亡命者
偽装された商船の甲板でデクスターはうっすらと緋色に輝く「トーリンの海」の水面を見つめていた。
デクスターは外事院で働いてた時とは異なり、厚めの防寒ジャケットを着込み、大きめの鉄棒を携帯していた。籠手を嵌め、脛当てを装着するその姿は普段の彼を知るものからすれば異様だったことだろう。
何も異常がないことを確認すると、デクスターは踵を返して商船の中へと入っていった。
デクスターはプレイヤーだ。シドやアルヴィースと同じく、この世界では異質な存在だ。
彼自身、自分が周囲と違うことは自覚している。デクスターはエレ・アルカンというこの世界におけるホモ・サピエンスのような存在で、その種族は大体80年もすれば老衰で死ぬ。デクスターはこの世界に降り立って30年になる。外観はずっと20代後半の姿を保ったままだ。この先も変わることはないだろう。
プレイヤーとはそういう存在だ。不死不労とされるエルフ以上に生き続け、その姿形は永劫変わることはない。神の写し身と崇める人間も多々いる。
しかし、デクスターにはまだいまいち実感が持てなかった。30年ぽっちしかこの世界で生きていないからかもしれないが、一番の理由はヤシュニナで暮らしているからだろう。
ヤシュニナはプレイヤー達が築いた国家だ。この世界に160年前に取り残された一部のプレイヤーが9年の歳月を費やし、立ち上げた他種族国家である。
ヤシュニナでは決してプレイヤーが専横政治をしているわけではない。むしろ、プレイヤーの干渉は少なく、今回のようなことを除けば氏令会議で発言するのは煬人、この世界におけるNPCだ。そのせいか、プレイヤーであるという意識は希薄になる。少なくとも、デクスター自身は目立ってプレイヤーと扱われたことはなかった。せいぜい、あんまり歳取らないですね、と言われたくらいだろう。
港を出た、とシドへの定時連絡を終え、デクスターはガレー船の一室に入った。その部屋はちょっとした貴賓室で、大きめのチェアと机が置かれていた。窓がないため明かりが乏しいと思いきや、蜜蝋をたっぷりと使った燭台があり、それのおかげで窓がないにも関わらず、室内は驚くほど明るかった。
「デクスター殿、どうやら無事にヤシュニナに到着できたようですな」
「はい、伯爵におかれましてもお元気そうでなによりです」
デクスターはチェアに座る年配の男性に軽く会釈した。年配の男性、フレデリック・ド・バンドール伯爵はデクスターの対応に、うむ、ともったいぷって偉そうに顎をしゃくった。
「なにか、入り用のものがありましたら、可能な限り用意させていただきます」
「ふむ。でしたら、そうですな。この船で私の世話をする人間はアルカン種にしていただけますかな?」
「アルカン種、ですか。かしこまりました」
表情を崩さず、デクスターは伯爵の要求に応じた。
アルカン種とはエレ・アルカンのことだ。大いなる属神、アルカンを模して作られた自身らのことを帝国ではそう呼ぶ。
帝国では決してエレ・アルカンという言葉は使わない。エレとはもどきという意味だからだ。エレを省くことで我らはアルカンの写し身である、と喧伝しているのだ。
そんな自分達の種族に誇りを持っている帝国人だ。アルカン種以外を侮蔑の対象としているのは想像するに難くない。帝国においてはエレ・アルカン以外の人間種、亜人種は基本的に差別対象だ。
ここでいう人間種とはエルフやドワーフ、エレ・アルカン以外のヒト種だ。亜人種はゴブリンやオーク、単眼鬼などである。ヤシュニナではどこでも見るような種族だが、帝国では滅多に見ることはない。せいぜい小規模の集落で見るくらいだ。
そういった環境で育ったからか、フレデリックもまたエレ・アルカン以外の種族を毛嫌いしていた。船に荷運びをするドワーフの水夫を忌々しげに見ていたのをデクスターも覚えている。だから、フレデリックがエレ・アルカンだけと接したいと要求するのもなんとなく予想していた。
「伯爵様、船は半日ほどでアンダウルウェル海域に到達します。それまで決してこの部屋から出ないでいただきます」
「窮屈ですな。せめて船の中くらいは出歩いても構いませんか?」
「申し訳ありません。警備の都合上、伯爵様の存在を露呈する事態は回避したいのです」
