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お前の価値は本物か?  作者: 相馬みどり
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第1章 月光の魔法(3)

「マスター、『ゴールデンクロス』をもう一杯」

 陸斗は空になったロックグラスを掲げる。フレディ・マーキュリー似のチョビ髭マスターは寡黙な性格そのままにコクリと頷くのみだった。

 ──それがまた良い。

 まだ二十一時ということもあり、店内の客はまばらだ。心のさざなみを整えてくれるクラッシック音楽の旋律と薄暗い店内の灯りが陸斗を優しく包む。

 ──ゴールデン街の夜は皆が仮面をつけている。そう、このバーでは特に……。

 新宿ゴールデン街の路地裏にひっそりと佇むのがここ「個人株バー『ペルソナ』」である。入り口の木の扉には金色の仮面のエンブレムが埋め込まれている。扉横には顔認証と指紋認証センサーもあり、本人確認が済むと自動で鍵が開く仕組みだ。

 入り口からは想像できないほど店内は広い。カウンターが十席、ソファ席が六卓、スタンディングスペース含めれば五十人程度は入れるだろう。壁には複数の薄型モニターが静かに埋め込まれている。

「本日、急上昇した個人株トップは、阪神タイガースからニューヨーク・ヤンキースへの電撃移籍が発表された新城怜央しんじょう・れお選手です。自己総額は三十億円を突破し──」

 モニターの一つでは、個人株専用チャンネルが字幕入りで流れている。他のモニターでは著名な個人株のチャートや各年齢別の個人株のランキングが表示されていた。勤務先から徒歩十分ということもあって、仕事帰りにここにふらりと寄ることが多い。

 「アイランドリバーサル」「クラウン・ジュエル」「ゴールデン・パラシュート」「ポイズンピル」「ホワイトナイト」「マーケットメイク」「アービトラージ」など、ドリンクやフードメニューは全て株式にちなんだ名前となっている。

 「ゴールデンクロス」は短期移動平均線が長期移動平均線を付き抜ける現象で、買いのサインの一つだ。陸斗は信心深い性格ではない。が、二杯目も「ゴールデンクロス」のロックを頼んだところに今の陸斗の内心が透けている。

 ——俺の株は買いだ。俺の価値はどこまで上がる?

 左手首につけたクロコが空中にホログラムを投影している。見つめる陸斗は喜悦の表情だった。表示されていたのは個人株アプリの「ユアワース」である。

 会社だけでなく個人も上場できる時代となって久しい。藤林陸斗株は東京証券取引所の個人市場に上場している。眼前のホログラムでは、6G通信の高速データによって、弾むように値が変わっていた。時間外取引できょうの終値比十二%高の三八二一円をつけていた。上場来高値である。

 あの後、四谷怪造財団の西条と三億円の投信契約を交わした。手数料の収益は一千万円となった。都築が失った金額をその日のうちに取り返したことになる。帰社して課長の関山にそれを報告すると、信じられないという表情でポカンと口を開けた。しかし、すぐに底意地悪い笑みに変わった。

「まぁ、当然だろうな。テメェは担当顧客にも恵まれているし、都築の件はテメェに責任があった。これくらいを取り返してもらわないと俺も困る」

 その直後、関山は何かに気付いて席を立つ。尻尾を振って、ちょうど帰ってきた年下のエリート支店長の山口やまぐちへと報告に行った。見ていて滑稽だった。まるで自分の手柄のような振る舞いで、支店長への点数稼ぎに勤しんでいた。銀行だけじゃない。証券でも『部下の手柄は上司のもの』である。支店内の別部署に契約書類を提出し、電話で何点かの留意点を引き継ぐと、陸斗は逃げるようにオフィスを出てきた。

 株とはすなわち情報戦である。藤林陸斗が三億円の新規契約を獲得——。それは、とある証券営業マンのちょっとした功績に過ぎないのだが、噂はじわり広がっているらしい。現に藤林陸斗株のチャートは上昇が続いており、ちょうど今、大台を突破した。

 ——ついに俺の価値は三億円を超えた。

 発行済み株式総数に株価を掛けたのが自己総額じこそうがくで、企業でいう時価総額じかそうがくの個人版だ。一般的に時価総額の計算式は「無形資産+純資産」とされる。一方、自己総額の場合は「生涯年収+純資産」だ。自己総額の純資産は現金をはじめ、金融商品や不動産、貴金属などが該当するため、富裕層の子どもはどうしても高くなる傾向にある。

 急速なインフレが進む中でも日本人男性の平均生涯年収は三億円と変わらず、自己総額平均は一億五千万円である。年齢がまだ二十五歳ということを加味すれば、陸斗のこの三億円という額はかなり高い。

 その後も買いの勢いは止まらなかった。ついには制限値幅の上限(ストップ高)水準に達して、そのまま買い気配となった。板に買い注文が積み増されていく光景に笑みが綻ぶ。ロックグラスの「ゴールデンクロス」を呷るとカーッと喉が熱くなった。

 二〇二〇年一月、暗号資産の取引所を運営するキャピタルマーケットデザイン(CMD)が日本初の個人株取引所を開設した。企業同様に個人も上場できる時代になったのだ。それは、まさに革新的なサービスと言えた。同社の個人株アプリ「マイワース」はスマホで手軽に個人株取引ができた。個人上場自体が一種の社会的なプレゼンスとなり、承認欲求や上昇志向の強い若い世代を中心に上場する個人が増えた。

