6 夕闇の悪魔
私を部屋に残していくのは心苦しいと何度も告げていたパセナ嬢。けれど「新人なのだから任された仕事をやりとげないと」と説き伏せた。彼女の背中が見えなくなるまで見送ってからは、引き続きただ掃除をするのみだ。
パセナ嬢は私が知っている貴族たちよりも、随分に優しすぎる。初対面の私なんて、言ってしまえば助ける義理なんてない。そして助けてもらえなかったとしても、それを私が恨むのはお門違いだ。けれど彼女は「たとえこの宮廷に爵位の権限はなくともそれは貴族の務めだ」と何回か口にしていた。ぜひとも、彼女とは個人的に友達になってみたいと願った。
日はどっぷりと暮れて、夕焼けの暖かい橙色は闇に溶け込んで霞んでいる。最後のゴミ袋をきゅっと縛っていると、終業の鐘が宮廷中に鳴り響いた。あの男は帰ってこない。鐘が鳴ったのだから、指示が無いのであれば寮に帰宅しても誰かに責められることじゃない。
けれど、なんとなく彼は帰ってくるのでは、と思った。きっと、自分がからかい、圧倒的な立場で見下した相手がどう対応したのか、確認しに戻ってくる。そんな性悪さを感じたから。
そして、その予感は的中した。
「うーん、本当に掃除したんですね」
はっ、と振り返った先には扉に体重をかけ、腕を組んで。廊下からこちらを観察しているあの男。私の掃除の成果に感心している風を装って、むしろ小馬鹿にしているようだった。
改めて、きちんと明かりを灯した部屋で彼の姿をまじまじと見つめる。黒い襟付きのシャツは装飾の一つも無くシンプルだ。同様に動きやすさを重視したような真っ黒なパンツは彼の長い脚を際立たせていた。黒い革の長いロングブーツに、すっぽりと裾が入り込んでいる。手元には同系色の手袋。なにを思ってそんなコーディネートなのだろうと思うほど、真っ黒な出で立ち。なるほど、薄暗がりの室内ではっきりと姿が見えなかったのは、この装いのせいでもあるのか。
彼の髪の毛は、今の空模様と同じ色。衣服のように真っ黒まではいかないけれど、闇夜に夕焼けが飲み込まれる寸前の、鮮やかな紫色が一滴落とされた艶やかな黒い髪の毛。それをゆるく編み、後頭部下方で縛っている。こちらを見下す長身は、男性にしては高い方なのだろう。幾分かヒールで盛ってはいるだろうが。
顔立ちは整っていると率直に言っていい。高く形のいい鼻と、ぺらぺらと余計なことをしゃべり続ける厚みのある唇。深い彫を描く目元と、流し目の良く似合う瞳に長いまつげが被さっている。彼の凛々しさを強調させる眉毛の形はまるで意図して描かれたかのようだ。
彼はまぎれもなく王子様である。それも、巷で流行りの恋愛小説に登場しそうな、女性の理想を詰め込んだ理想の王子の容姿を持っている。
「貴方は何者ですか、殿下」
尋ねてみて、変な質問だとは思った。王子であることが分かっていて殿下と呼んでいるのに、改めて素性を確かめるなんて。
「おや」
彼は興味を引かれたように、眉を動かした。それでも尚、私を弄ぶ視線は変わらない。
「どうやら正体を突き止めたようだ。どこぞの子ネズミから僕の噂話でも聞き入れたのでしょうか」
「王子であることだけ、知る機会があっただけです。人づてに詳細を聞くほど、私は落ちぶれて居ません」
制服のズボンをぎゅっと握りしめた。対峙しているだけで独特の緊張感が生まれるのはなぜだろう。物怖じせずに会話したいのに、どうあがいても手汗を止めることができない。
そんな私の無駄なあがきも彼にはすべてお見通しのようだ。男は一歩、また一歩とヒールをかつんと鳴らしながらこちらに近づいてくる。
「落ちぶれていないというより、賢くない立ち回りかと。人間、使えるものはなんであれ使わなければ。政に携わる身分がそんなあまっちょろくて心配になりますね」
私の真正面に立った男はそれはそれは綺麗な顔でにこりと笑った。距離は近くなっても、隙は少しも見せやしない。
「……でも、私があれこれ話を仕入れたら、貴方は『宮廷で尾ひれの付きまくっている噂話を鵜呑みにするなんて』って仰りますよね?」
「そんなそんな。心外ですね。君はよほど僕のことが嫌いらしい」
困ったように顎に手を当てて、残念そうに肩をすくめて見せる。そのすべてが演技であるとバレていてなお、彼は化けの皮を一切剥がさない。いっそ徹底していると言える。だって自分は私のことが嫌いであるはずなのに、私は僕が嫌いでしょうと視点を変えて私に罪を擦り付けてくる。
彼は二重瞼に嵌められた、夜の海のように輝く瞳を細めた。
「いかにも、君の言う通り。僕の名前はアルバローラ・レヴォシュリオン。この国の第二王子ですが、ついこの間王位継承権をはく奪された宙ぶらりんの身ですよ」
王子ではありますが、正確には王家の血を引いただけの人間ですね、今となっては。続けるアルバローラ様の身の上は、悲惨なものであるはずなのに、彼はそんなことひとつも感じさせず、まるで他人事のように笑う。それは楽観的であることともただ違い、事実を面白おかしく述べているだけ。
得体の知れなさ、腹の内側の見えなさにぞっとする。むかつく相手であり、変な言い回しでこちらを腹立たせるくせに、一歩もそちら側に入り込ませないゆるぎない意志。けれど、確かめなければ。私はこれから宮廷でどう立ち振る舞い、なにをなすべきなのか分からないのだから。
「……お答えしてもらえるのであれば、教えてください。なぜ、貴方は継承権をはく奪されたのですか」
まるで彼は私がその質問を口にすることが分かりきっていたようであった。自分の思い通りに事が運んで、面白いけれどつまらない。がっかりしているようで、最初から興味などない。複雑に混じりあった笑みを浮かべ、淡々と、なんてことのないように彼は罪を告げるのだった。
「長年連れ添った婚約者を皆の前で断罪した、だけですよ。まあ、結局彼女は無罪だったわけですがね」
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