この商船に乗っている人員はほとんどが海軍から貸し出された海兵だ。しかし、その中でフレデリックの顔を知っている人間はごく少数だ。秘密の露呈を防ぐための処置で、ほとんど海兵が帝国から特別なマジックアイテムを運ぶと聞かされている。
そういった事情からデクスターはフレデリックの要求を却下した。そもそも亡命を希望した人間の言動とも思えなかったため、どのみち理由があろうと、事情がなかろうと、却下しただろうが。
「ふむ。ならば仕方ありませんな。それならせめて料理くらいは豪勢なものにしてもらいたいものですな。干し魚や干し肉などは遠慮させていただく」
「申し訳ありません。この船は必要最低限の準備期間で用意したもので嗜好品の類は載せておりません。一応、ワイン樽などはございますが」
「ワイン?それは帝国南部のヴァショー産かな?それともチルノ王国産?」
いずれも帝国内では高級品として扱われている品だ。しかしこの船に載っているワインはいずれでもない。あくまで商船に偽装するためにありあわせの店で大量購入した安ワインだ。
申し訳なさそうにデクスターは頭を下げる。それを聞いて、フレデリックは憤慨した様子で目の前のテーブルを蹴った。
「帝国伯爵であり、財務大臣でもある私が亡命すると言ったのに、なんの歓待もないですと?デクスター殿、これはどういうことですか!!」
「重ね重ね、申し訳ありません。我が国では高貴な方が亡命することが珍しく、かかる事態には慣れていないのです」
「なんということだ。まったく、許されざることですぞ、これは!!」
面倒だな、とデクスターは内心でフレデリックへの怒りをたぎらせていた。もういっそこの野郎をぶっ殺して文書だけ回収するか、と憤るデクスターにさらにフレデリックは薪を焼べた。
「この程度の要求にも応えられず、一体どの面を下げて歓迎するなどと言えるのか。あまつさえ、手土産まで用意させておいて!!」
そう言ってフレデリックは机の上に置かれた小箱を指差した。ペン入れに使えそうなサイズで、外観から石製だとわかる。青い石をくくつも貼り付けて作ったようで、つなぎ目には金が流し込まれていた。
「——申し訳ありません。出来うる限り、歓待させていただきます」
小箱を一瞥し、わずかばかりデクスターは溜飲を下げた。ここで文書が入った小箱を盗み、フレデリックを殺すことは簡単だ。しかし、それをすれば亡命者を殺してまで情報を奪う蛮族だと誤解されかねない。少なくとも、帝国はそう考え、攻勢を強めるだろう。
プレイヤーとしてならばともかく、一人の外事院官僚としてそんな信用低下は許容できなかった。だから渋々、デクスターはフレデリックに頭を下げた。
*
航海は順調に進んでいた。甲板に出ると、白い息がふわっと出てモノクルを白く染めた。デクスターはアンダウルウェル海域に入ったことを察しながら、モノクルをハンカチで拭いた。
海原は真黒に染まり、心なしか、肌を撫でる空気が冷たく感じた。ただ寒いからではなく、死神が両の頬を包んでいるのかと錯覚するような感触だった。
ふと視線を水平線上に向けると水面の向こう側に何かの影が見えた。マストの影だ。それを見たデクスターはすぐに甲板にいた船員の一人を捕まえ、船長か副船長を呼んでくるように伝えた。
ほどなくして副船長が甲板に上がってきた。船長はフレデリックへの対応で忙しいと彼は言った。
「光信号を送ってください。それが符合と共に返ってきたらあれはきっと合流予定の船か、その護衛でしょう」
「了解した。おい、光信号だ」
プレイヤーと異なり、煬人は「伝話」が使えない。遠距離との通信手段は狼煙や伝書鳩などだ。ランプをカチカチと点滅させる光信号もその一種だ。暗闇でも用いられる原始的な連絡方法だ。
返事はすぐに返ってきた。見えたのは護衛船だと副船長は言った。
「周辺警戒をしながら、船を近づけろ。この時期は海棲モンスターが活発化するから、気をつけて進め!!」
副船長の号令で船は護衛船に近づいていく。少しすると護衛船とさらにその向こうにもう一つ大きな船影が見えた。乗り継ぎ船だということは一目でわかった。
「あと少しで接舷します。例のアレの元へ急がれては?」
「そうします。バレないようにしなくてはいけませんから」
副船長に促され、デクスターは甲板から降りた。道すがらシドに連絡をかけようと、「伝話帳」にある彼の名前を選び、「伝話」をかけた。
刹那、爆音が轟いた。
*