第1章 月光の魔法(4)
受賞連絡から一週間後の夕刻、陸斗は新宿の再開発エリアの前衛的なビルの一階にいた。懇親会まではまだ二十分ある。
「藤林さんでしょうか?」
会場の七階の中華料理店を確認しようと、エレベーター前の各階案内板を見上げていた時、思いがけず声をかけられた。振り向くと知的な雰囲気の女性が立っていた。黒髪を肩口で切りそろえたボブカット、落ち着いたグレーのジャケットに白のブラウスという装いだった。
「えっと……」
——場所的に、もしかして証券外交で会った財務部や財団の人かな?
戸惑う陸斗に女は名刺を差し出してきた。
「月夜野書房の神崎です」
「あっ、神崎さん⁉︎」
これが担当編集である神崎との初顔合わせだった。まさか本名で呼ばれ、ここで会うとは想定していなかったから声が上擦る。片耳につけたブルートゥースイヤホンを慌てて外して、陸斗も胸元から名刺を取り出す。
「僕のは……証券会社の名刺で恐縮なんですけど」
一応は持ってきたが出版社や選考委員の人間にこれを渡して良いものか迷っていた。
「お頂戴します。神楽証券にお勤めですよね。最大手の証券会社ですしエリートですね」
小説応募時に生年月日や住所、本名、現在の勤め先まで仔細に送っているから、神崎は陸斗についてはほぼ知っているはずだ。
「そんなエリートなんて。本当に小説そのままのブラックな職場ですよ。神崎さんはここでお待ちだったんですか?」
陸斗は話題を変える。
「ええ。選考委員の先生方をお迎えするのが、今日の私の仕事ですから」
「おや、藤木先生ですかね?」
ちょうどそこへ軽やかな歩調で男が近づいてきた。グレーのスーツをまとった小太りだった。緊張感を解きほぐすような柔和な笑みを浮かべていたが、眼光は鋭かった。差し出された名刺には〈月夜野書房第一文芸編集部長兼編集長 加賀谷昭信〉とあった。
「いやぁ、先生のブラック・ディール、社内でも絶賛の嵐でした。刊行が今から楽しみです」
神崎とは対照的に加賀谷は陸斗を「藤木」姓で呼んだ。加えて、まだデビューもしていないのに「先生」とあからさまに立てている。
「じゃあ、藤木先生と僕は先に行っているから他の先生方のご案内よろしくね」
加賀谷は神崎と軽く視線を交わす。それから陸斗をエレベーターにエスコートした。
葉巻を咥えたサングラス姿で時間にも平気で遅れてくる——。文壇の人間に対して、陸斗はそんなアウトローな想像をしていたが、十八時には予約席の円卓に全員が着座していた。選考委員は皆が個人上場している。錚々たる「大型株」ばかりが円卓を囲んでいた。
「では、藤木海斗君の月光ミステリ大賞の受賞を祝して乾杯!」
陸斗の右隣の「どんでん返しの鷹」こと鷹村冴人が、ハードボイルドさそのままの声で乾杯のビールグラスを掲げる。左には「警察小説の鬼」と称される鬼塚光成である。恐縮し切った表情で陸斗は二人の重鎮と乾杯グラスをそっと合わせた。グラスを掲げて、円卓の他の選考委員とも形だけの乾杯を済ませてから、ようやく喉に馴染ませるようにビールを飲む。だが、緊張しているからか、苦味だけしか感じなかった。
鷹村がビールグラスを一気に空にする。ビール瓶を掴もうとした陸斗を制して、自ら手酌する。
「お前はそんなことせんで良い。今日の主賓なんだから」
作品の話ではなく、最初は陸斗のプロフィールの話題が中心だった。出身や現在住んでいる場所、本名、小説を書き始めたきっかけなどを選考委員四人と月夜野書房の二人が、前菜を口に運びながら静かに聞いていた。
「国語が苦手で小中学校では進級すら危ぶまれた」
「実は二年前まで小説を読んだことがなかった」
「この二年間で五千冊以上の小説を読破した」
そのエピソードを話した際には、皆が一様に驚いていた。小籠包が運ばれてくる頃には、陸斗が証券会社勤務ということで、自然と自己総額の話題に変わった。
