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お前の価値は本物か?  作者: 相馬みどり
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第1章 月光の魔法(5)

「どうだい、藤木大先生の様子は?」

 加賀谷は神崎の背後に立つと尋ねた。

「んー、やっぱり初心者ですね」

「デビューする奴なんて、みんな初心者だろ」

 加賀谷は笑う。今年で五十五歳となる。額の広がりを気にして、右手で無意識に撫でながら、社内だけで愛用している黒縁眼鏡をクイっと上げた。

 神保町にある月夜野書房本社ビルの三階の第一文芸編集部の一角。壁時計はもう十八時を回っていた。窓の外では帰宅を急ぐ会社員の群れが見えるが編集部はむしろこの時間から忙しくなる。各島の机上にはゲラが複数あり、編集部員たちが黙々と黒鉛筆で修正案を書き込んでいた。文庫や単行本が乱雑に積み重なり強固な壁を形成しており、それが編集者それぞれのテリトリーを明確にしていた。

「藤林さん、何ていうか……ここまで書く際の基本がなっていないのは珍しいです」

 神崎は疑問符や感嘆符といった約物の後に全角アキがないことや鉤括弧がマルで終わっていること、誤字脱字も多くて改稿が不十分なことなどを明かした。

「懇親会でさ、『この二年間で五千冊以上の小説を読破した』と言っていたけど、あれ本当なのかね? 誰もが知っている作家先生の名前、何人も間違えていたでしょう。アイザック・アシモフを『アシモ』って言って、曽根先生に突っ込まれていたし、ガルシア・マルケスをずっと『ガルベス』って言ってたし。巨人ファンなのかな? あと、ことわざの意味とか漢字の読み方も結構、間違ってたよね」

「編集長も気付いていましたか?」

「そりゃねぇ、気付かない方が不思議だよ。最初は酒席だし酔っているのかなと思っていたけど、ありゃ違うねぇ。本当に小説家デビューする人なのか心配になってしまったよ」

「ですよね」

「まぁ、でも曽根先生だって、事実関係や語句の意味が違うって、初校ゲラ段階では校閲が発狂していたこともあったし、そのタイプなんじゃないかな、彼は」

「そうならば良いんですけど」

 神崎は腑に落ちない様子だった。

「懇親会に黒島先生がいなくてかえって良かったよ」

 加賀谷は皮肉めいた笑みを浮かべていた。

「藤林さんにはとりあえず、『誤字脱字の部分も含めて、全て修正した上で送り返してください』とメールしたら、翌日には改稿された原稿が返ってきたんですけどね。何だか、早すぎる気もしまして」

「仕事が早いのは大変結構じゃないか。神崎君は何を悩んでいるんだい?」

 加賀谷は小首を傾げる。

「今、悩んでいる点はどう改稿するかですね。四十文字十八行にしたいのですが、そうすると四百頁になってしまいます。せめて三百頁には収めたいんです」

 神崎が担当している「ブラック・ディール」は近未来の証券市場を舞台にしたSF経済ミステリーである。あらすじはこうだ。


【西暦二〇三五年――AIによる自動取引アルゴリズム・トレードに人間のトレーダーは駆逐された。証券市場は「グローバル・トレードネット(GTN)」と呼ばれる国際取引所に統一され、株式や暗号資産に限らず、二酸化炭素排出量までもが取引対象となっている。人間のトレーダーは絶滅し、AIが秒単位で莫大な利益を生む世界となったはずだが、そこには闇市場「ブラック・レーン」が存在し、絶滅したはずの人間のトレーダーらが違法取引やマネーロンダリングやデジタル犯罪をしていた。

 主人公の桐生汛きりゅう・じんは、闇市場で手段を選ばぬ取引を行い、社内外の敵と戦っていく。やがて衝撃の真実に辿り着くが……。】


「んー、僕にはちょっと難解すぎるんだよな。桐生は二十八歳。十代半ばで完成させたアルゴリズムトレードシステムが暴走し、百億円の損失を招いた苦い過去を持つ。今はインフィニオン証券でノルマに追われる平凡な社員だが彼には裏の顔がある。違法取引「ブラック・レーン」で暗躍する匿名トレーダー『Z』だ。トレードで莫大な利益を得る一方、自らの過去の悲劇の原因も探っている。そんな感じだよね?」

