第3話 エリザベートの憂鬱
朝はいつだって残酷だ。
エリザベート・フォン・ローゼンベルクが目を開けると、最初に視界に入るのは、薄暗い天井の染みだった。かつては白く塗られ、毎年のように手入れされていたはずの天井。だが今は、雨漏りの跡を誤魔化すように広がる影が、そのまま家の現状を映している。
寝台も、立派ではある。立派――だった――ものだ。木の艶は失われ、彫刻の縁は欠け、起き上がるたびに軋む音がする。窓の隙間から入り込む冷たい空気に、思わず肩をすくめた。
(今日も変わらずね……)
嫌でも自覚する。ローゼンベルク家の勢いは、確実に傾いている。 名門だった。誇りも、歴史もあった。
――けれど、今はもう「昔の家」だ。
鏡の前に立ち、銀の髪を整え、学園の制服に袖を通す。仕立ては良い。だが、よく見れば袖の裏は何度も直されているし、襟元の縫い目も微妙に違う。新調ではない。繕いだ。親戚の子が着た制服のお下がりである。
「分かってるわ。全部、分かってる」
今日も自分に言い聞かせる。
家が生き延びるには金が要る。そして、その金を呼ぶ最も現実的な方法が――婚姻――だった。
資金援助のための、望まぬ婚約。
相手は侯爵家の嫡男。陰で「豚侯爵」と呼ばれる一家の長男――グスタフ・フォン・クレーテ――
(……どうして、"クレーテ"なのよ)
家名を思い出すだけで、気分が沈む。ヒキガエルを意味する家名。その響きがどうしようもなく生々しくて、不快だった。
父は多くを語らなかった。
ただ、最後に一言だけ言った。
『すまない』
それだけで、すべてが決まった。
(……私が我慢すれば、家は助かる)
そういう役目なのだと、理解はしている。
でも理解と納得は、別だった。
鏡の中の自分は、いつも通りの"お姉さま"の顔をしている。凛として、少し冷たくて、近寄りがたくて。学園で求められる、ローゼンベルク家の令嬢の姿。
(弱いところを見せたら、終わり)
そう言い聞かせて、エリザベートは屋敷を出た。
古びた門。手入れが追いつかない庭。馬車などは維持費がかかるので、父親だけが使っている。
だから、エリザベートは徒歩での通学であった。
王立リート学園の門が見えてくる頃には、エリザベートはすっかり仮面を被り直していた。
背筋を伸ばし、顎を上げる。
「お姉さま」と呼ばれれば、軽く頷く。それでいい。
午前の授業はほとんど頭に入らなかった。黒板の文字は目で追っているのに、内容が残らない。教科書のページだけが、機械的にめくられていく。
その理由は昼休みにあった。
そして、昼休みが近づくにつれて、胸の奥に嫌な予感が溜まっていった。
(来ないで。お願いだから、今日は来ないで)
そんな祈りが、叶うはずもなく――
廊下の向こうから、粘つくような笑い声が聞こえた。
「デュフフ……」
背筋が、ひやりと冷える。
重い足音。床がわずかに震える感覚。周囲の生徒たちが、波が引くように道を空けていく。
現れたのは、巨大な影だった。
制服は仕立ての良いはずなのに、腹回りが張って歪んでいる。頬は脂で艶めき、顎は幾重にも重なっている。歩くたびに肉が揺れ、息が荒い。
グスタフ・フォン・クレーテ。
「デュフフ……エリザベート。昼食をご一緒しようじゃないか」
周囲の視線が集まる。
エリザベートは、ゆっくりと微笑んだ。頬が引きつるのを、必死で抑えながら。
「……ええ。もちろんですわ」
それは、完璧な"貴族の令嬢"の返事だった。
(……誰か、助けて)
心の中で、そう呟く。
(白馬の王子様……)
一瞬、そんな言葉が浮かんで――すぐに、打ち消した。
(……違う。いらない)
胸の奥には、はっきりとした拒否感がある。
(王子なんて、いらない。男なんて、いらない)
思い出すのは、これまで向けられてきた視線。
値踏みする目。所有物を見るような目。
敬意ではなく、欲望と打算に濁った視線。
(助けてくれるなら……)
ほんの少し、視線を落とす。
(白馬の……王女様の方が、ずっといい)
自分でも、少しだけ可笑しくなる。
現実逃避だと分かっている。そんな存在、いるはずがない。
それでも、思ってしまう。
(せめて、誰か。私を"物"じゃなく、"私"として見てくれる人……)
学生食堂は騒がしかった。
グスタフは席に着くなり、山のような料理を注文し、音を立てて食べ始める。
「デュフフ……やっぱり学園の飯はいいねぇ。栄養がある!」
食べ方も、話し方も、品がない。
エリザベートは、自分の皿にほとんど手をつけられなかった。
(これが、卒業後もずっと続くというの?私の未来なんて星明りすら灯っていないじゃない)
そのとき、グスタフの視線が、ふと別の方向へ向いた。
「――おやぁ?」
彼の視線の先には、少し離れた席で一人食事をしている少年がいた。
「デュフフ……あれが、ベルンシュタインか」