「俺の自己総も一時は五十億いってたんだが、ぽっくり逝くとでも思われているのかな? 最近は上値が重いぜ」
鷹村は笑えない冗談をかますが、三十七億の自己総額は驚異的な個人価値である。
「俺のファンも高齢化が深刻でな。鬼籍に入り始めている。最近は新刊出しても全然、株高にならねぇんだ。おい、神楽の力で俺の株価、操作できねぇか?」
「では、週明けにでも、ちょっと上に相談してみますね」
鷹村がガハハと笑い陸斗の肩を叩く。
「僕なんて、この間、書評で黒島さんからけちょんけちょんに酷評されて、自己総が暴落しました。『ただただ気持ち悪いだけで、この宇宙人が、何のために地球に来たのかが結局分からなかった』って批評、酷すぎませんか?」
自己総額が十八億円のSF界の風雲児・曽根義彦が返す。
「黒島の婆さんは誰にでもそうさ。俺も何回かボロクソに書かれたことがあるぜ。あの『黒豹』は日頃仲が良いとか、親交があるとか関係ねぇからな。毎回、星五つで必ず評価する姿勢は正直すげぇと思うぜ」
「今回の選考会でも自らの推す候補が選ばれなくて……まぁ、凄かったですもんね」
そう発言した鬼塚は途中で陸斗の視線に気付いて「まぁ、凄かった」と軌道修正して着地させた感があった。元警察官僚の超エリートだが気取った感じは一切ない。自己総はこの場では鷹村に次ぐ二十八億円だ。
「黒島さんの批評で一億円も吹っ飛んだですから、本当に笑えないですよ。『浪速の黒豹』の名は伊達じゃない。あーあ、せっかく二十億円の大台間近だったのになぁ」
曽根はそれでも恨み節だった。癖なのか? 話しながら鳥の巣ヘアーのうねりを上下にさすっていた。
「書評が株価材料にされるのは私にとっては追い風です」
大物作家三人の会話に入ってきたのは書評家の糸山聖奈である。二十五歳で陸斗と同年齢だ。陸斗同様に左腕にはスマホに代わる次世代通信機器「クロコ」をつけていた。
「ティックトックやユーチューブ、インスタがなければ、私は選考委員には絶対になれませんでしたから」
糸山はSNSでの書籍紹介のショート動画の先駆者である。独自の切り口とルックスも相まって、若い世代を中心に絶大な支持を集めていた。
「実はね、月ミスの選考委員は自己総が十億円以上ないとできないという運営側のルールがあるんだ。創設から前回まで選考委員だった名物書店員の敷島さんが勇退されることになってね、今回は糸山さんにお願いしたんだ」
そう補足したのは加賀谷だった。陸斗は先ほど、クロコにて糸山の株価もチェックしていた。上場は五年前で、当初の自己総額は五千万円にも満たない小型株だった。その頃は、モデル業との兼務でブイログや料理動画を投稿するだけで、ブームに乗って上場した何の取り柄もない個人株の一つに過ぎなかったようだ。
ところが小説紹介のショート動画の投稿を開始すると、インフルエンサーとしての地位を確立。三年でぐんぐんと自らの「株」を上げた。現在は十一億円もの自己総がある大型銘柄だ。
「書店で聖奈ちゃんの推薦のポップがあるだけで、売り上げが全然違うんだから。僕も聖奈ちゃんに批評されたいよぉ。そしたら、二十億に届く気がする」
「私だって、黒島さん並みに厳しいんですよ。批評の際は容赦しませんからね」
糸山の返しに場が笑いに包まれる。
「いやぁ、それにしても『ブラック・ディール』面白かったぞ」
鷹村の言葉でようやく陸斗の受賞作の話題になった。既に乾杯から三十分ほど経っていた。
「有り得そうな近未来という設定が良いし、何よりミステリーとして読ませる。まだ粗削りな部分はあるが、それは改稿で何とかなるだろう。総じて楽しく読ませてもらった。質問があれば何でも俺に聞くんだぞ」
「ありがとうございます」
