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記憶

作者: 山本 柚

十六の年、通学のために乗っていた電車が人をはねました。がらがら車輪が骨を巻き込む音がして、やがて電車は停りました。一時間程度、私たち乗客は止まった箱の中でつったって過ごしました。なんとなく、その日は引き返して学校を休むことにしました。自分の足下に誰かが死んでいたという事実がどうしようもなくじっとりと私の脳裏に焼き付いて、私の気分を沈ませたのです。それを経験してからというもの、駅のホームで電車が来るのを見ていると、なんだか電車に引き込まれる気持ちがするのです。脚が前へ動こうとするのを、頭がじっと抑えます。ひとつ言っておくと、私は生活に何の不満もなく、悩みもないような人間でありました。死とは無縁の生活でした。希死念慮だなんて、とんでもありません。ただ、それは自殺願望などではなく、単に私の興味や好奇心のようなものであったと思います。

私にはそのころ想い人がおりました。静かで、聡明な人でした。小さな頃から落ち着きのない私とは正反対の人物だったと思いますが、なんの奇跡だか、私と彼は恋人同士でした。彼は決して私への好意を直接口にはしませんでした。それでも好意の色の滲む彼の声や行動に、私はすっかり浮かれてしまっていました。冬の空気が冷える時期には、暖かい飲み物を飲んで並んで帰るのが私たちの習慣でした。十八の冬のある夕方、いつものように私は温かい珈琲を手に取りました。いつものように私は寒いですねとほとんど意味の無い冬だけの口ぐせをこぼして、いつものように彼はそうですねと返事をしました。いつものように彼は私と同じ温かい珈琲を手には取りませんでした。彼はその日は、飲み物は手に取らず、店員にコロッケを1つと言いました。「今日は温かい飲み物を買わないのですか。」と私が尋ねると、彼は「違ったことを経験したい気分なのです。」と、珍しいことを言ったので驚きました。本来彼は新しいことを嫌う性質でした。私は彼をいろんな場所へ連れ出すのに苦労したものです。そんな彼が、違ったことを経験したいなんて言うものですから、私は違う人と歩いているようでおかしな気持ちになりました。「そういえば、君は卒業をしたら大学に行くのですね。勉強は上手くいっていますか。」と彼が聞きます。君はなんて、自分は行かないというような聞き方が私に違和感を与えました。なぜならば彼は賢く、常時勉学を怠らない人でしたから、当たり前に同じようにどこかの大学へ進むと私は勝手に確信していたからです。肯定の返事と共に、私は貴方もそうでしょうと言いました。はっきりものをいう彼には珍しく、なんだか切れ味の悪い、絞り出したような唸った挨拶だけが返ってきました。

その夜に恋人は死にました。首を吊った自殺でした。私はなにか夢を見ているような感じで、その時分自分が何を感じていたかははっきりと思い出せません。ただ、彼の遺書の記憶ははっきりと残っています。感情の滲むことの無い淡々とした文章でした。自分はこの頃勉強にも精が出ません。何も上手くいかないので、1度やり直したいのですと言った旨の内容が、つらつらとただ羅列されてありました。その中に、一つだけ心残りがあると、それが私だと書かれていました。

 『私は不甲斐ないことに彼女に何もしてやれなかったが、ただ本当に、彼女のことが好きだった。』

 と、確かにそう書いてありました。この文字列が、彼からの初めての素直な好意の言葉でした。葬式で見た眠る彼の顔は、見慣れたはずの顔であるにも関わらず、どこか知らない人のように感じたのを覚えています。

彼が死んでから、私はひとときも彼を忘れませんでした。写真を持ち歩き、日記を読み返し、忘れないよう努力をしました。彼の口調も、性格も決して忘れることはありませんが、彼の声や香りや感触は、段々と私の中から消えてゆきました。それが苦しくってたまらないのです。私の同級生たちは、すっかり彼の死んだことを忘れて自分の人生に没頭していました。普通のことです。死んだ人間は、忘れられるのです。ただ私は、私の覚えている限りでは、彼はこの世から消えてしまわないと、そういう考えを持っていたのでした。ですから、彼の記憶がひとつずつ消えてゆくのを、私は、私が彼を少しずつ殺しているような、そんな風に思えたのです。

彼には申し訳なくてなりません。好きだと言ってくれたのに、あんなに沢山を私にくれたのに、私はもうすっかり貴方を殺してしまったのです。

このごろは、がらがらという音が私の頭を占領して他の考え事を許しません。願わくは、私をどうか殺さないでください。

こんな暗い遺書ではありますが、間違いなく恵まれた仕合わせな人生であったと思います。

私のせいで、仕事に遅れる人、学校に遅れる人、申し訳ありません。ただ、がらがらという私の音を覚えていてください。

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