第1章 月光の魔法(7)
〈第十六回月光ミステリ大賞の最終選考作だった拙作「静寂の追跡者」は選外という結果となりました。力不足です。完敗です。事務局や選考委員、応援していただいた皆様、誠にありがとうございました。「ブラック・ディール」の藤林陸斗様、おめでとうございます。〉
――常にグッドルーザーでなければならない。
四月一日二十二時半、二宮英夫は複数のSNSに「敗北宣言」を投稿し終えると、書斎の机に突っ伏した。重い嘆息が漏れ出る。五回目の最終候補作となった今回も受賞できなかった。三月中旬に選外の連絡を受けていたから結果は知っていた。しかし、選評によれば今回はあわや受賞の可能性すらあった。選外の連絡よりも悔しい気持ちで涙がじんわり溢れてくる。見えかけていたトンネルの出口の光がぼんやりと滲み、遠くなっていく。また一年、この漆黒の世界で踠かなければならないのかと思うと憂鬱だった。
――俺には何が足りないのか?
片腕に頭を預けたままスマホ画面で自らの投稿を遡っていく。
〈十年以内に小説家デビューします。できなければ辞めます。〉
初めての投稿は九年前だった。挑戦をする時、英夫はどんな時でも期限を設ける。
――となると、俺が挑戦できるのはあと一年か。次がラストチャンスだ。
小説を書き始めた時は自信があった。薔薇色の未来があると信じていた。
だが、なかなか受賞できない。月ミスには今回も含めて計八回応募していて、最終選考で五度も跳ねつけられている。選評で〈例年ならば受賞していた。不運としか言いようがない〉と評された年もあった。そんな時でさえ、内なる感情は抑えて選考委員や事務局、応援してもらった人たちに感謝の投稿をしていた。
「やっぱり悔しい……」
文字にできないような本心は、この書斎での独り言で昇華させるようにしている。
――あれ、なんだこれ?
スマホ画面のSNSのトレンドランキングにふと目を奪われたのはその時だ。
〈月光ミステリ大賞〉が一位になっていた。〈ペンネーム〉や〈再投稿〉などのワードも上位に入っている。
――何が話題になっている?
英夫は上体を起こす。調べると、その震源地はすぐに分かった。ユーザー名〈性癖暴露機関車ドエムスキー〉の投稿内容が物議を醸していた。その特徴的な名前には英夫も覚えがあった。
――確か、最終候補作四作品の一つとして残っていたペンネームだ。
投稿は以下のようなもので、既に千万ビューと驚異的な拡散を見せていた。
〈月光ミステリ大賞の最終選考落選の俺の作品「裸のままで」なんだが、ペンネームがふざけ過ぎているとあるんだけど。別の選考委員からは何度も再投稿していて小説家として新しいものを生み出せるのか疑問ともある。ペンネームや再投稿が影響すんのかよ? だったら、それを最初から募集要項に書けよ。ふざけんな!〉
確かに黒島は「ペンネームがふざけ過ぎている。作品もその傾向が色濃い。もっと読む側の気持ちにならないと」と選評していた。多くの選考委員を兼務している鬼塚は「この作品は別の賞も含めて少なくとも四度応募されていて、流石に再投稿し過ぎだ。この作者が小説家として新しいものを生み出していけるのか甚だ疑問である」と苦言を呈していた。
〈ペンネームがふざけているとか、じゃあ江戸川乱歩や江良理玖院、四谷怪造は?〉
〈ペンネームとかデビューの時に変えられるし関係ないだろ。所詮、負け犬の遠吠え〉
〈再投稿への苦言に対しては全面同意かな。作家はクリエイターな訳だし〉
〈改稿を重ねて「テセウスの船」となっていたら、同情の余地はあるかもだけど……〉
〈ドエムスキー〉の投稿にSNSは賛否両論のコメントで溢れかえっていた。
この日、盛り上がっていたのは投稿だけではない。SNS「ワースチャット」内の音声対話機能の一部である〈ワーストーク〉では【月ミス残念会】と称したトーク部屋を五百ものユーザーが聞いていた。ワーストークはリアルタイムで複数人が会話できるXの〈スペース〉と似た機能である。主賓ゲストとして招かれていたのは、同じく最終選考に残っていた〈さゆん姫〉というアカウントだ。
英夫の表情がこわばる。間接的だが知っている。投稿サイト内で創作サークルを作っており、何度も他のグループと衝突している「トラブルメーカー」である。
実は英夫も被害者だ。衝突した他のグループの一人がデビューした際、英夫は精緻な筆致のそのデビュー作が大変面白かったため、「新人とは思えぬ完成度」と、自身のSNSアカウントに純粋な気持ちで投稿した。しかし、〈さゆん姫〉一派から「デビューすらしていないくせに上から目線すぎる」と噛み付かれた。結果、コメント欄は荒れて、一派からもブロックされた。
あいつはあっちのシンパだ――。純粋に文学を楽しみたいだけなのに、色をつけようとする輩に英夫はうんざりしていた。それからというもの、英夫は二度と他人の作品の感想を載せることは無くなった。アカウントは公募挑戦の報告が中心になった。
「私って才能ないのかな」
トーク内でそう連発するさゆん姫は、明らかに「そんなことないよ」の反応待ちだった。顔も見たこともないのに上目遣いなのが分かるほどだ。スピーカーの男たちは案の定、「そんなことないよ」を連呼する。
――この女に手玉に取られて、踊らされているのが分かっていないのか?
「才能なかったら最終候補にならないよ」
「事務局や選考委員の見る目がなかっただけだよ」
「読んでないけど、選評見る限り姫のが一番面白かった」
と、励ましの言葉を並べている。トーク部屋の入室は既に六百ユーザーを超えていた。
――不特定多数が聞いているのに、良くもまぁ内輪の会話を続けられるものだな。出版関係者だって聞いているかもしれないのに。
「ああ、もう、私って才能ないのかな。書くの辞めようかな」
――辞めようなんて微塵も思っていないくせにそんなこと言うなよ。
「姫」の呂律が怪しい。どうやら部屋で飲みながら配信しているらしい。たまに若い女性とは思えぬ酒焼けのような声が混じっている。
「これは嘘偽りなく言うけど、さゆん姫は第二の村上春樹だと俺は思っている」
新たに発言した男はもっと呂律が怪しかった。
「村上作品を何度も読んだ俺が言うんだから間違いないよ。文体とか、世界観とか、瓜二つだもん」
英夫の眉間の皺がますます深くなっていた。
――村上春樹はこの世に二人もいらない。選考委員はカラオケが聴きたいんじゃない。
「受賞した藤林って人って証券会社の人間でしょ? 実体験を書ける人は有利だよね。近未来の証券市場が舞台で難しそうだし、私は読まないかな」
さゆん姫の発言に家臣達が賛同する。勝者を冒涜するような笑いに包まれる。
――お前らは藤林陸斗の何を知っている?
聞くに耐えない内容に英夫はワーストークを退出する。パソコン画面と向き合う。
「ワナビがやるべきは創作議論なんかじゃない。仲間と悩んで、慰め合うことじゃない。狂気のこの世界に身を置いて、孤独の中で書いて書いて書きまくることなんだ」
唇をギュッと噛み締めて、キーボードを叩く。
――月ミスの十一月末締切まであと八ヶ月だ。次が俺のラストチャンスとなる。
英夫は一人で黙々と真っ暗なトンネルを再び歩き始めた。