恐縮し切った表情で陸斗は頭を何度も下げる。見かけ通りというか、鷹村は親分肌のところがあった。
「ええ。中盤からの展開は見事でしたね。何点か改善点を指摘するならば、伏線の置き方が露骨すぎるのと種明かしの部分はやや説明過多かもね。ミステリーは読者に考えさせる余地を残すことも大切だから。それはデビュー後も書き続ければ自然と学んでいけることだけどね」
鬼塚は包み込むような笑みで助言した。
一方で円卓の対局に座っている神崎は何度か頷いてメモしていた。八月の刊行まで、二人三脚で神崎とブラック・ディールを仕上げていくのだと改めて気付く。
どの選考会でもそうであるが、毎年、受賞作発表時に最終選考作品の選評が公開される。陸斗はどんな話し合いの結果、自らの作品が最終的に選ばれたのか、今から読むのが楽しみだった。
一方で糸山からは厳しい意見が多かった。懇親会の終盤、見計らったように藤林の横の席に来ると「キャラクターの描き方が軽くて感情移入しづらかったかな。後半の展開がちょっと強引で、ご都合主義感もあった」と指摘した。陸斗が同年齢だからタメ口なのか、それとも作家志望者には誰であれタメ口なのか、書評家の肩書がなければ、どこにでもいそうな二十五歳の若者そのものだった。
「それとね——」
糸山は急に声を絞る。他には誰も聞いていないのを確認してから続ける。
「小説家として、今後もやっていきたいなら秘密はちゃんと守らないとね」
「秘密ですか?」
意味か分からず陸斗は問い返すが……。
「いやぁ、藤木君、現実世界に一つのとんでもない嘘を入れるだけでSFになると、僕も大変勉強になった選考会だったよ。君は筒井先生や小松先生、星先生になれるSF界の逸材だ。ずっと聞きたかったんだが、日本沈没を読んだんじゃないかい?」
「小松右京のですか?」
「違う! それは弟さんの方だ」
「すみません。はい、確かに日本沈没も読んだことはありますけど……」
その勢いに圧倒されながら返すと、
「そうかぁ。やっぱりなぁ。将来的にはヒューゴー賞だって夢じゃない。僕と争う日も来るのかなぁ」
曽根は少しアルコールに飲まれている感がある。現に強烈なカットインをかまして、糸山と陸斗の会話を強制終了させていた。陽気さに拍車がかかった口調で、牛乳瓶メガネは曇っていた。
「おい、なんでヒューゴ賞なんだよ。黒島の婆さんの言葉じゃねぇが、月ミスはミステリの賞だからな」
鷹村のツッコミで場はまたも笑いに包まれた。
「あの……すみません。先ほどからお話に出てくる黒島さんは今日はいらっしゃらないのでしょうか?」
陸斗がそう発言した瞬間、皆の視線が一気に陸斗から離れた。さっき『質問があれば何でも俺に聞くんだぞ』と言っていた鷹村でさえ、バツが悪そうに目を逸らして、グラスのビールをグイと流し込む。
「黒島さんは今日、どうしても外せない予定が前々から入っておりまして、それで参加できないのですよ。本人も大変楽しみにしていただけに誠に残念です」
淡々と返したのは加賀谷だった。口元は笑みを浮かべていたが、やはり、その目は笑っていなかった。
最終選考会は「史上稀にみる大接戦」だったというのを先ほど鷹村が漏らしていた。そして、鬼塚の発言から推察すると黒島は別の候補の作品を推していた節がある。
「ぷはー、まぁ、そんな難しい話はやめて、今日はとことん飲もうや」
——決して難しい話じゃないだろう。
浮かない表情の陸斗の肩を鷹村がポンポンと叩く。そのタイミングで注文した追加の紹興酒のボトルが運ばれてくる。
「良いか、藤木。この世界はな、デビューよりも作家であり続ける方が何倍も難しいんだ。この世界に居たかったら、とにかく書き続けろ」
鷹村は紹興酒を注ぎながら熱弁する。黒島不在の理由には納得できなかったが、鷹村のその言葉だけは陸斗の胸に沁み渡った。