全然できないけど。
「じゃあ、行こうか」
テオリネ様が外への扉に手をかける。
そして、感じるのは極寒の気温だけ。見えるのは、雪だけ。
日常の風景。
私はこの風景を気に入っている。
テオリネ様がいるからだ。
テオリネ様が衝角のような結界を展開する。その結界は、外気温から隔離する役割も持つ。
その結界を押し出し、自重で氷塊の如き固まった雪を砕き、押し出し、後ろに流す。
「私が代わりましょうか?テオリネ様の手を使うほどでは⋯⋯」
「いや、いいよ。豪雪地帯だったら、基本技術、なんでしょ?それは、師匠である私が、しないわけにはいかない」
「⋯⋯そう、ですか」
⋯⋯普通はこんなに積もって、固まった雪は砕けないです、って言いたいけど。
その自慢げな顔を、曇らせたくはない。
ここは⋯⋯。この道は⋯⋯。
私は目を細め、つい足を止めてしまう。
それは感動か、それとも、憎しみ?或いは、望郷?
私が辿った道。そして、テオリネ様に救われた聖地。
あの時、私は幼かった。
母が死んだ。その時、父は出稼ぎでいなかった。あの日も、昨日のような吹雪であり、村は極限状態に達し、燃料は僅か、食料は底がつきそうになっていて、守る者がいない弱者は村からの追い出されていた。
正当な理由などない。感情──いや、本能。生への渇望という生物本来の。
ただ、弱者が追い出された。
追い出された私の手足は、壊死しかけていて、ほぼ感覚がなく、逆に、熱かった。眼球にも、凍傷が進む。おなかが減っていて、のどが渇いていて、でも、雪を食べちゃいけないことは知っていた。
一歩、進む。一歩、進む。
一歩、進──めない。
足から崩れ落ちる。
もう、進めない。生きられない。
それだけが脳を反響する。
「あ、あ────!」
現実を受け止めたくなくて、頭から声をなくしたくて、声を上げる。涙が出ては凍り、出ては凍り、と繰り返し、最終的には、涙も、声も出なくなった。
ひゅう、ひゅう、となる呼吸。次第にのどは締まっていき、咳が止まらない。だが、その音を自分の呼吸だとわからない。
白濁とする意識。
吹雪の咆哮だけが聞こえていた。
その時だった。
「貴方、大丈夫ですか?」
声が聞こえた、気がする。はじめは、極限状態の幻聴だと思った。何回も騙され、絶望した記憶が蘇る。
それにもう、体が動かない。
掌に何かは分からなかったが、感触があった。
「少し体力を回復させて⋯⋯⋯治れ」
血流が回復し、体に熱が戻ってくるような感覚。だが、温めるだけでは死ぬ。それが本能で分かっていた。
鋭い痛みを堪え、瞳を開ける。
そこでテオリネ様を見た。
煌めき瞬く神々しい後光が、視界を染め、その中心に、豊穣女神が如き美貌の女性。そして、
「助けてほしいですか?」
手を差し伸べられた。
「だずっ」
一瞬の間もなく、声を上げようとして、喉が潰れていて、できない。
だが。
「はい。分かりました」
治療が開始された。
「アルナ、どうしたの?」
テオリネ様の声が、雪の中に落ちた。
──あの時と同じ声だ。




