第1章 月光の魔法(2)
「課長、都築が出勤していません」
午前七時、藤林陸斗が出勤してきた営業部第七課長の関山大吾にそう告げると渋面になった。
「どういうことだ。連絡はしたか?」
「繋がりません」
「寮には連絡したのか?」
「ええ、もちろんしました。寮長の話では都築は今朝五時に寮を出たそうです」
藤林は最大手の証券会社である神楽証券の二十五歳の営業マンである。マンモス支店である新宿支店の営業部第七課に属している。
「出たそうですじゃねぇよ。じゃあ、何でここにいねぇんだよ。テメェ、どういう教育していたんだよ!」
関山の顔には新人の都築隆文が出勤してこないことへの心配は微塵もない。あったのは出勤早々に厄介ごとを報告されたことへの怒りだったが……。
「まさか……」
──やっと気付いたのか、この人。
関山は何かに思い至ったらしく、島の末席の都築の机を荒々しく開ける。
「やっぱりだ。クソが!」
キャビネット内から一つの封筒を見つけるまで十秒と掛からなかった。証券会社という戦場に身を置いていれば、幾度となくこういう光景に出くわす。
──後輩がいなくなったのに自分でも本当に薄情だと思う。
実は陸斗は出勤直後に異変に気付いて、その封筒を発見していた。が、触らぬ神に祟りなしのことわざよろしく、そっと戻していた。
退職願──。関山が握りしめている封筒には達筆な字でそう書かれていた。
「あいつ、バックれやがったぞ!」
ビリビリに破く。朝のオフィスで紙吹雪が舞った。七課には関山と陸斗、都築を含めて計七人の課員がいるが、他の四人の課員は厄災が降りかからぬように、黙々とデスクワークを続けて、外交準備に励んでいた。
神楽証券新宿支店の場合、月毎に重いノルマが課される。それを達成できない課員は皆の前で徹底的に詰められ、吊し上げられる。新人の都築の場合、二千万円の収益が月のノルマだった。ここでいう収益とは、投資信託や外債、社債といった金融商品の販売手数料のことである。仮に手数料が五%の一千万円の商品を契約できたとすると、毎月五十万円の収益が見込める。もっとも、現実的にはどこもリスクが低い商品を求めるため手数料は低いし、一千万円というまとまった金額を契約してくれる顧客なんて稀である。
「いやね、息子さんが出勤してこなくて、こっちは大迷惑しているんですよ」
関山はついに都築の山形の実家にまで電話をかけていた。四十二歳のうだつの上がらない新宿支店の最年長課長は、相手が自分より弱い立場であると途端に高圧的になる。どうやら電話の相手は都築の母親らしい。自らに都合の良いように脚色までしていて、じわりじわりと追い詰めていった。
──この人には本当についていけない。
陸斗はただただ呆れていた。
都築が関山から面罵されたのは三日前のことである。大口顧客である新宿総合病院が、「三億円契約の解除を突如告げてきました」と関山に伝えたことが発端だった。このまま契約解除となれば、三・三%の手数料収入が見込めなくなり、毎月入ってきていた一千万円もの収益(ストック収益)が丸々なくなることになる。
関山は「何としても留意させろ」と命じたが、先方の態度は変わらなかった。
「課長も同伴していただけないでしょうか」
何度となく都築は救援要請をしたが、関山が頑なに拒否した。それもそのはずだ。そもそも契約解除の要因を作ったのは、前任の関山自身だったからだ。二年前、関山は神楽証券の戦略商品を新宿総合病院と契約した。ところが戦略商品の多くが「戦略」として位置付けられるには、それなりの理由がある。実際、この金融商品はノックイン条項付き、いわゆる「仕組み債」と呼ばれるもので、リスクが高い商品だった。結果、ここ最近の相場急変で多額の損失が確定的になったのだ。