「ええ、完璧です」

「その設定は面白いんだ。面白いんだよ……。だけどさ、経済の門外漢の僕には専門的過ぎて良く分かんない部分が多いんだよ」

「実は私もそうでして」

 神崎は苦り切った笑みを見せる。

「桐生の直属の上司であるインフィニオン証券の営業部長の関川省吾せきかわ・しょうごも、今時、というか近未来にこんな出世欲に取り憑かれた典型的なパワハラ上司なんているかなって、思っちゃってさ」

「私もそこは全く同意見です。トレーダーより先にパワハラ上司の方が絶滅しているのではって思って」

 ——はて、どうするか。

 加賀谷は指先でトントンと広い額を叩き始める。何かを考える時の仕草だった。

「そうだなぁ。じゃあ、全体的に無駄な描写が多いから削るのと、黒島先生が批判していた三章はまるまる落としちゃおうか。物語に関係ない雑談とか、部屋の詳細な描写とかもいらないよね。話がなかなか進んでいかないと読者は本を閉じちゃうし、もっと筋肉質な原稿にしないと」

「では、その方針でいきます。あと、桐生が差別的な過激発言をちょいちょいしてますけど、そこは変えさせますか?」

「確かに過激な言動は否めないけど、上昇志向の強さやキャラを表す部分だからな。作品の持ち味を壊したくないから、そこは今のままで良いんじゃないの? ちゃんと、『作品の世界観を尊重した』と但し書きしてさ」

「ですが、こういうご時世だし注意するに越した事はないかなと」

 そこで加賀谷は神崎の意図することに気付いたらしく笑う。

「ああ、なんだ、神崎君は焚書ふんしょになるのを気にしているのかい?」

「ええ、まぁ」

 数年前、別の出版社で刊行予定だった小説のタイトルやキャッチフレーズが「差別的である」との批判がSNSで拡散されたことがあった。結果、販売中止となって焚書となった。このところの出版業界はそれ以降も同一事案が続いており、神崎も何度か当事者になりかけたこともあり、センシティブになっている。

「相変わらず神崎君は心配性だね。僕は昨今の焚書騒動の本当の問題は、内容を全く読んでいない人達が批判して煽動していることだと思うけどね。批判するのは簡単さ。僕から言わせれば、せめて内容を読んでから批判して欲しいものだよ。まぁ、今回の担当編集は神崎君だし最終判断は任せるよ」

「了解しました」

 ——責任を押し付けられたとでも思っちゃったかな? 

 神崎の返答は何だか素っ気ない。

「で、当の藤木大先生にはちゃんと勉強させてるかい?」

「もちろんです。まずは担当した単行本を十冊送りましたよ。彼に『これを読んで勉強してください』ってね」

「さすが百戦錬磨の神崎担当編集だ」

「ただ、当の本人は勉強している様子がないんですよ」

 神崎は苦言を呈してから、自身のスマホ画面を見せてきた。画面には〈藤林陸斗〉のSNSアカウントが映っていた。

「彼、本当に本名で活動する気なんだね」

「ええ、みたいですね」

 最近まで使っていた「傍流証券マン・フジリン」のユーザーネームは、本名の「藤林陸斗」に変わっていた。

「おっ、お得意のモーレツ証券小説じゃないか。良いねぇ」

 加賀谷は白い歯を見せる。最新の投稿には「# モーレツ証券小説」のタグ付きで、またもや証券会社勤務の悲哀と笑いを描いた短編がアップされていた。閲覧数も悪くない。

「ペンネームを本名にすると言い出したのもきっと編集長が懇親会の終わりに、ワースアワードの件に触れたからですよ」

 陸斗は懇親会翌日、応募のペンネームである「藤木海斗」ではなく、本名の「藤林陸斗」で活動したいとの旨を神崎に伝えていた。ワースアワードは自己総額が十億円以上の小説家を対象にした賞である。今年で第四回になるが、個人株市場の拡大とともに存在感を増している。

