飼い猫の記憶
コンビニの仕事の休み時間にスマホを取り出すとショートメールのポップアップがある。
「イバです、元気?、着信の番号に折り返して」その下に知らない番号の着信履歴があった。
佑が折り返すと、「話があるから会えるか?」と訊かれた。バイト先のコンビニの場所と仕事が終わる時間を伝えると、「近くのファミレスで待っている、終わったら来てくれ」、そう言われた。
佑は介護士を辞めた。現実にお金も手にした。でも、そのお金がなければ、まだひと月もたっていないあの数日間が夢だったと自分を納得させられるような気がしていた。伊庭の声を聞いて、佑は叫びたいほど嬉しかった。あれは本当のことだった。もし自分がまた窮地に陥ったら伊庭は自分を助けてくれるかもしれない。実際に助けてくれたのはゆき子とギギかもいれないが、あの二人はつかみどころがないだけではなく、自分をまともな人間と扱っていたとは思えない。伊庭だけには心を開けるような気がする。自分のことをちゃんと名前で呼んでくれたのも一度しか会ってない伊庭だけだ。
駐車場には真っ白のポルシェが駐まっていた。ツイッターで伊庭が見せてくれた写真を思い出した。ドアを開けて、店の人に待ち合わせであることを告げ、奥へ歩いていくと茶色のサングラスをかけた伊庭が手を振った。壁側の席を空けておいてくれている。
「伊庭さん、お世話になりました」佑は伊庭の横に立って頭を下げた。
「いいから座ってくれ」
「はい」佑は伊庭の向かいに座る。
「腹減ってるだろう、またステーキでいいか?」
「ああ、ありがとうございます」
伊庭はウェイトレスを呼び、メニューをさっと開くとステーキのセットとドリンクバーをそれぞれ二人分注文した。
「飲み物取ってきます、伊庭さん、何がいいですか?」
「じゃあ、野菜ジュース頼むよ、氷なしで」
佑が飲み物を取りに行っている間、伊庭はテーブルの上に両肘をつき、両手を組んで、左手首の時計を秒針の動きをじっと見つめていた。
「真似しちゃいました」佑は野菜ジュースの入ったグラスを両手に持って戻ってきた。
「ありがとう」伊庭はストローを挿してジュースを飲んだ。佑も真似をした。
「ちょっとなあ、頼みがあるんだ、いいか?」伊庭は顔を上げて佑の目をしっかり見て言った。
「伊庭さんの頼みでしたら、もうなんでも…」
「ほう、悪いなあ…、それより今どうしてるんだ?、まさかコンビニでバイトだけってわけじゃあないだろう?」
「オンラインのプログラミング・スクールで勉強してます、ギギさんがリスト作ってくれて、一番上に載っていたからここにしました」
「よかったじゃん」伊庭は人懐こい笑顔を見せる。「まあ今から初めてもギギにはみたいには絶対なれないけどな、…でも、言われたことをちゃんとやるのは佑のいいところだ、向いてるんじゃないか?、…介護士もプログラマーも世の中にはたくさんいるが、両方できる人間は珍しい、どんな使い道があるかオレにはわからないけど、自分で考えないとなあ」
「はい」
「FXはやってないのか?」
「ええ、ゆき子さんにもギギ…さんにも、やるなと言われましたから」
「そうか、ちゃんと言うこと賢明だな」
「お金があれば可能性が開けるってよくわかりました、今はプログラマーになって貯金して、ゆき子さんに運用をお願いしようって考えてます、でもゆき子さんツイッターとか探しても見つからないんですよ」
「ゆき子はそんなところにはいないよ」伊庭の表情が曇る。「あのさあ…、飼い猫っていうのは飼い主が餌を用意してくれる。でも野良猫は自分で餌を調達しなければいけない。飼い猫じゃなくなったら、野良猫になるしかないんだよ。飼い主になれるわけないだろう?」
佑は何と答えたらよいかわからず、黙って伊庭の表情を見つめている。
「あのさあ…」伊庭は呆れたように言う。「ゆき子はとっくにおまえのことを見限った。佑は飼い猫になれるチャンスをものにできなかったんだ。終わってからおもしろさに気づいても遅いんだよ。チャンスは一度しかない」
「そんな…」
「手動スキャって言葉聞いただろう?」
「はい、なんとなく…」
「なんとなくか…、だよな、…お前がそこで目を爛々と輝かせていればゆき子は手放さなかったかもな…、佑は物分かり悪そうだからちゃんと話してやるよ…、料理こないな」伊庭は腕時計に目をやるとそのまま動かなくなった。
「時間、大丈夫ですか?」佑は恐る恐る聞く。
「ああ、悪い、…この時計好きでさあ、ついつい見とれちゃうんだよ、いい時計なんだ、これさあ、…ごめん、やめよう、オレ時計の話すると止まらないんだ、先に進まなくなる、飲み物取ってくる」伊庭が立ち上がった。
「オレが行きます」佑も立ち上がる。
