氷炎の果て
カンカンと鐘が鳴る。暗闇の中、明かりを落とした船の位置を知らせるため、船鐘がけたたましく鳴っていた。
四隻の船が炎上する中型の帆船を囲うようにして、その周囲へ明かりを向けていた。一隻は帆船、三隻はガレー船で、その周囲には無数のボートが浮かび、暗闇にランプをかざしていた。
彼らは目を血走らせ、水面に浮かんできた人間を片っ端から掬い上げた。掬い上げられた人間は一様に濡れていて、ひどく肌が冷たい。すぐさま乾いた毛布をかぶせ、帆船やガレー船に運び込まれた。
時折、炎上し、爆発した船から飛んできた破片にぶつかってボートが転覆することがあった。そういった二次被害は船の炎上が収まるに従って徐々に少なくなっていき、水底に船が沈む頃にはあたり一面に凍死した水死体が浮かんでいた。
4月の終わりとはいえ、アンダウルウェル海域は寒い。10分も浸かっていれば瞬く間に体から体温を奪い、凍死してしまう。あるいは水が肺に満ちれば水面に上がることなく、溺死してしまうだろう。
「才氏シド、議氏アルヴィース。遺体の回収を行いますか?」
払暁、夜を徹した救命活動が行われ、疲労した姿で帆船の船長が現れた。彼の言う遺体の回収とは、夜中の救命活動で助けられなかった水夫の遺体を引き上げるかどうか、という話だ。
偽装しているとはいえ、水面に浮かぶ水夫達はヤシュニナ海兵だ。正規の軍人であり、当然ながら死亡すれば遺体を回収する義務が発生するし、詳しい死亡状況を公文書に残さなければならない。
朝の風にあたりながら、そういった事務作業的なことを考え、シドは面倒だな、と頭をかいた。よしんば事故として処理とするにしても、死者が多すぎた。
「何人、回収できた?」
「生存者は68名です。回収時に死亡していたのは71名です」
「残り70人弱は水面か、水底か」
いっそ全員死んでればなー、とシドは心の中で舌打ちをした。生存者がいれば、現隊復帰などしたときに情報が漏れる可能性があるため、下手なごまかしができない。全滅であれば、いくらでも言いわけはできる。訓練中の事故など隠蔽工作の定番だろう。
「生き残ったやつらから話は聞けるか?」
「難しいかと。大半がひどい凍傷で今も震えていますよ」
「説得は無理か。——なにか、他に報告することはあるか?」
船長は一瞬考えるそぶりをして、そういえば、と思い出したことがあったのか、シドに引き上げた遺体について話した。
「傷?」
「はい、心臓を鋭利な刃で刺されたと思しき傷を持つかいへ、いえ水夫が複数発見されました。数はそれほど多くはないそうですが」
「見聞することはできるか?」
「ご案内します」
船長に案内され、シドは帆船の船底にある倉庫へ向かった。平時は船上で用いる衣類や食用品を収納しているその場所は現在は死体置き場となっていた。
薄暗い船底にずらりと並べられた死体のひとつを船長はシドに見せた。その死体には確かに心臓を刺した傷があった。
「確かに刺し傷があるな。何人にこの傷があるか、確認できるか?」
「できますが、それは遺体を回収することと何か関わりが?」
「もちろん。意味もないことをやらせるつもりはないからな」
船長は怪訝そうな眼差しでシドを見た。その視線に気づきながら、シドは気にしたそぶりもなく、再び甲板に駆け上がった。
甲板で待っていたのはアルヴィースだ。正確には流れてきた破片の上にアルヴィースは物理法則を無視して直立して、待っていた。
「アルヴィース。悪いんだけど、これから潜ってくれない?」
「どういう理由で?」
「船が炎上してるとき、デクスターから『伝話』がかかってきた。すぐに切れちゃったけど」
「何か言ってきたのか?」
「青い小箱って言ってたな」
「小箱?——その中に文書が?」
可能性だ、とシドは返した。
引き上げられた死体はすべて水夫のものだった。水面に上がっている死体もやはり水夫のものばかりだ。死体置き場と水面のいずれにも貴族らしい格好の死体はなかった。
「仮にバンドール伯爵が船ごと沈んでいるなら、文書も船の中にあるはずだ。さすがにアンダウルウェル海域のモンスターも沈んだ船までは食わないからな」
