第三節「敗走」
痛い。息が痛い。
壁にぶつかりぶつかり走る。
口に冷えた空気が次々と飛び込んでくる。
その冷たさが喉を引っ掻いて、胸を次々殴りつける。
痛い。足が痛い。
石床の鋭い冷たさと細かい石粒の棘が、足の裏を刺す。
急いで突っかけた靴はどこかへ落として、片足だけがかろうじてひっかかっている。
怖い。心底恐ろしい。
逃げなければならない。
何から?
──────イメナータ?
「私めを大変お気にかけて頂いていると存じます」
裸身を晒した彼女はそう言った。
私の心臓は跳ね始めた。
イメナータの、右の分まで器用な左の指が伸びて、私の腹部に至ると、指先を速足のように遊ばせて胸元に着地する。
その手の平と、肩に寄せた頭とに少し力を込めて押されれば、姿勢が大きく崩された。
本来女一人に押されて動くような体ではないのだが、イメナータの不意の動きに少し崩れた脛の裏が、ちょうど寝具の角へひっかかってしまった。
かろうじて右肘をもって支えながらも、寝具の上へ倒れる。
彼女が乗り上げるのを受け入れるようにして。
「何、を……」
声が震えた。
彼女は縛らずに突っかけていた自身の靴を足の裏から切り離すように指で弾き落とす。落ちた靴が石造りの床を叩く。
「コッパー様ともあろう方が、私なぞを気にかけ、連れ、生かしたのは」
膨れ萎むのを繰り返す私の胸に額をつけ、彼女は宥めるような小声でそう言って、私の左腿に深く座り直し、自身の前髪を軽く払った。
「このためなのでしょう?」
はあ、はあ、と低い呼吸が私と彼女の間の隙間へ篭っていく。
女性らしい柔らかそうなすべらかな肌。
くねらせた腰に、足の付け根に、動くたび違う段ができた。下生えが下着の腿越しにちくちくと刺さる。
イメナータが目をすがめ、私の局部を撫でる。
心臓の底から震え上がった。
耳の裏から血が剥がれていって、冷えこんで、脳みその裏から、灰色の靄が、頭を覆うように感じて、完全に覆われたら、私は死んでしまうか、もっと、おぞましい目に遭うと、破裂しそうな、恐怖。
私は彼女を押し飛ばした。
尻餅をついたようだが、大きな音はしなかった。
寝具にかかる毛布を咄嗟に引っ掴み、彼女と隔たるように前身に巻き抱く。
私は駆け出した。
扉には内鍵が閉められていた。開かないことに酷く混乱し、大きくもたつき音を立てながらガタガタと無様に内鍵を外し、開け放つ。
足をもつれさせながら暗い廊下に駆け出して、爆ぜるようだった心臓が少し冷えて、駆け去る一瞬振り返ることを思いつく。
イメナータは、薄明るい扉の枠の中、呆然と開いた目で私を見ていた。
私は人気のない暗い宮殿の中、ただ血の流れが落ち着くまで、上とも下ともつかないまま、ひたすら冷たい廊下を走り続けた。