「いい、自分で行く、歩きながら頭の中を整理して話すよ、同じものでいいか?」
「じゃあ、オレも行きます」
佑は伊庭の後について歩いた。伊庭は新しいグラスにまた野菜ジュースを注いだ。佑は何となく違うものにしようと思い、少し考えて氷にグラスを入れてアイスコーヒーを注いだ。頭を整理するために歩いたはずの伊庭は、佑よりずっと先に席に戻っていた。
「何年前かなあ」伊庭は佑の目を見ながら唐突に話し出す。「指標スキャのおかげで最高一日に5000万稼いだことがある」
「え?」
「ゆき子も同じくらい稼いだ、次は一億なんて思ってたけどあれがピークだった。…海外のサイトで指標スキャのソフトが売られてた。それを大儲けしたとネットで書いてる人間がいて、調べたら本当らしい。彼のところに人が集まってコミュニティができた。女はゆき子だけだった。最初はドキドキしながらやってたけど、いつの間にかパーティだよ。楽しかった。でも、そのソフトのおかげでFX業者の方がカバーできずに大損する。そこから摘発じゃないけど、オレたちの口座は悉く閉鎖される。海外の業者でやってみたら、その業者が飛んじゃって、口座に入れた金がまったく返ってこないこともあった。胴元を潰したら賭け事ができなくなるってことだよ。結局あのソフトは事実上もうどこでも使えない。あれはさあ、経済指標が発表されて相場が一瞬で大きく動く瞬間、他の人間より早く動いた方にポジションを取る、つまり遅い業者をカモにする絶対に負けないやり方だよ。一度あれを経験したら、予想しようなんて発想はなくなる。とにかく勝てる勝負しかしたくない。だから、オレはもう自分では取引しない。FXのサロンを運営して会員集めて会費を取ってる。ツイッターで派手な写真上げてるのも、今はもう完全に宣伝のため、…だけどゆき子は今でも目立たないように指標スキャをやってる、しかもあのソフトよりもっとをすごいらしい、プログラムを書いてるのはギギだ、あいつはたぶん天才なんだろう、全部独学らしい、しかも完全な引きこもりで社会人経験もない、ゆき子のおかげで外に出られるようになった、ギギにとってはゆき子は恩人みたいなものだ」
なるほど、ギギの異常な人当たりの悪いさはそういうことだったか、佑は納得した。笑ってみようかとも思ったが伊庭の次の言葉を聞いて、やめた。
「ただ、単純じゃないことはゆき子はよくわかってる」
そう言って伊庭は目をそらせると軽い溜息をついた。
「ゆき子には時々仕事を頼んでる。今のオレのビジネスを続けるためには、相場で勝っているという証拠を見せる必要がある。そのためにはギギのプログラムが必要だ。理由なんていくらでも後からつけられる。筋さえ通っていれば疑われることもない、…ところでだ、…なあ、佑?」
「はい?」
「おまえドMの変態野郎だろう?」
「え?」佑はびっくりして周囲を見回す。
「カミングアウトしようぜ」伊庭は嬉しそうに言葉を継ぐ。「介護士なんてマゾヒストじゃないとできない仕事だよ、それを選んだオレも同類だ、だろう?」
「…」
「いいか、冷静に考えてみろよ、おまえは患者のために一生懸命働いている、でも認知症の患者はおまえに対して感謝の気持ちなんて感じない、じゃあ、患者の家族はどうだ?、礼を言ってくれる人もいるかもしれないが、結局自分たちがやりたくない家族の世話を、安い給料で引き受けてくれる人がいるから嬉しい、それだけの話だよ、誰でもいいんだよ、佑である必要はない、…良く言うだろう?、マゾヒストはサディストの裏返しなんだ、マゾヒストの仕事をしてる人間はサディストになってバランスを取る、一番お手軽な方法はSNSで毒を吐く、それはもう世の中が回るためにしかたがないことだ、でもお前はそういうことをしなかった、バーチャルの世界でサディストになれなかったら、現実の世界で誰かを傷つけるしかなくなる、違うか?、オレは本心から前を救い出したいと思った。介護士の先輩として。それがゆき子に引き合わせた一つ目の理由だ。」
「…」
「もう一つの理由は…、彼女のためだ。お前は若いし、綺麗な顔をしている。今までちゃんと社会人として働いてきた。ゆき子が喜んでくれると思った。」
佑は黙っていたが、伊庭はにやりと笑って言葉を継いだ。
「佑を放り込めば、ギギが嫉妬する。ゆき子にさらに執着して、離れていく時期が遅くなる、おまえだってゆき子に運用を頼もうなんて考えるようになっただろう、自信を持つってそういうことだ、ギギだって永遠にゆき子に忠実な引きこもりでいるわけじゃない、いつかいなくなることはゆき子だってわかってる、…とりあえずギギは佑を追い払って番犬としての役割を全うしたことに満足してるじゃないか?、」