「どこまで沈んだかなんてわかんないぞ?」
「頑張れ、鬼神だろ?」
鬼神とはアルヴィースの種族名だ。鬼系種族の最上位種で、ほぼすべての環境デバフに耐性を有している。水深8,000メートルの海底でも、高度50キロの成層圏であっても地上と変わらず活動できる脅威の順応性がある。
アンダウルウェル海域はグリムファレゴン島に近く、水深は最大でも5,000メートルほどだ。しかし、一部海溝は軽く1万メートルを超える。もしそんな場所まで落ちていたら、アルヴィースでも探すのは不可能だ。
「しゃーないか。わかった探してきてやるよ。ただし、借りだからな」
「秘蔵のワインをボトルでやるよ」
「一本か?」
「俺が買える限りくれてやる。これでいいだろ?」
わかってるじゃねーか、とアルヴィースは去り際にこぼし、バシャンと飛沫をあげて水底に身を投げた。シドとアルヴィースの会話を聞いていた水夫はその光景を見て唖然とするが、すぐにシドが近づき、仮面を上げて人差し指を唇の前に立てた。
ヤシュニナの最高権力者の一人であるシドに口止めをされては口をつぐむ他ない。こくこくと水夫は頷き、そんな水夫の手の中にシドは「心配り」を握らせた。口止め料である。
「さーて、あとは結果次第か」
晴れ渡った空を見上げ、シドは仮面の裏側で一人、微笑を浮かべた。
*
ヤシュニナの首都ロデッカ。人口200万人の大都市はヤシュニナ最大の商業地域である。広大な「真実の海」を超え、はるか東方大陸から運ばれた多数の珍しい品々を西側に流し、またその逆を東側に行う交易の中心地であるこの都市はヤシュニナ建国以来、常にその規模を拡大し続け、絶え間ない喧騒が町を賑わせていた。
そのロデッカの中心街から離れた場所に高級住宅街と呼ばれる地区がある。行政の建物群が多くある場所に近く、首都に常勤している氏令の多くがここに居を構えている。ヤシュニナの才氏シドの邸宅もそこにあった。
五階建ての洋館。それがシドの邸宅だ。広い庭が敷地内にはあり、そこにはヤシュニナでは珍しいガラス庭園が置かれていた。冬場でも夏や春の花々が愛でられるように作られた庭園だ。
その庭園に設けられたガーデンスペースにシドは座っていた。穏やかな表情のまま、紅茶をすする彼を赤髪隻腕の男が忌々しげに睨んでいた。ガーデンスペースにはシドとその男以外にも三人分の影あった。一人はアルヴィース、残り二人は銀髪の少女と、仮面を付けボロを纏った男だった。
ガーデンスペースでリラックスしたまま、紅茶を飲むシドに赤髪の男は怒鳴った。
「シド!!今回の件はどう責任を取るつもりだ!!」
怒号にシドが反応する。上目遣いで自分を怒鳴る赤髪の男を一瞥し、シドは微笑浮かべたまま肩をすくめた。
「そう怒るな、リドル。責任ならこうして取っただろう?」
そう言ってシドは丸机の上に置かれた青色の小箱を指差した。ラピスラズリの欠片を組んで作られたそれはすでにシドによって蓋が開かれていた。中に入っていた文書は丸められた状態でその隣に置いてあった。
「いや、焦ったよ。水圧で潰れてたり、浸水して文書がぐちゃぐちゃになってなくて本当によかった」
九死に一生ってこういうことなんだな、とシドは朗らかに笑う。しかし室内の人間はシド以外笑うそぶりを見せない。せいぜい、アルヴィースが苦笑するくらいだ。
「そういうことを言っているんじゃない!!!」
シドの態度に苛立ったのか、リドルと呼ばれた赤髪の男は声を張り上げ、シドを叱責した。曰く、犠牲が出た責任を問いていると。
「犠牲ゼロで済むわけないだろ。仮にも帝国から要人を亡命させようって言うんだ。犠牲は覚悟してたんじゃないか?」
「その犠牲をお前は軽んじている!150人だぞ、150人!!ただの文書を得るためだけにそれだけの人員が失われたことに反省はないのか!?」
「反省してるよ?まさかデクスターを送ってもこうなるとはね。次からはレベル100越えのやつを」
「わかっていない。わかっていない!!そいうのは反省とは言わない!せめて彼らの死を悼むくらいのことはしたらどうなんだ!!」
リドルの叱責にシドは嫌そうな表情を浮かべた。自分の非を認めたからではない。心底つまらなさそうにシドはため息を吐いた。