「先方は凄く怒ってらして、やはりダメでした」
前夜、項垂れてオフィスに帰ってきた都築に関山は言い放った。
「だったら、何としてでも他から契約とってこいよ。テメェは今、何をそこでボーッと突っ立っているんだ。一千万も会社に損失を与えることになるんだぞ。もし新たな契約を取れなかったら、テメェは死装束で出勤してこい。皆の前で切腹だ。安心しろ、介錯は俺がしてやるからな」
残忍な笑みを浮かべ、このコンプライアンスの厳しい令和の時代に罵詈雑言の限りを尽くした。その結果、都築は逃亡したのだ。
「いいか。都築のクソバカのせいで、ウチの課の収益は一千万円足らねぇ」
朝礼後のミーティングで関山は目の前の課員五人に発破をかけるが、課員の士気は上がらない。誇張ではなく証券会社の営業は「戦場」だ。売買手数料などの主要指標で、会社によって徹底的に管理される。いや、「飼われている」という表現の方が正しいかもしれない。社内システムで全国の営業員の数字を確認することができ、順位が明確化される。結果として、他社だけではなく、同僚の他支店の営業員とも顧客を取り合うことになる。上司や先輩、同期、後輩の全員がライバルとなる構造で、神楽が「数字が人格」と揶揄される社風の所以だ。
──次の標的は自分かもしれない。
誰の顔にもそう書いてあった。こんな日常のせいで、七課、いやこの会社には結束感がない。ただ机を並べているだけだ。
「おい、藤林!」
突然、呼ばれてビクンとなる。凶相が陸斗を射ていた。
「テメェがメンターだったんだ。この責任はテメェにある。あと二日で、何としても三億円のディールを獲ってこい。いいな?」
メンターとは新人の教育担当である。
──おいおい、俺は半沢直樹じゃないんだぞ。
「…………」
「いいな⁉︎」
「はい……」
陸斗は面従腹背の言葉そのままに下唇を噛み締めて了承した。
三月半ばとは思えぬ寒風が洋館の周りの木々の枝をシャーシャーと揺らしていた。応接室の壁掛け時計は十三時を示している。陸斗がここに来てから針はちょうど一周していた。
──いや、それよりも……。やはり連絡は来なかったか。
きょうは「月光ミステリ大賞」の最終選考会当日だった。
「受賞の場合には十二時までにはお伝えしますので」
最終候補作に選出されたという連絡の際、神崎という月夜野書房の女性編集者はそう言っていた。が、その十二時を既に一時間過ぎている。落選とみてほぼ間違いないだろう。 もっとも、陸斗に落胆の気持ちはない。初めて書いた長編を「藤木海斗」のペンネームで応募したところ、一次、二次、三次を突破し、最終選考会に進出してしまった。言うなれば、甲子園初出場校が勢いそのままに決勝に進出した感覚に近かった。
──まぁいい。初挑戦にしては大健闘だ。出来すぎだ。
今朝、関山に都築のノルマを押し付けられてからというもの、陸斗は担当の医療法人や宗教法人、財団などに手当たり次第連絡した。が、どこも反応は芳しくなかった。そんな中、たまたま別件の連絡が来てアポ入れ出来たのが、この「公益財団法人四谷怪造文学振興財団」だった。昭和のホラー作家・四谷怪造が晩年に文学振興のために設立した財団である。「四谷怪造ホラー大賞」などを主催していることで有名で、財団資金の一部は金融商品で運用されている。応接セットのソファに座る陸斗の右奥に大きな窓があり、眼前の壁には額縁に収められた肖像画が掛かっている。微笑む老人は四谷怪造である。
──何だか、誰かに見られている?