「僕が言ったから?」

 その言葉に神崎がギロリと睨む。

「惚けないでくださいよ。編集長、あれ、絶対わざと言いましたよね?」

 ――やはりバレていたか。

「まぁまぁ、話題になることは良いことじゃないか。ウチとしても売り上げにつながる可能性はあるんだし」

 加賀谷は商売人の顔を覗かせた。

「刊行まで時間がないんですから、まずは藤林さんには改稿に励んでもらわないと」

 神崎はスマホ画面を見ながら嘆息する。

「んー、二作目は短編集でもいいな。タワマン文学界隈でも、こういうの流行ってるしね」

 加賀谷の言葉に神崎は僅かに眉を寄せただけで無言だった。

 それから加賀谷の視線は壁際の書棚に向いた。

 ――ほとんどが死んじまった。

 歴代の「月ミス大賞」受賞作がずらりと並んでいる。華々しくデビューを飾った作家たちの名前だ。しかし、その多くは今や音沙汰がない。一応、この業界の不文律としてデビュー作含めた三作までは面倒を見るという「三作ルール」は月夜野書房にもある。デビュー作こそ、出版社も手厚く扱い、帯には大物作家の推薦文も並ぶ。が、二作目、三作目となると話題性や実力がなければ、まず新人作家の作品は読まれない。

 必死で這い上がって来い――。どこの社もデビューしたらすぐ、新人作家を後ろから蹴り飛ばし、断崖絶壁から突き落とす。そこから這い上がる力が無いものは作家として生き残れない。加賀谷には今、単行本の背表紙が墓標のように見えた。

 月夜野書房は業界六位の出版社である。もっとも、五大出版社と評される大手とは歴然とした差がある大きく離れた六位だ。「月ミス」は大手に対抗するための看板事業にすべくスタートした文学賞だ。お手本にしたのは本屋大賞だった。従来の芥川賞や直木賞といった権威に対抗して、もっとエンタメ性を重視した読者目線の賞を作ろう――そんな理念から生まれたものだ。

 一次は編集部が担当するが、二次、三次、最終の選考委員は型破りだ。ミステリーではない他ジャンルの小説家、書店員、書評家、アイドル、歌手、インフルエンサーなど多彩な顔ぶれである。素人に選考なんてできるか――と嘲笑されたこともあったが、受賞作のメディアミックス化が相次ぎ、今では出版業界で無視できない存在となってきている。

 数年前に投資ファンドに買収されてからは選考委員の要件に個人上場していることが加わって、ますます業界での独自色を強めている。

「あの、編集長。別件なんですけど良いですか?」

「んっ、何?」

 回想の渦から抜け出し、加賀谷は神崎に視線を戻した。

「来週に発表される月ミスの最終結果の選評なんですけどね、一応、既に五人の先生方からそれぞれいただいております。ただ、黒島先生の選評なんですが……」

 そこで、神崎の表情に暗い影が差す。端末画面には黒島の原稿が映し出されていた。

「んー、酷評だね。というか、二宮以外、誰も褒めてないじゃん。これじゃ二宮が受賞したみたいだ」

 加賀谷は苦笑する。

「選考会の勢いそのままに容赦がないと言いますか……。これ、載せたら炎上しそうですね」

「もう少しマイルドに仕上げて欲しいとは打診したのかい?」

「もちろんです。だけど、黒島先生はあの性格ですからねぇ。『これでいけ』って言うんですよ。さもないと、選評の掲載は許さないって。大丈夫ですかね? 他の最終候補作への言及も含めて、これ、炎上しませんかね?」

 ――さすが黒豹だな。

 加賀谷は何故か、女豹のポーズで闇から獲物を狩ろうとしている黒島の姿を思い浮かべていた。思わず口元が緩む。

「炎上? 良いじゃないか。話題になるなら結構だ。このままいこう」

「えっ、良いんですか⁉︎ 了解です。じゃあ校閲に回しちゃいます。このままの体裁で掲載しますからね」

「ああ、これでいこう」

 頷いた加賀谷は編集長ではなく策士の顔をしていた。

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