「なぁ、たかが150人だろ?しかも、殺したのは俺じゃない。こいつらだ」
苛立ちながらシドは椅子から立ち上がり、リドルに向かって内ポケットから取り出した銀色の仮面を投げつけた。それはリドルに当たって跳ね返り、カタンという音を立てて床に落ちた。
銀色の仮面は龍の顔と人の頭蓋骨を掛け合わせた珍妙なデザインだった。この場に集まった5人はそれに見覚えがあった。帝国内で古くから活動している鍛治集団「龍面髑髏」の鍛治師が付ける仮面だ。
「アルヴィースがこの仮面を大量に船の残骸から発見した。大半が水圧でひしゃげてたらしいけどな」
再び椅子に座り、シドは足を組んだ。金色の瞳を爛々と輝かせ、怒りを露わにする。対するリドルはそれでもまだ険しい表情を崩さなかった。
「だとしても、お前は知っていただろう。こいつらが帝国の子飼いだと。なら、その対策を立てることはできたはずだ。にもかかわらず、お前は200人の水夫を死地に」
「俺ばかり責めるなよ。責任はリドル、お前にもあるはずだ。いや?それこそここに集まった人間全員にあるはずだ」
「あたし、関係ないけど?」
「セナ以外の全員にあるはずだ」
銀髪の少女、セナに訂正され、シドは言い直す。俺だけの落ち度じゃない、と言われ、リドルも他の二人も罰が悪そうに顔をしかめた。
「だいたい、今日はそんなことのために来たわけじゃないだろ?」
「俺はそのつもりだったが?」
「あっそ。じゃぁ、ヴィーカさん本題をどうぞ」
呼ばれて、それまでずっと黙っていた仮面の男が立ち上がった。おう、と応えヴィーカは机の上に紙束を置いた。それは今回の事件の顛末に関する報告書だった。その報告書を読み、シドはほくそ笑んだ。
「よくできてるな。俺の要望通りだ」
「ああしろ、こうしろうるさいのなんのって。報告書を作成したやつの心労が伝わってくるぜ」
わざとらしくヴィーカは肩をすくめた。内容が気になったのか、リドルはシドの手から報告書をひったくると、流し読みで読み始めた。
「なんだ、これは」
「なにって報告書。まぁ多少の誇張表現はあるけど」
激昂したリドルは手に持っていた報告書を床に叩きつけた。ピシャンという音が響いた。
「怒るなって。これは必要なことなんだ」
「出鱈目で死者を冒涜するなと言っている。なんだ、これは。帝国の特殊部隊に奇襲され多くが死亡?こんなものが罷り通るわけないだろ!!」
「リドル、怒っているところ悪いが、あながち間違いでもないぞ?龍面髑髏は帝国子飼いの暗殺部隊だ。特殊部隊と言えなくもない」
「お前はそれでいいのか、ヴィーカ。死者の過去を捻じ曲げるような報告書を認めるのか!!」
こいつの失敗を隠蔽するために、と憤るリドルはシドを指差した。端的に言えば、失敗を隠蔽するための英雄として、死んだ海兵達は選ばれたのだ。
行き過ぎた賛美は死者への冒涜でもある。犠牲者を犠牲者であるというレッテルはそのままに、誰による犠牲者かを捻じ曲げた報告書にリドルは我慢ができなかった。そのリドルをシドは嘲笑する。
「ガキか、おい。失敗の責任を取るなんて、大人はな、しないんだよ。もちろん、誰かに取らせるなんてこともしない。失敗なんてなかったと事実を捻じ曲げてしまえばいいんだ。それができる権力と地位に俺達はいるんだからな」
「不正は正されるべきだ。責任と取らない人間が一体何を積み重ねられる?」
「愚問だな。俺は積み重ねられる。他の奴らは無理でも、俺はできる」
「根拠なんてないだ」
「必要ないだろ、根拠。というか、久しぶりすぎて鈍ってんじゃないか?俺達はこれまで同じようなことをやってきただろ?」
その度になんて言ってきた、とシドはリドルに問いかける。リドルは苦々しく、必要な犠牲、と返した。
「そうだ、必要な犠牲だ。150人の犠牲は必要な犠牲だった。割り切るんだ、国軍最高司令。お前にはその義務がある」
その翌日、臨時で開かれたヤシュニナ軍の会議で国軍最高司令である王炎の軍令リドルと、海洋軍統括長官である蜘蛛の軍令ヴィーカの連名で、報告書は公的なものとして認められた。
*
とりあえず、ここまでで一旦、終了します。後日、追加します。