この応接室に通される度に毎回そう思う。今日に限っては、月ミスの最終選考の日と重なったことも、陸斗を落ち着かなくさせている要因の一つだと思う。四谷怪造の肖像画を再度、チラリと見た時だった。左腕につけたクロノスコア(クロコ)が震えていた。チタン合金のバンドが冷たく光っている。
「びっくりしたな、もう」
空中に表示されたホログラムのディスプレイには着信の表示があった。月夜野書房編集部・神崎──。三次選考突破の際に連絡をもらい、その際、登録していた。受賞の連絡は十二時頃のはずで今はもう十三時だ。通話アイコンをタップする頃には一つの可能性に行き当たっていた。
──そうか。落選でも電話は来るものなのか。
「はい、もしもし」
「もしもし、月夜野書房の神崎です。藤木海斗さんのお電話でお間違いないでしょうか?」
「はい、そうですが……」
ペンネームで呼ばれたことで一瞬、反応が遅れる。もっとも、落選(選外)の電話と決めつけているから声には張りがなかった。だが……。
「おめでとうございます。藤木さんの『ブラック・ディール』が今年の月光ミステリ大賞に決まりました」
「…………」
顎が落ちる。時が静止する。
「もしもし、聞こえますでしょうか?」
「大賞……? えっと、誰がですか?」
「ですから、藤木さんの『ブラック・ディール』です」
「僕の作品が……?」
「ええ、おめでとうございます。大賞受賞作として八月に単行本として刊行されます」
神崎は陸斗の反応を受賞の嬉しさと勘違いしている節があった。
「担当編集は私、神崎が務めさせていただきますので」
「えっと……担当編集……そうですか」
絶対にその返しじゃないだろうという返ししかできない。
「連絡が遅くなってしまいすみませんでした」
「いえいえ。それは全然……」
「近々、顔合わせの機会も設けます。それは後ほどメールにて。あと、四月一日の結果発表までは誰にも受賞の件は伝えないでください」
「……はい、承知しました」
「他の候補者にも電話をしなくてはいけませんので、取り急ぎ受賞報告のみで失礼致します」
その言葉から選外でも電話が来るらしいことを陸斗は初めて知った。ソファに座ったまま、クロコの通話終了を示した画面をしばし茫然と眺めていた。
──俺が受賞? ちょっと待って、小説家デビューするってこと?
その時、応接室のドアが開く。
「やぁ、藤林さん、お久しぶりぃ」
入ってきたのは痩身の男だ。財務部長の西条邦夫である。
「西条部長!」
「んっ、どうしたんだい? まるで幽霊でも見たように顔面蒼白だけど。よく出るんだよ、ここ」
そんな不吉すぎる言葉ですら今の陸斗の脳には浸透しない。
「いや、なんかすみません……」
唐突すぎる受賞連絡にひたすらフワフワしていた。
「遅れて悪かったね。会議がなかなか終わらなくてね。元気かい?」
元気なのかを問い返したいのは陸斗の方だった。西条は相変わらずクマが酷くて青白い。ホラー映画の登場人物そのものだった。
「ええ、元気です」
陸斗はゆっくり息を吸い込んで平静を装う。なぜ、ここに自分が来たかを思い出してから続ける。
「西条さんもお変わりない様子で安心しました。ああ、これどうぞ。つまらないものですが」
持参した手提げ袋からウィスキーボトルを取り出した。いきなり目論見書を取り出すのも露骨すぎるし、アポが一時間ならば五十分は雑談に当てるのが陸斗のやり方だ。
「ほぉ、琥珀じゃないか。高かったでしょう」
西条は驚いていた。それから笑みを消す。
「でも期待に応えられそうにないよ。神楽さんからは二ヶ月前に外債を買ったばかりだからね」
財務部長としての厳しい一面を覗かせて、過度な期待はしないでねと予防線を張った。
「いえいえ。年度末ということで、今日は挨拶も兼ねて訪ねただけですから」
陸斗は笑みを浮かべて営業なんて滅相もございませんと否定したが、本当は商品提案するために来た。
