第1章 月光の魔法(1)
──今年はかなり押しているな。
神崎遥は壁掛け時計をチラリと確認する。既に終了予定時間の十二時を三十分も過ぎていた。
そのまま視線が窓の外へと流れる。東京・神保町の街路樹は冬の名残を引きずって蕾のままだ。もう三月中旬だというのに春の気配はない。空には重厚な雲が横たわり、気持ちまでどんよりする日だった。
「では、先生方、それぞれから最後にご意見を聞いた上で、投票に移りましょう」
この日の選考会の司会である第一文芸編集部編集長の加賀谷昭信の言葉に、同部編集者の神崎は円卓に視線を戻した。
日本有数の古書店街である神保町にある月夜野書房本社十二階の貴賓室。日本最大の一千万円の賞金額である「月光ミステリ大賞」の最終選考会は大詰めを迎えていた。今年で十六回目の開催となる。小説家と書評家で構成される五人の選考委員が円卓を囲み、その圧で特有のピリリとした重い空気が部屋には滞留していた。
十時から始まった選考会は、二時間の議論を経て、四つの最終選考作からようやく二つに絞られたところだ。しかし、どちらに決めるかの段になって意見は割れた。
「いやね、黒島さん。あんたの意見も凄く分かる。だけど、ミステリー的には藤木でしょ? 繰り返しになるが『ブラック・ディール』は今までにない作品だ。近未来の若者が抱える葛藤をユーモアに描きながらも、経済小説としての完成度も高い。筆力についてはまだまだ足らんが、総じて光るものがある。藤木は磨けば光る原石だぜ」
そう説いたのはハードボイルド小説家の鷹村冴人だ。「どんでん返しの鷹」と称される作家歴四十年の大御所で、藤木海斗の「ブラック・ディール」を受賞作に推していた。
「ウチは全然そうは思わへんわ」
キッパリ反論したのは書評家の黒島豊子である。目の周りの黒いアイシャドウがキッと睨みつけた目を一層際立たせて、ぎらつかせている。今年で七十三歳になる書評界のレジェンドで、「浪速の黒豹」として、その過激な発言は文壇のみならずSNSで度々物議を醸してきた。
「確かに藤木の作品には独自性があるし、世界観もこれまでにないかもしれへん。でも、それだけやん。うちは二宮一択やね」
黒島はもう一つの二宮英夫の「静寂の追跡者」を選考会序盤から推していた。
「幸せな日常にじわじわと忍び寄る怖さをほんま丁寧に描いとるわ。ホラー色が強い作品やけど、過去の最終候補作四本と比べても、今回のは群を抜いとる。今年も着実にレベル上げとるし、このメンツやったら、今年こそ二宮やろ」
「俺はそう思わねぇ。ハッキリ言うが二宮のはミステリーとして全然面白くねぇんだよ。今現在の完成度なんて、その後の改稿でどうにかなるだろう? 俺の胸に刺さるパッションが、この二宮の作品にはねぇ。皿の上に綺麗に盛り付けられた見た目だけのフランス料理なんだよ」
「はぁ? フランス料理? あんたのパッションなんか知るかいな」
「知らなくて良い。読み終えても、なんか食いごたえがない。食った気がしねぇんだよ。分かるか?」
「全く分からへん。完成度が高いなら、なおさらええやん。これは文学賞なんやろ? 大事なのは文学性の高さやろ? 所詮、出版なんか受賞の副賞みたいなもんやん。単行本として、どの本が一番売れるかばかりを考えとったら日本の文学は廃れる一方やで」
「おいおい、黒島さんよ。あんた、出版社でそれを言っちまうのかよ」
低音ボイスの呆れ口調で鷹村が吐き出した言葉を最後に貴賓室を沈黙が支配する。
「ええ、黒島先生のおっしゃることもごもっともですね」
ここですかさず、司会の加賀谷が会話の暴風の中に単身で飛び込む。
「ですが、やはりウチも企業ですので」
そう強調したのは、まさに日々「売れる本をどう作るか」を最優先に考えているからだ。出版社の花形である第一文芸編集部のトップとしてのプライドとも言えた。つるりとした広い額を摩りながらもその目だけは油断がない。やがて、選考委員の一人に照準を定めると「では、鬼塚先生はいかがでしょうか?」と鋭いパスを出す。
「僕は二宮ですかね。身近な日常ほど描くことが難しいものはありません。ホラー純文学とも言える作品で、ミステリー要素はもう少し欲しいところですが、今回で五度目の最終候補というのは書ける証左です。新人としても十分やっていけるでしょう」
六十四歳の鬼塚光成は警察庁の元キャリア官僚であり、ミステリ作家の登竜門とされる江良理玖院賞の受賞経験もある。「警察小説の鬼」としてその名を轟かせるが、性格は鬼どころか温厚そのものだ。
「一方、藤木は伏線の置き方が少し露骨すぎますね。もう少し目立たないようにしないと。鷹村先生もご指摘の通り、ちょっと書き慣れていない感があります。まぁ、デビュー後も書き続ければ、巧くはなっていくんでしょうけど」
鬼塚はいつも「新人のデビュー後のキャリア」に重きを置いて、選考している感がある。