「佑に嫉妬すると言う目論見ははずれたけどな、ギギ、親切にしてくれたみたいじゃないか?、嫉妬してる相手には親切にしないだろう?、自分より惨めな人間を見ると人は寛容になれるものだよ」
佑は黙っている。
「前置きが長すぎたな、…オレの頼み一つ聞いてくれるか?」
「はい」佑はやっと口を開いた。
「お前五人家族で両親は70前だったな?」伊庭は最初に会ったときの質問を再び口にする。
「あ、はい」
「OK。1か月やるから、全員の銀行の口座を新たに作れ、それ終わったら、いくつかのFX会社を指定するから、そこに全員分の口座を開け、70過ぎると口座作れない会社あるからよかったよ、…一通り終わったら書類、通帳、キャッシュカード全部オレに渡せ、パスワードも忘れるなよ…おいおい、そんな不安そうな顔するなよ、悪いことするわけじゃないってわかっただろう?、ちゃんと説明するから心配するな」
「ああ、はい」
「さっきも言ったように、オレはその指標スキャのおかげで日本中のFX業者の口座を凍結されたんだよ。もうどこの業者でも二度と口座は作れない。自由に使える借名口座が必要なんだ。儲かっているというスクショをさえ見せられれば、今のビジネスが続けられる。だから大事にするよ、心配しないでくれ。そうそう、あとこれが多少面倒なんだけど、儲けた分は確定申告が必要だ、兄弟の口座はできるだけ使わないようにするから、親の分と自分の分はお前がネットでやれ、そんなところだ、できるよな?」
佑は返事をためらった、
「なあ、タスク、ゆき子に動画録られただろう?」
佑は自分の体が凍り付くのがわかった。
「お待たせいたしました」ウェイトレスが食事を運んできた。
「ありがとう」伊庭はウェイトレスの顔を見上げて言った。佑は動けない。伊庭はナイフとフォークを両手に持ち、食事に手を付ける前に佑の両目をしっかりと見て言った。
「ゆき子の家覚えてると思うけど、もう一度会いたいなんて気は起こさない方がいいぞ、…バカみたいに儲けていた頃は楽しかった。オレもゆき子も、大金を手にして、それまでのマゾヒストの生活を埋め合わせるように、サディストになったように金を使いまくった。それでちゃんとバランスが戻った。ネットに写真を上げるのも最初はたのしくてたまらなかったが、今はもうただ仕事のためだ、昔みたいに楽しくないけどしかたがない、安泰なことなんて何もない…、ゆき子にしたって、どれほどギギが凄いもの作ってくれたところで、昔みたいな楽しさはもうないよ、ものすごく楽しいのは最初だけ、二度目からはがっかりするしかない…、老婆心ながら忠告だ」
そう言い終えた伊庭が意味ありげに微笑んだとき、佑はもう伊庭の顔など見てはいなかった。伊庭の話も途中からは耳に届かなかった。伊庭なんていてもいなくてもどうでもよかった。見ていたかったのは伊庭の肩越し。身体を曲げて二つ後ろのテーブルをつまらなそうに片付けている、ファミレスの店員にはおよそふさわしくない長身の女。横顔には薄ら笑いが浮かび、鼻が魔女のように尖っている。
佑はテーブルにパンと両手をついて勢いよく立ち上がった。その瞬間、女は片づけを放り出して逃げるようにそそくさと歩き出した。伊庭は半開きの口で佑を見ている。佑は早足で女の動線を追いかける。女はレジの前で向きを変えて死角に入る。佑も少し遅れてレジの前で向きを変える。女の姿はない。数メートル先は入り口のドアだ。佑は短い距離を走った。自動ドアにぶつかりそうになる。体を横にずらせて、開ききっていない自動ドアの隙間をすり抜けた。
店の外に出たが、駐車場にも女の気配がない。駐車中の車のほとんどが見渡せる場所に佑は移動した。エンジンがかかる音も聞こえなければ、赤いカイエンも見えない。佑は天を仰ぎ深呼吸をした、それが何かの合図でもあるかのように、視線を低くした。
白いポルシェの横に茶色のSUVが止まっている。の下で箱のように体を丸めた黒い猫が佑を見ていた。ポルシェは車高が低すぎる、と訳知り顔で訴える。目は口ほどにものを言う。猫は本来目を合わさない。動物が目を合わせたら喧嘩が始まる。社会性の高い猫はそんな野蛮なことはしない。黒い猫はもう飽きたとばかりに目をそらす。そのとき、なまめかしい風が舞った。ゆっくりと、そして突然に景色が動き出す。めくれた壁紙が強力な掃除機の吸引力で壁から暴力的にはぎ取られていくように、目に見えるすべての景色が猛烈な勢いで向こうへ飛んで消えていく。佑の足の下を地面が動き通り過ぎる。佑は振り落とされないようにうわっと声を上げて体を硬くした。景色を失った背景は真っ白にかわる。一匹の黒い猫と自分自身の姿、真っ白な背景。崩れていく日常は佑の心を躍らせる、もう一度楽しいことが始まる。