「ほら、ノックイン条項付きの仕組み債で今、色んな財団が焦げ付いているでしょう? 門外漢の理事長は『この際だから銀行預金で運用したらどうか』なんて、こちらの苦労も知らずに言い出す始末でさ。リスクあっての資産運用というのが全く分かっていないんだ」
理事長は四谷怪造の次男の西条雄二郎である。西条自体も遠縁にあたるとのことだが、一族内でもヒエラルキーがあるらしい。財務部長の西条は時々、こうやってトゲのある発言で理事長批判をしている。
「あの偏屈な理事長を説得するのも面倒くさいし、今日はお話だけということで」
眼前の西条の背後には四谷怪造の肖像画が飾られている。歴史あるこの洋館はかつて怪造の自宅だったらしい。意図的にそうしているのか分からないが、洋館全体に何だか陰気な雰囲気が漂う。
「僕もあれ、読みましたよ」
それ以降は異例の大ヒットを記録している新人ホラー作家、寒川狂介のデビュー作の話題で持ちきりだった。「読了」した陸斗自身、物語の構成の巧みさに唸っていたので、商品提案を忘れて、しばし話に夢中になっていた。
「ここ数年のホラーブームが追い風となっているのもあると思う。そういうのは、ウチの財団にとってもプラスでね、怪ホラ大賞なんて応募数が過去最高になりそうだよ。そういえば、都築さんは元気かい? 彼もたまにここに来てくれていたんだよ」
陸斗は言葉を慎重に選んで明かす。
「実は……」
・都築が今朝から行方不明で、自席のキャビネットに退職願が入っていたこと。
・新宿総合病院の三億円の契約解除の穴を陸斗が埋めるよう関山に指示されたこと。
・あと二営業日でその過大ノルマを達成しなければならないこと。
「うーん、前から思っていたけど、おたくの関山とかいう課長さん、少々、やり方が強引すぎやしないかな」
西条は渋面で返す。
「はい、今に始まったことではないんですが、都築が不憫で」
そうは言ったものの、陸斗も都築の行方を探すよりも、こうやってノルマ達成に奔走している。
——数字が人格だ。仕方がないんだ。
そう繰り返して、自分の行動を正当化していた。
「三億の契約か……」
「なかなか厳しいですよね」
「いや、それ、僕でどうにかなるかもしれないよ」
「えっ」
「実はさっきの会議で、新宿総合病院の件を受けて類似商品を契約解除する方針が決まったんだ。そうだな、金額は大体三億円程度かな」
「三億も⁉︎」
「君とは長い付き合いだし、そんな厳しい事情を聞いた以上、できる限りは協力したい。どうだろう、何か良い商品はあるかい?」
「えっ、良いんですか?」
「そのために来たんだろ」
「ええ、まぁ」
西条は、やはり全てお見通しだったようだ。
「今日は少し待たせてしまったしね、僕からのお詫びも込めて契約しようじゃないか」
信じられない展開だった。小説家デビューだけでなく、大型ディールまで決まりそうだ。
「そうだ」
西条は何かを思い出したように部屋を出ていく。しばらくして戻ってくると、その手には二つのロックグラスがあった。氷も入っている。
「これは今、開けさせてもらうよ」
ニッと笑った西条は、陸斗の持参した琥珀のウィスキーボトルを手に取る。
「えっ? ちょっと困ります。まだ、日中ですし」
「まぁまぁ、そんな堅いこと言いなさんな」
西条は二つのロックグラスにトクトクと琥珀色の液体を注いでいく。
「これは気付け薬さ。多少飲んだ方が仕事ってのはうまくいくもんなんだ」
陸斗の視線がチラリと外に向く。真っ昼間から一杯とはいえ飲むことに背徳感があった。
「では一杯だけ」
──何だか、全てが順調すぎるぞ。
『上手くいき過ぎている時こそ一度冷静になれ。守備からリズムを作れ』
野球に明け暮れていた高校時代の恩師の言葉がふと脳裏を掠めるが……。
「乾杯!」
西条が掲げたロックグラスと合わせた瞬間、その言葉はパリンと割れて霧散した。