【第1話 アマネ】
その目が再び開いたとき、アマネはすでに“この世界”にいた。
視界は青白く霞み、周囲の境界線が曖昧に滲んでいた。耳には何も届かないはずなのに、低い脈動のような音が内側から響いている。
肌には重力が失われたような浮遊感が広がり、指先にかすかな風のような魔力の流れを感じた。嗅覚さえも刺激され、濡れた鉄のような匂いが微かに漂っていた。
そのすべてが、どこか現実味を欠いている。それでいて、現実よりも鮮やかだった。
そこは光も音もない、無限の深淵のような場所だった。
けれど何もないはずの空間に、かすかな色のゆらぎが生まれる。青とも白ともつかない光が揺れ、言葉にならない波が心の奥を撫でていく。
音ではなかった。だがそれは確かに、情報だった。
回路のように精密で、詩のように美しく、夢のように儚い。
その瞬間、アマネは理解した。これは転生――再起動のようなものだ。
世界が切り替わり、新しい構造に自分の“存在”が適合していく感覚。
──ようこそ。
その一言だけを、確かに覚えていた。
そして、今でもその声が、どこか遠くで響いている気がするのだった。
◆
転生した先は、魔法が存在する世界だった。
アマネが物心ついたころから、家には魔法の道具や書物があふれていた。
彼の家は小貴族にしては珍しく学問と魔法に理解があり、幼い彼に家庭教師がつけられた。
ある日の午後、書庫の一角で、柔らかな陽射しが落ちる中、アマネは家庭教師の女性に連れられて座っていた。
「この世界では、魔法は精霊と結ばれることで使えるようになるの。精霊の力を借りて、火や水、風や光を形にするのよ」
女性は、白い手袋を外しながら続けた。
「けれど、そのためには“媒体”がいるの。私たちが精霊の世界にアクセスするための鍵……それが宝石なの」
アマネの目が、テーブルの上に置かれた小さな青い石に吸い寄せられる。
「宝石は精霊との契約と通信の“媒体”なの。材質や品質、サイズによって、接続できる精霊の種類も、許可レベルも変わってくるわ」
そのときのアマネには、まだその意味のすべては理解できなかった。
だが彼の目は、その青い宝石の奥にある見えない構造――もっと違う“何か”を探していた。
整いすぎた仕組み。決められた道。
(なぜ、それ以外ではいけないんだろう)
その問いだけが、心に小さな棘のように残った。
◆
やがて、アマネは子ども向けの魔法体験授業に参加することになった。
王都郊外の訓練場を兼ねた学舎には、年の近い子どもたちが集められ、それぞれに練習用の粗末な宝石が渡された。
教室の空気は期待と緊張に満ちていた。
アマネは薄灰色の制服を着たまま、配られた半透明の石を見つめる。
「準備できたら、構えて」
教師の声が響く。
「はい、詠唱!」
「【火灯】」
数人の手元に、小さな火が灯る。火はまばゆく、時に紅く、時に金に揺れた。
その光に歓声が上がる。子どもたちの瞳が輝き、魔法という奇跡に触れた歓喜に包まれていた。
アマネも、手をかざした。だが。
宝石の中に流れる感覚は、何か違っていた。
かすかな反応。硬質な壁。整いすぎていて、すでに閉じられている回路のような印象。
火は灯らなかった。
「……あら」
教師は驚くことなく微笑んだ。
「気にしなくていいのよ。魔法は相性もあるから。焦らなくて大丈夫」
アマネはうなずいた。
だがその内心では、失敗の理由を“魔力量”や“技術不足”には求めていなかった。
(……これは、本当に“最適”なんだろうか)
魔法とは、接続とは、何だろう。
◆
授業が終わり、子どもたちが解散したあと。
教師が目を離した隙に、アマネは再びあの半透明の宝石を手に取った。
誰もいない教室の隅、窓から夕陽が差し込み、床に長い影が伸びていた。
アマネは静かに呼吸を整える。
(魔法とは、接続とは……ただの命令じゃない。応答なんだ)
