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3 急転直下、断崖絶壁

 出勤初日の朝は、予定していた時刻よりだいぶ早く起きてしまった。なんだそわそわしながらも、私はクローゼットに大切にしまって置いた、先日届いたばかりの制服に身を包んだ。女性の制服はワンピーススタイルかパンツスタイルの二種類あり、日によって好きなものを選択することができる。仕事内容がどのようなものなのか検討がつかないので、初日はパンツスタイルにすることにした。

 一年間住み込みのため貸してもらっていた自室は、初めてこの部屋を貸してもらった時のように、すっかり空っぽになっていた。本日から王宮に隣接された寮へ移り住むため、数少ない荷物はすでに発送済みだ。私は一年間お世話になった部屋に向かって一礼してから、鞄を握りしめて一階に降りた。


「ミィテ」

「女将さん……」


 昨日も遅くまで片付けで忙しく、いつもならまだ寝ている時間なのに、一階では女将さんがにこやかな顔で待ってくれていた。その笑顔を見ただけで途端に涙が反射的に溢れそうになるので、私はグッと唇を噛み締めた。


「どうしても見送りたくてね。一年間、ありがとうね」

「そんな……お礼を言うのはこちらです。他国から来た、ボロボロの私を住み込みで働かせてくれて。しかもろくに接客の仕方もわからないから、一から育てるのは大変だったと思いますし、それに……こうやって私が試験に受かっちゃえば、一年しか食堂で働けないのに」


 この国に来て、言語が扱えるようになって、勉強に励んでも、それでも私の心にポッカリと空いた穴は塞がることはなく、凍えるような風が吹き抜けていた。そんな不安に苛まれる異国での生活の中、間違いなく私の支えになってくれたのはこの女将さんだ。


「そうさね。けど、あたしはあんたと働くことのできたこの一年、よくない感情を抱いたことなんて一度たりともなかったよ。子供のいないあたしだけど、まるで娘ができたみたいに楽しかった。それだけであたしは十分なんだよ」

「女将さん……」


 私には正真正銘、血の繋がった母親がかつての故郷にいる。けれど母親と親子らしい会話を交わしたことなんて一度もなかったことに、この国に居を構えてようやく気がついた。あの人と私は、机を挟んでしか会話をしたことがなかったし、あの人にとって私は、それだけの存在だったのだ。

 女将さんはひだまりのような笑顔で、私の背中をぽんと叩いた。


「さ、ジメジメするんじゃないよ。今日は待ちに待った出勤日だろう? でも、辛かったらいつでも帰っておいで。ここは、あんたにとっての実家だと思ってくれて構わないよ。あたしも、お客のみんなも、あんたのことをいつでも待ってるからね」

「……はい!」


 私は胸を張って、元気よく返事をした。

 これから始まる新生活。一度枯れたような命なのだから、なるようになると前を向いて歩いていきたい。私は深々と頭を下げて、王宮へ向けて一歩踏み出した。



 のに、どうしてこうなったのだ。

 目の前の偉そうな男は、私の頭のてっぺんからつま先までまじまじと眺めると、目を細めた。決して私の姿に好感を持った目じゃない。値踏みされている、と判断するのは容易い。

 初対面にて信じがたい言葉を浴びせ続けたこの男は、まるで私なぞ初めから存在しなかったかのように、私の横をすんなり通り過ぎ。私が来た道をすいすいと進んで出口へと向かっていく。私はあれだけ慎重に、床のわずかな隙間を見つけてつま先立ちで歩いたというのに、この男はむかつくことになんの苦もせずひょいひょいと華麗に足をさばいていった。


「ちょ、ちょっと……どこへ行くんですか!」


 彼が何者かは知らないが、この執務室に居たからには自分と同じ職場の人間なのではないだろうか。だとすれば彼が去ってしまえば、なにをすればいいのか分からない。そもそも、彼が浴びせた「厄介払い部屋」が事実であるのかどうか確かめようがない。

 彼は振り返らなかった。開け放したままになっていた執務室の扉までたどり着くと、ひらひらと肩越しに手を振って、指示とも言えない適当な命令をよこした。


「この部屋。片付けておいてください。僕が過ごすには空気が悪すぎる。綺麗になっていたら、気が向けば帰ってきてあげますよ」


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