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第六節「淡紫の香油瓶」

留意事項※露骨な性加害表現があります

――彼がニカと呼ばれていた頃。


彼の主人は貿易商の富豪(ふごう)だった。

富豪は、長い年月をかけ成り上がった漁師の息子だ。


富豪は、その出自ゆえか、見下される、ということに非常に敏感だった。

黒民(こくみん)奴隷を従えていることがどれほど支えになるか。

黒民(こくみん)奴隷は富豪の憧れの一つだった。


そんな折、自分より格下の商人の家に客として招かれた時、富豪は黒民(こくみん)奴隷のマグを見て驚愕した。

富豪は金と圧力をかけて商人からマグを買い上げ、名をニカと改めた。


成り上がりの富豪は、黒民(こくみん)奴隷を粗雑(そざつ)に扱って見せることこそ権威的な行いと信じていた。

貧相(ひんそう)に弱らないよう肥えさせ手を入れながらも、大勢に見えるようにして畑仕事や家仕事をやらせた。

庭を()き庭木の枝葉で傷を作るニカを、富豪は満足そうに大勢の客と眺める。

ニカの手が荒れ、足の裏が硬くなっていくのを確認しては、(えつ)に入るのが富豪の習慣だった。


これで、富豪には人に必ず自慢するものが三つできた。


ひとつ、黒民(こくみん)奴隷。

ふたつ、離れや倉庫を十ずつ持ち、虹色の貝を敷き詰めた柱が大広間にある大邸宅。

みっつ、財産を増やし、位を上げ、ようやく手に入れた美しい妻。


「香りが最も強く記憶を呼び起こすの」

とニカに言ったのは、その妻だった。


──十年ほど遡って。


富豪は長らく、家柄が良く、美しい妻を欲していた。

もっと言えば、若く、賢く、丈夫で、豊満な……

とにかく女に求められる良い資質を全て兼ね備え、かつ、富豪を愛すような………。


そんな女は幻想だ。

いたとしても、成り上がりの灰民(はいみん)に差し出されはしない。

ただ、貞淑(ていしゅく)さや初物(はつもの)であることは特に問わなかった。


事業が軌道(きどう)に乗って長く、財産でいえばそこらの良家などは軽く超えた頃。

夫を二度替えた出戻りの娘をもって、富豪はようやく理想の妻を迎える悲願(ひがん)を叶えた。

富豪に比べ二十歳も若く、それでいて()()に長け円熟(えんじゅく)した魅力的な妻を

富豪はこれ以上ない歓待(かんたい)を持って迎え、寵愛(ちょうあい)した。


その寵愛(ちょうあい)ぶりは港中の噂になるほどだ。

遠方であっても帰れる日には必ず妻の元へ戻り、

邸宅で寝る時には必ず側に控えさせ、

()()()が叶わない時でも一晩中柔らかな手をさすり続けた。

欲しいものは全て与え、

あの納屋が気に食わないと言えば壊し、

あの使用人が気に食わないと言えば殺した。


富豪にとって一番の宝はこの妻であった。

妻もそれをよくわかっていた。


妻は富豪から与えられる愛情と執着と金品に蕩尽(とうじん)とし、幸福な生活を送った。

だが、ほとんど老人である富豪にはひとつ、妻を満たしきれぬ部分があった。


──そして十年に至る。


そう、連れられてきたニカを初めて見た時の妻の(しび)れこそ、並大抵のものではなかった。

そして若く美しいニカは、富豪の命令で日々傷付き汗を流しながら(たくま)しく育っていく。


黒民(こくみん)であることがなんなのか。あれは奴隷だ。

夫に一番に愛されている私は、奴隷一人どう扱ってもいい……。


……富豪は仕事のため、度々家を空けざるを得ない。


富豪が出かける時、妻は毎回、

絡みつくようにしっとりと抱擁(ほうよう)と口付けを交わし、

目をうるませて無事を祈りながら夫を見送る。


しかし、夫の姿が見えなくなったときには妻の顔には喜色(きしょく)が浮かぶのだ。

そのまま足取り軽やかに妻はニカに会いに行く。


ニカを部屋に呼び付けることもあれば、ニカの使用人部屋に忍んで行くこともあった。


そんなとき妻が必ず用いるのは淡紫(あわむらさき)香油瓶(こうゆびん)

中には(らん)の良い香りの香油が収められている。

それを妻は髪や手足になじませ香らせてから、ニカの元へ行くのだ。

富豪が出かける予定が入ったと先に聞けば、

ニカの通り道をわざわざ通過して髪を振って香りをふりまいた。


老爺(ろうや)に嫁いだ乙女の道ならぬ恋?