 ところが三年前の二〇二四年、その個人株市場に激震が走った。当時、個人上場していた証券会社の女性アナリストへのTOBティーオービー(株式公開買い付け)が成功するように運営元のCMD自身が外資系証券会社のトップに便宜を図っていたことが発覚した。個人市場の運営会社の暗躍に「公平性に欠ける前代未聞の事件」「運営元として恥ずべき行為だ」と、国内外で批判が殺到した。法制度の遅れの意表を突く不正でCMDの評判は地に落ちた。金融庁の行政処分が下ったことで、もはやCMDには運営できる体力は残っていなかった。個人株市場の存続自体に暗雲が垂れ込めたが……。

 この危機に官民が異例の早期連携を見せた。まず、当時の首相が個人上場市場の存続を支持する旨を会見で表明した。その直後、複数の証券会社や投資会社、銀行などが個人上場市場の運営に名乗りを上げた。

 そして、最終的にCMDを買収したのは日本取引所グループ(JPX)だった。ピンチはチャンス——。JPXは傘下の東京証券取引所に個人市場を開くという奇策に出て、むしろ個人上場ブームに拍車をかけた。買収に伴いアプリ名は「マイワース」から「ユアワース」に変更。利用数は右肩上がりで、二〇二七年今現在では五百万を突破している。

 個人上場によってプライバシーが侵害されるリスクはある。一方でメリットはそれ以上にあるというのが陸斗の認識で、神楽証券に入社した三年前から個人上場している。

 銀行借入や家賃、保険料、ローンが自分の価値によって変わる。自己総額が高くないと利用できない店やサービスも多くなってきた。陸斗の場合には、さらに会社の人事考課にも反映されている。

 最近では、死亡事故裁判の損害賠償請求や転職時の年収の目安としても活用され始めた。年間二十万円の上場維持コスト以上の恩恵は享受できるとの思いはある。


 心地よいアルコールの浮遊感と株高の高揚感で帰路の足取りは軽かった。陸斗が中野駅近くのマンションの三階のドアを開けたのは二十三時過ぎだ。玄関の靴を適当に脱ぐと、リビングには灯りが点いていた。

「うぃす、陸、おかえり。待って、今めっちゃ良いところだから、しばらく無視するね」

 リビング中央のテーブルで徳永尊音とくなが・みことが文庫を読んでいた。飾らない性格そのままに長く伸びた黒髪をポニーテールで後ろに束ねている。

「尊音、ただいま」

 宣言通り、尊音は無視する。その後、陸斗がいないかのように小説の世界に浸かり続けて十分。突如、パタンと文庫を勢いよく閉じる。

「陸、遅いから一一〇番しようか悩んでいたよ」

「遅いってまだ二十三時だよ。それに、しばらく文庫に夢中なようでしたけど?」

「バレたか……」

 そこで尊音はハッとした表情で目を大きくする。帰宅後、初めてテーブル越しの陸斗の顔を見た。

「あれ、陸、なんか良いことあった?」

 ——まさか陸斗株の大幅高を知っている?

 一瞬、そんなことを考えるが、すぐに打ち消す。尊音は陸斗が個人上場しているのを知っているが、個人株に全く興味がない。現に尊音は個人上場していないのだ。

 ——月ミスの受賞を尊音なら言っても大丈夫かな?

〈公式発表の四月一日までは一切外部に漏らさないでください。〉

 その迷いをかき消したのは、受賞連絡後に神崎から来た再度の注意喚起メールだった。

「いや、大型ディールが決まってさ。それで会社でも褒められちゃって」

 社内の雰囲気はいつもピリピリしていて同僚は仲間ではなく敵だ。今日も褒められてすらいない。尊音にはどうしても脚色したフィクションを普段から話してしまう。

「そうなんだ。それで愛しの彼女を放置して勝利の美酒ですか?」

「あっ、バレた?」

「うん。めっちゃ、臭うもん」

 そこで互いに笑う。

「とりあえず、お風呂入ってこーい。『無臭の人間こそ価値がある』のさ」

 どこかで聞き覚えのある言葉に陸斗は思考を巡らす。

「あっ、その本」

 尊音が先ほど閉じた文庫の表紙に陸斗の視線が釘付けになる。

「それ、俺も電子で読んだよ。何だ尊音も買っていたの?」

 それは昼間に西条と話した新進気鋭のホラー作家、寒川狂介のデビュー作「奈落の叫び」だった。

「うむ。書店割引で即効買った。もう三周目さ」

 どうやら自身が勤める書店で購入したらしい。

「それにしても三周目って凄いな」

「私は良い本なら何度だって読むのさ。うぅう、また重版だって。何でこんな脳汁出まくる凄い本を文庫で出版したんだろう。単行本で良かったのにな」

 ——そういえば、ブラック・ディールって単行本での出版って言っていたな。

「単行本で出版の方が凄いの?」

 尊音は新宿駅南口にある文映堂ぶんえいどう書店で働いている。本が好き過ぎて書店員になってしまうほどだ。小学四年で「ドグラ・マグラ」をはじめとする三大奇書を読破したという逸話からしてぶっ飛んでいる。徳永尊音という名前を文字って「尊徳そんとく様」というあだ名で呼ばれていたらしい。尊音は単行本と文庫の違いについてのトリビアをあれこれと語った後、再び「奈落の叫び」の話題に戻った。

「この初版、実は印刷後に誤植が発覚してね、編集部総出でシールを貼って修正したんだ。初版が四千部と少なかったのもあって、これはホントにレア本なのさ」

「へぇ、レア本ね。でも、やっぱり俺は電子派かな。嵩張るしさ」

「はぁ、陸は紙の本の良さが分かっていないねぇ」

 尊音はやれやれと嘆息する。それから、風呂に向かう陸斗の背中に言う。

「溺死しないようにな」

「尊音、そのシーン、どこぞの小説であったんだけど」

「ふへへ、バレた?」

 舌を出した尊音の視線は机上の「奈落の叫び」に向いていた。

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