加賀谷は鬼塚の言葉に何度も頷きながらも黒島の表情を見やる。自らが推す二宮に好意的な意見が出たからか? 黒島の表情は幾分穏やかになっていた。
「曽根先生はいかがでしょうか?」
加賀谷は次に曽根文昭に意見を求めた。今年で四十八歳となる中堅作家だ。最年少で東洋SF大賞を受賞した過去を持つ。牛乳瓶のようなメガネにうねる髪と鳥の巣ヘアーと恰幅の良い体型も相まって、白衣でも着させればどことなく研究所の博士を連想させる。
「僕は断然、藤木君ですね。SFとミステリーと経済をマッチさせるというアイデアは抜群です。この感覚は小松先生の日本沈没を初めて読んだ時のハラハラ観に似ていますねぇ。藤木君も影響を受けたんじゃないかな。本人に直接聞いてみたいなぁ。パロディめいたクスリと笑わせる物語も何だか筒井先生を彷彿とさせて、終始ワクワクしちゃったなぁ」
「あんたSF要素あれば、何でもええんちゃう? そういや、昨日も『三体』の魅力がどうとか、SNSで長文垂れ流しとったけど」
「そうそう。まさにその劉先生は日本沈没から影響を受けて……」
「何でもええ! だから、SF作家が私は好かんのよ。で、今年はちゃんと最終選考作品、読み込んできたやろな?」
黒島が非難がましく問うたのは、昨年の選考会で、危うく大事故になりかけたという「前科」があるからだ。曽根は昨年、大賞最有力作品の犯人の行動について「今、現在の法律では不可能だ」と突如主張した。神崎ら事務局が至急調査したところ、曽根の事実誤認だったと判明。結局、大賞はその作品に決まった。
「ええ、もちろん。今年はちゃんと読み込んでいるし、バッチリです。SF要素がある藤木君の作品は僕好みで、一気読みしちゃいました。いや二回も読んじゃいました」
「ええか? わかっとると思うけど、これは月光ミステリ大賞やで?」
「ミステリ」の部分を一際強調した黒島の視線は早くも最後の若き選考委員を見据えていた。選考委員の票は二対二で割れている。年齢ダブル、もしくはトリプルスコアの文学界の重鎮ら四人の視線が一斉に注がれて、二十五歳の書評家である糸山聖奈は少し構える。自分のリズムを作るように一度頷いてから発言した。
「エンタメ性やSF要素も散りばめた設定という面では藤木さんですが、諸先生方がおっしゃる通りこの原稿、かなり粗いんです。新人としても十分やっていけそうなことや今の完成度の高さを重視すると、やはり二宮さんではないでしょうか」
初参加の新人選考委員の発言は各委員の意見の総集編のようだった。が、これで大勢は決まった。
──やはり、三対二で二宮が受賞か。
神崎が響かない程度にコツコツと叩いていた人差し指の動きを止めると、鮮やかな黄色のチューリップ柄のネイルが煌めく。
「では、ここいらで、投票といきましょう。今年も恨みっこなしで大賞を決めますよ」
学級委員の選出よろしく、五人の選考委員に神崎から白い紙が配られる。記載後に二つ折りにした紙を箱を持った神崎が収集していく。以前は挙手制であったが、我の強い選考委員同士の相剋を煽り怒鳴り合いに発展することが多く、十回目からはブラックボックス化している。
──嘘……?
加賀谷とともに、紙を開いて集計をしていた神崎は半ば信じられない思いだった。
「では最終結果を発表します」
加賀谷の声も上擦っていて、神崎と同様に驚いているらしい。
「藤木海斗の『ブラック・ディール』に三票、二宮英夫の『静寂の追跡者』に二票となりました」
ガタン──。その瞬間、物凄い音が室内に響く。黒島が勢いよく立ち上がっていた。椅子は後方に倒れている。
「ということで……今年の月光ミステリ大賞は……藤木海斗氏の『ブラック・ディール』に決定しました」
加賀谷の声は尻窄みになる。一応、室内で予定調和の拍手も起きたが……。
「なんやこれ? なんで藤木やねん!」
黒島はぐるりと円卓を見渡して叫んだ。その血走った目は問うていた。誰が裏切ったのか──と。木の上から獲物を狙う本物の黒豹のようだった。
「アホらしゅうて、やっとれんわ!」
それからバンと机を叩き、バッグをひったくるように取る。
「こんなん、ウチは納得いかへん! 絶対に帯は書かへんからな。もう勝手にしぃや!」
捲し立てるように宣言すると、黒島は貴賓室を出ていく。
「黒島先生!」
加賀谷は呼び止めるが、追いかけるようなことはしない。
──編集長はいつもそうだ。
室内にいた若手社員に目配せして、その役は彼に任せる。個性が強く血気盛んな選考委員を集めており、過去にも同様のことが何度もあった。「あちゃー」と大袈裟に額をペシンと叩く。だが、焦燥感はない。
「ってことで、とりあえず神崎君は、藤木さんに受賞の連絡しておいて」
それだけ言うと、席を立ち、残りの選考委員四人に平身低頭で謝意を述べた。