【第7話 目に見えぬ“実力”】
「それは随分、興味深い話だな」
背後から届いたその声に、シオンの空気が一変した。
座ったままでもはっきりと分かる、全身の筋肉が音を立てて引き締まるような緊張。
腰に差した短刀へ、静かに手が伸びる。ただし、まだ抜かない。
だが放たれた警戒心は、冷気のように周囲の空気を張り詰めさせた。
殺意とまではいかない。
けれど──確実に「敵意かもしれない」と思わせる気配だった。
声の主は、猫背気味の白衣の女性だった。
アーモンドの小袋を片手に、ひょいと軽い足取りで芝の上に入ってくる。
肩にかかる銀髪が風に揺れ、歩き方には妙な軽快さがある。だが、それと裏腹に、目の奥には深い思考の影が潜んでいた。
「ああ、警戒されるのは当然か。だが安心しろ。襲う気はないよ」
その口調には、やや癖のある抑揚と、観察者としての妙な距離感があった。
「君の従者、なかなか優秀だな。反応が速い。気配の読みも的確だ」
シオンは答えない。警戒の視線だけが鋭く放たれていた。
その隣で、アマネが軽く身じろぎをする。
緊張を緩めるように、そっとシオンの肩に手を添えると、ようやく彼は短刀から手を離し、僅かに肩を落とした。
「……学院の講師の方ですか?」
アマネの問いに、女性は片手を挙げて答える。
「ああ、そう。私はエラ。この学院で教えている。講師というよりは、研究者としての活動が中心だがね」
そう言って、まるで当然のように芝生の端に腰を下ろした。
輪に加わることに一切の遠慮がない。
トーヤが目を丸くしたが、すぐに持ち前の社交性を取り戻す。
「エラ先生って、あの!? いろんな授業に顔出してるって聞きましたよ!」
「うん、その“いろんな”が私の本職なんだ。今期は時間が空いていてね。だからこうして、面白そうな新入生を冷やかしてるわけだ」
「……冷やかされた……?」
「そうとも。君たち、火灯の授業で随分と目立っていた。あれは印象に残る」
言われて、トーヤは照れたように笑った。
「おお、見てたんですか? 俺、けっこうよかったでしょ」
「うん。点火角度、魔力の立ち上がり、どれも素直で良かった。君は身体の使い方が上手い。勘の良さというのは、それだけで才能だよ」
褒められて、トーヤは嬉しそうにパンをかじる。
「いやー、ほとんど勘でやってるんですけどね」
「なら、君は実戦に向いてる。頭で考えるより、まず動くタイプだ」
軽口を交わすうちに、場の空気が和らいでいく。
それを見計らったように、シオンは静かにアマネの隣へ戻った。
エラはアーモンドをひとつ口に入れながら、さりげなく話を続ける。
「トーヤくん、運動系魔道具の研究してる教師をひとり紹介しようか。きっと話が合うと思う。君の道具、あれだけで済ませるにはもったいない」
「えっ、本当ですか!? じゃあ、他のも見せられるように揃えておきます!」
「うん。そうしておくといい。部屋の整理も忘れずに」
トーヤは立ち上がり、パンを手に寮舎の方へ駆けていった。
元気な背中が去っていくのを見送り、エラはひとつ息をついた。
そして──視線をまっすぐ、アマネに向けた。
「それで、アマネくん。どうして君は、“標準のふり”をし続けているんだ?」
それは、さきほどまでの緩やかな会話とはまるで違う響きを持っていた。
抑揚は穏やかだが、問いの中にある“核心”は、確かに重い。
空気が変わった。
魔法によって調音された声は、周囲には一切漏れず、まるでここだけ別の空間のようだった。
アマネはその言葉を受け止め、短く息を吐く。
(……やっぱり、気づかれるか)
隣のシオンが、再び身を乗り出す。だがアマネはそれを片手で制した。
「……何を見たんですか?」
アマネの問いに、エラは肩をすくめた。
「何も“決定的”なことはない。ただ、君の火灯。あれは綺麗すぎた。精霊との応答速度、魔力の流れ、契約印の均整、全てが“教科書通り”だった。だが、それをあれほど自然にやる子はまずいない」
アマネは黙って聞いていた。
「私は研究者だ。形の整いすぎたものを見ると、つい“それは本物か”と疑いたくなる。君の魔法は、あまりにも完成されていた。“自然に見せかけること”に、慣れている」
エラの声には怒りも嫌味もなかった。ただ、興味と観察者としての本能がにじんでいる。
「……君は、目立たないようにしている。なぜか?」
問いは核心に迫るものだった。
アマネはゆっくりと目を伏せ、言葉を選ぶように呟く。
「“標準”って、便利なんです」
静かなその言葉に、エラは目を細めた。
「誰も問わない。誰も比べない。ただ、“範囲内”にさえ収まっていれば、そこにいる理由を問われなくて済む」
アマネは、自分の中で繰り返してきた思考に触れながら続けた。
「……僕は、いろいろ試したい。でも、“普通じゃない”ことは、時に面倒を呼ぶ。だから、普通を演じてるんです。演じたほうが、安全だから」
少しの沈黙。
エラは、ふっと鼻で笑った。
「なるほど。賢い選択だな。だが、興味深いのはその先だ。君が“安全”の中で何を見つけて、何をしようとしているのか」
アマネは、答えなかった。
答える必要があるとも思わなかった。けれど、エラの問いかけは心の奥に静かに残った。
(……標準の中に身を置くこと。
それは、自由と制限の境界に身を置くということでもある)
誰にも注目されないように。
だが、自分の信じる“可能性”には、決して目を逸らさずに。
その在り方を、エラという“観測者”が見抜いた。
それだけで、アマネは今日という日が特別なものになったことを、確かに感じていた。
エラは、常人には理解されにくい価値観を持ちつつも、アマネの本質をいち早く見抜く観察眼の持ち主です。彼女の問いかけは、アマネにとって試練でもあり、導きでもあり――今後の物語の鍵を握る存在です。
この話では、地味ながらも“実力”というものが何に宿るのか、そしてそれが「見える者には見えている」ことを静かに描いてみました。
また、トーヤやリューエルとのささやかな交流も、少しずつアマネの世界が広がっていく兆しとして織り込んでいます。
次回は、魔力の地図とその読み方を扱う授業回。いよいよ「学院で何を学ぶのか」が本格的に動き出します。
4MB!T/アンビット