テオドール・フォン・ベルンシュタイン。 入学以来、嫌でも耳に入ってくる名前。
「金で爵位を買った連中に、伝統も格式も分かるわけないよぉ。品もない成り上がりだ。伝統も格式も分からない連中は、平民と同じだよぉ」
その言い方が、あまりにも下品で、エリザベートは思わず指先に力を入れた。
(この人、自覚がないの?あれならベルンシュタインの方がはるかにマシよ)
テオを擁護したいわけではない。
けれど、目の前の男のほうが、よほど耐えがたかった。
グスタフは満足げに鼻を鳴らし、また食事に戻る。
エリザベートは、引きつった笑みを浮かべたまま、心の中でそっと呟いた。
(……憂鬱だわ)
その言葉は、誰にも届かないまま、食堂のざわめきに溶けていった。
――その日の放課後――
エリザベートは少しだけ学園に残っていた。
図書室で調べものをしていたら、思ったより時間が過ぎてしまったのだ。気づけば廊下を歩く生徒の姿もまばらになっている。
(……遅くなってしまったわね)
ローゼンベルク家に馬車を使う余裕はない。だから、下校も徒歩だ。夕暮れの空を見上げながら、エリザベートは学園の門をくぐった。
少し歩いたところで、騒がしい声が耳に入った。
「へえ、いいじゃん。ちょっと相手しろよ」
下品な笑い声。嫌な予感がして、視線を向ける。
通りの脇で、数人の男たちが、一人の女性を囲んでいた。服装からして、学園の生徒ではなさそうだ。街の不良だろう。
「やめてください……!」
女性は後ずさりしながら、必死に拒んでいる。
(……最悪……)
そのときだった。
「その人、嫌がってるだろ」
場違いなくらい落ち着いた声が、割り込んだ。
声の主はテオドール・フォン・ベルンシュタインだった。
不良たちは一斉に振り向き、テオを睨みつける。
「あ? なんだテメェ」
「関係ねえだろ、失せろよ」
テオは、女性の前に一歩出て、はっきりと言った。
「関係ある。困ってる人を放っておけないだけだ」
不良の一人が、舌打ちする。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、ガキ」
もう一人が、懐からナイフを取り出した。夕暮れの光を反射して、鈍く光る刃。
「ベルンシュタイン。この名前を知っているだろう?俺はそこの子供だ」
ベルンシュタイン家の名前を出され、不良たちは一瞬たじろぐ。ベルンシュタインといえば貴族社会では鼻つまみ者であるが、ワルの間ではブランドであった。
(これで引いてくれれば……)
テオはそう期待した。たいていのことはこれで解決してきたからである。しかし、この不良たちは違った。
「ははっ!ベルンシュタインだってよ」
「んなわけあるか、あんな大物の息子がこんなところで一人で歩くか」
「ベルンシュタインなら、その女をよこせくらい言うだろ」
ワルのブランドが高く評価されており、単に女性を助けるというのが真実味を書いてしまっていたのだ。
不良たちはテオを囲むように動き、女性のほうへは関心を失っていた。
「ほら、英雄気取り。場所変えようぜ」
テオは、一瞬だけ女性のほうを振り返り、静かに言った。
「今のうちに、逃げて」
女性は少しだけ迷ったあと、深く頭を下げて、その場から走り去った。
次の瞬間、テオは不良たちにさらに小さく囲まれた。
ナイフを突きつけられ、押されるようにして、路地裏へ連れていかれる。
エリザベートは距離を保ったまま、後を追ってしまっていた。
路地裏は薄暗く、人の気配もない。
「英雄様、ここまで来りゃ、助けは来ねえぞ」
そのときだった。
テオの周囲の空気が、わずかに変わった――そんな気がした。
この世界には、誰もが持つ力がある。魔力だ。それを使えば、身体能力を強化できる。ただし、その量と質には大きな個人差がある。
テオの身体から、はっきりと"力"の気配が立ち上った。
次の瞬間――
彼は一気に動いた。
ナイフを持つ男の手首を叩き、刃を弾き飛ばす。もう一人の腹に肘を叩き込み、振り向きざまに背後の男を投げ飛ばす。
あっという間だった。
数秒も経たないうちに、不良たちは全員、地面に転がってうめき声を上げている。
テオは、荒い息を整えながら、倒れた男たちを見下ろした。
そのとき、エリザベートは、ふと、違和感を覚えた。
夕暮れの光の加減かもしれない。魔力の揺らぎのせいかもしれない。
けれど――
(……胸……膨らんだ……?)
一瞬だけ。本当に、一瞬だけ。
テオの胸元が、不自然に膨らんだように見えたのだ。
(……気のせい……?)
目を瞬きすると、もういつもの細身の体型にしか見えない。
エリザベートは物陰で、ただ呆然と立ち尽くした。
(……今の……何……?)
テオの強さなどどこかに吹っ飛ぶくらいの疑問で頭がいっぱいだった。