若い情熱を燃やす美男美女のひとときの逢瀬(おうせ)


否。


……若いといっても、それは老齢の富豪と相対(そうたい)しての話であり、女としてはとうに盛りを過ぎている。

金をかけ肥えた肉体は同年代の女と比べれば確かに美しいが、

襲い来る老いに(あらが)える人の身の程度など高が知れている。


()()()()()()()()は、ニカと妻の間も同じであった。


豊満といえば聞こえはいいが、流れた乳房、胴に輪を二つ抱えた腹、重い尻、肉の垂れた太腿(ふともも)が、段となって折り重なって、うなりくねりその末にこすりつけられる股座(またぐら)

首元の(しわ)

笑みと同時に深まるほうれい線。

加齢で垂れた(まぶた)の肉と、にやついて盛り上がった頬肉の狭間でぎらぎらと光る肉欲の眼光。


白髪の混じる灰髪を振り乱し香るのは、歳に不相応に若々しい華やかな蘭──。


 私を(こば)めば泣いて言いふらす。

 主人はお前を殺すだろう。

 さあ。


(わず)かな(いとま)も逃さぬ年増(としま)凄絶(せいぜつ)たる淫行(いんこう)の様相は筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい。


ニカは耐えた。振る舞った。機嫌を損ねぬよう微笑んだ。

その様を本気にしたか、あるいはわかっていて嗜虐(しぎゃく)したのか、

妻はお決まりの睦言(むつごと)を吐く。


 お前の子種が欲しいねえ

 老いぼれの子は頼りにならぬ

 黒い子供は丈夫に育つよ

 主人はお前を殺すだろう

 お前の代わりに(いつく)しむ


……何度も繰り返されたその言葉は()()になった。


富豪はそれが自分の初子(ういご)と思い、泣いて喜び、妻をますます過保護に愛した。

結果、ニカの寝所はひとときの平穏を迎えたが、

引き換えに日々(ふく)れていく腹を見るニカの心中はいかほどか。


富豪は、黒民(こくみん)が撫でれば縁起がいいと、ニカに妻の丸い腹を撫でさせる。

妻の破顔(はがん)の笑顔の目元、差し込むニカへの目線の意味を、富豪は知る由もなかった。


そして(きた)る日。

産気(さんけ)づいたのは夜の深まる頃。


()()が明らかになる。


富豪は怒り狂った。

奴隷にずっと馬鹿にされていた──見下されていたのだと。


ニカは髪を(つか)まれ引き起こされ、庭に引き出された。


死ぬような歳を超えても精強(せいきょう)に商売を切り開いてきた富豪であるから、

怒りによって(ふる)い立った力は老いてなお凄まじい。

富豪は持てる力をあらんかぎりにニカに振るい打ちつけた。


ニカの生存にとって唯一都合が良かったのは、

富豪の生来の見栄っ張りな性質が、荒れ狂う怒りの感情をも押してしのぐほど強かったことだ。

富豪はその場で手を下すより、妻の出産祝いの宴へ招いていた客が揃う明朝に、

ニカを惨たらしく処刑しようと考えた。


ニカは一晩縛られ(うまや)に閉じ込められることとなる。

冷え込みの強くなってきた夜。

人気の無くなった静かな小屋。

ニカは()()()()()()から冷えていき、気が遠くなるほどの寒さに震えた。


そこに、窓から見知らぬ男が覗いた。

それは数日前から宿泊していた客の一人。

客の男はニカにこう声をかけた。


 素晴らしい

 あの成り上がりには手に余る代物

 顛末(てんまつ)はすべて見ていたぞ

 俺は主人の命で、お前の買い取りの為に来たのだ

 こうなったのはむしろ僥倖(ぎょうこう)


 ……ああ、()()も捨てなさい

 もったいないが、使えない


夜のうちに、ニカ()()()青年は荷車に隠されて、

数日かけて、新たな主人のもとへ運ばれていった。


長い年月が経った。


それでも淡紫(あわむらさき)香油瓶(こうゆびん)の呪いは、彼を(さいな)み続ける。

貿易商の富豪が(ちまた)に最も流行らせた逸品(いっぴん)は、

若い娘を中心に長く親しまれ、国の端まで行き渡っていた。

あの香りをした無邪気な乙女とすれ違うたび、

おぞましく暑い夜を、恐ろしく寒い夜を、彼は思い出す。

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