第四節「救世主」
陽の光の中、コッパーは目を覚ました。
吐瀉物に濡れたはずの衣服は黒の装束と替えられ、肌は拭われている。
伏せていた硬い地面ではなく、簡素な寝台へと横たえられており、毛皮が腹にかけられていた。
昨夜寝所として案内された岩肌を削った小屋とは違う。
よく削られた石を組んだ小屋に、大きな板窓から日が差している。
昨夜招かれた小屋とはまた異なる部屋の様相が、
かえって昨夜の悪夢を嘘ではないと知らしめる。
「調子はいかがかな」
真横には、天使が石造りの腰掛けに優雅に座っていた。
手には白の花を携えている。
昨日市場で見た時とは異なり、
白髪は頭巾を外して奔放に晒されて陽の光に煌めいている。
伏せた長いまつ毛の奥に赤い瞳がちらついた。
冷たさを思わせる白皮、真っ直ぐに伸びた鼻梁と大きな口元。
声色と態度とは裏腹に、彼はコッパーより遥かに若いようだった。
「昨夜はすまなかった。
決して苦しめるつもりではなかったのだ。」
花を手慰みながら、彼は優しげな語調で語る。
「然し…結果として貴殿は…
期待以上の人物であるようだ」
コッパーは狼狽えた。
天使に期待をかけられるようなことは何もない。
特に昨夜の一件でというなら、
燻出されて無様に嘔吐し気を失っただけだ。
「記憶が無いと言ったかね」
「…ええ」
「どのくらい前から?」
「歳は…わかりませんが、10年以上は経ちます」
「聞かせておくれ。
記憶が無くなったとわかった時のことを」
「ええ…」
コッパーは正直に、当時の記憶は断片的で朧げであると伝えた。
記憶を失い倒れていた時、まだ少年であったこと。
肌着だけを着て全身が濡れて寒さに震えていたこと。
そのときは一時的に左耳は聞こえなくなっていて、
顔の左側を裂いた傷だけが熱く痛み、
剥がれた皮が鼻先へ吊られていたこと。
引きずるように知らない男たちに連れられ、
額に焼印を捺されたとき、また一度気絶したこと。
次に目を覚ました時には市場の檻の中だったこと。
ぽつぽつと語るコッパーを、天使は今度は爛々と見つめている。
一つ一つ情報が明かされるたびに笑みが深くなる。
「素晴らしい」
天使の深い溜め息が場に響く。
「キュプレムを知っているだろう」
「え?ええ」
キュプレム王国。
この国と地続きに存在していた、
黒民を王として繁栄を極めた大国だ。
「我が神の国エラメンタと、
キュプレム王国に深い関係があることは?」
「…いいえ…存じませんでした」
そもそもコッパーは、エラメンタという国があることも
御伽噺としてとしか知らなかった。
天使は一言ずつ質問を繰り出すごとに、
コッパーの顔をじっと窺っている。
「王国は滅びたか?」
「…そのように聞いています」
栄華を極め、広く豊かな土地と信仰の歴史を持つ大国の晩年は、
その信仰に縛られた結果、土地・金・権利・命を奪い合う無様な内乱の果てに、
異国の連合にあっというまに滅ぼされ、いまや大国の面影もないという。
「エラメンタには言い伝えがある」
天使は手を組み替え、前傾し、そっと言った。
『王国が滅ぶ時、神国は喪われる』
「エラメンタは喪われるという、予言だ。
そして今その時は訪れつつある。
我が神国の周りも、荒れ始めた。
さらに、また別の言い伝えがある」
『王国が去る時、神国は神を失う』
『王国は神国を損う術を持っている』
「言い伝えだ。王国と我が神国と関わりを持った時から、
代々の天使はこれを忘れぬようにと言い含められている」
コッパーは話を聞きながら、
それがどう昨夜からの一件に繋がるのかわからず戸惑う。
相槌にもなりきらない息を吐くだけだ。
「私は、貴殿は王国と深い関わりがあると思っている。
そしてそれは昨夜、確信に変わった」
「…」
「これは、奇跡だ」
「どういう、意味でしょう」
「知らせずとも、知っているはずだ」
天使は白い花を指先で回す。
「要するに、だ。
貴殿は…『神国を損う術』を知っているはずなのだよ。
損う術をしればこそ…『護る術』も然り。」
「私は…何も」
「そしてきっとそれは貴殿の記憶の中にある」
するりと立ち上がった天使はゆったりとコッパーに近付くと、
その額に自分の掌を押し当てる。
「神国と王国は関わりが深い。
我が神国で過ごせば自ずと答えは出よう。
貴殿は神国を救うのだ。」