思い出す。あの回路のような情報のうねり。
無音の深淵の中で聞いた“ようこそ”の声。
アマネは魔力を研ぎ澄ませて、できるかぎり無駄を排した流れで宝石に触れる。
「【火灯】」
言葉はささやきにも満たなかった。
だが次の瞬間、宝石がわずかに震え、
その表面から零れるように──
美しい炎が灯った。
それは他の子どもたちが生み出したものとは違う、透き通るような青白い光。
静かで、揺らぎがあり、まるで思考そのものが火となって現れたようだった。
誰もいない空間で、アマネは一人、それを見つめていた。
満足そうな笑みを浮かべるでもなく、ただ観察者のように、静かに。
その火は、数秒で消えた。
だがアマネはすでに、確かな手応えを感じていた。
(……繋がった。けれど、これはまだ……)
もっと深く、もっと違う“道”がある。
彼の中で、そう確信する何かが息づいていた。
◆
その帰り道だった。
学舎の裏手にある古びた小道を、一人で歩いていたアマネは、土と草の隙間から何かが光るのを見つけた。
それは、黒ずんだ金属片だった。
錆びていて、角も削れていて、誰も拾わないようなゴミくずのようなもの。
けれど、アマネはなぜか、それを「見逃してはいけない気がした」。
拾い上げ、そっと指先でなぞる。
その瞬間、肌がぞわりと震えた。
冷たさでも、熱でもない。
電気に近い、けれどもっと曖昧で、深いところに響く感覚。
その震えは、宝石では決して得られなかったものだった。
アマネは懐から魔力を少しだけ引き出して、それに触れさせる。
何も起きなかった。
だが彼は、確信していた。
(……眠っているだけだ)
使えないのではない。まだ目覚めていないだけ。
誰にも気づかれず、誰にも使われず、ただ静かに……けれど確かに、そこに存在していた。
それが、どこかの誰かと似ている気がして。
アマネはそっとその破片をポケットに入れた。
◆
家に戻ると、リビングには父と兄、そして姉が揃っていた。
父は軍服の上着を椅子にかけ、書類に目を通している。
「魔法学院?」
父は眉をわずかに動かした。
「悪くはない。だが、宝石との相性も今ひとつだったと聞いた。剣術か、あるいは統率術のほうが向いているかもしれんな」
姉も頷く。
「魔法は貴族の教養だけど、戦場じゃ使えない魔法は足手まといになる」
アマネは言い返さなかった。ただ、黙ってその場を離れた。
その夜、部屋の扉が静かに開いた。
「ねえ、アマネ。魔法、好き?」
母の声は優しく、静かだった。
アマネは布団の中から顔を出し、ゆっくりと頷いた。
「……宝石じゃない方法でも、きっと“繋がれる”。そう思うんだ」
母は少し目を見開いてから、ふっと笑った。
「なら、進みなさい。誰かのためじゃなくて、自分のために選びなさい。あなたのその『知りたい』って気持ちは、誰にも止められないものだから」
アマネはその言葉に、初めて安心を感じた。
母は、自分の“疑問”を否定しなかった。
◆
翌朝。
アマネは机に向かい、魔法学院への申請書に自分の名前を記した。
その筆跡は、まだ幼さを残していたが、震えてはいなかった。
彼のポケットの中には、黒ずんだ金属片が入っている。
それがいつか、彼の“言葉”になると信じて。
──ようこそ、と声が聞こえたあの日から、
確かに、何かが始まっていた。
(修正)
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
現代から異世界へ転生した少年アマネが、宝石と魔法の世界に出会う導入回となりました。
この作品の根幹にあるのは、「魔法=インターネット」的な構造と、それを見抜ける“異物”としてのアマネの視点です。
彼が最初に魔法に触れ、目を輝かせる場面は、私にとっても特別な一節となりました。
まだまだ謎は多いですが、少しずつ、彼の歩む道を描いていけたらと思います。
4MB!T/アンビット