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もうおしまいだよ

 ゆき子が運んできた鶯色のスタッキングチェアに腰を下ろし、佑はギギの横で黙ってモニターを見ていた。職場の先輩がFXのチャートを何度かスマホで見せてくれたことがあるが、ゲームのような気軽さがあった。今大きなモニターで数種類のチャートと、スマホよりも遥かに早く数字が変わるプライス・パネルを同時に眺めていると、自分の日常より遥かに大きな現実の世界を目にしているような気分になる。でも、しょせん気分だけ。何が起きているのかさっぱりわからないし、ちらちらとギギの横顔を覗いてみるが、真剣なのか目を合わせたくないのか、構ってくれるそぶりもない。わからないながらも、画面を見ていて睡魔に襲われないことが不思議だった。単なる画面の配色のせいなのだろうか…。

二時間ほどたった頃、ゆき子に肩を叩かれた。顔を上げると「どう?」と訊かれた。

「あ、はい」そう言ったものの何を言えばいいのか思いつかない。佑は答えを探すようにもう一度目の前の画面を見る。

「あのさ」ゆき子はそう言ったし、佑の耳にもそう聞こえたが、ゆき子の「あのさ」は「アンサー(答えろ)」と同じ意味で佑に伝わる。何か言わなければ、と焦るほど何も浮かばない。佑は懇願するように画面を見ている。

「こっち向きなさい」ゆき子は突き放すように言った。

「あ、はい」佑はもう一度ゆき子を見た。

「明日の火曜日か、どんなに遅くても水曜日には証券会社からの書類が届く。それを持って水曜日の午前中にもう一度来てよ。電車がある時間でいいわ、もう走ってこなくていい。もし万が一、水曜日の午前中に届かなかったら、コールセンターに電話して確認しなさい。いい?」

「はい」

「ああ、それからもう、一つ大事な仕事があるのわかってる?」

「いえ…」

「命にかかわること、…わかんないかぁ、…水曜日までに仕事辞めなさい、いい?」

「ああ、…はい」

「じゃあ、今日は帰っていいわよ」

 ゆき子の言葉に佑は拍子抜けする。この非日常的で贅沢な空間に少し興味が湧いてきたところだったのに、肩透かしをくらった気分だった。でも、もちろんそんなことは口にできない。

「あ、はい、…あのランシューどこにありますか?」口から出た言葉はそれが精いっぱいだった。



 水曜日、証券会社から送られてきた封のままの書類を手に佑はゆき子の家のドアの前に立っていた。黒い更紗のワンピースを着たゆき子は「いらっしゃい、待ってたわ」と上機嫌に佑を招き入れた。佑がソファに腰を下ろすと、ゆき子は「私たちはもう済ませたから」と言って、フライパンでステーキを焼き始めた。

佑の食事がすむと、ゆき子はすぐに洗い物をすませる。紅茶をいれるとギギを呼び、クッキーの入った缶の蓋を開けると、佑に向けた独演会が幕を開けた。

「相場はギャンブル、いい?…ギャンブルは自分が神になろうとする遊びだ、そう言ったのは作家の色川武弘、別名阿佐田哲也、麻雀放浪記というとても面白い小説を書いた人、あんたギャンブルは?、やる?」

「いえ」佑の答えは相変わらずほとんどが「はい」か「いえ」のどちらかだ。

「真面目ね、でもあんたはどうも自分で頭を使わないみたいね、論語の中には頭を使わないより、博打でもしていた方がいいって言葉もある、本は?、読むの?」

「いえ、あまり」

「じゃあ何してるの?、仕事して走ってスマホ見るだけ…、ああ、ゲーム?、やる?」

「ああ、はい」

「じゃあさ、今まで一番作ってみたいと思ったゲームは何?」ギギが口を挟む。

「え…、ゲームって…作るものですが?」

「おいおい、勘弁してください」

「ちょっと、ギギ、…そういう意地悪なことは言わない、大人げない態度はやめなさい、…いいギギ、あんたみたいに小学生の頃にエロゲームに魅せられて、ただただすごいエロゲーム作りたい一心で、誰からも教わったわけでもなくプログラムのスキルをマスターできた人間は特別なのよ、自分の基準をものを語ってはダメ、今は会話の時間だから…」佑にはゆき子が褒めているのかけなしているのかよくわからないが、ギギの表情が嬉しそうに見える。「完全に脱線したじゃない、ギャンブルに話戻すわよ、で、その阿佐田哲也という人はものすごくギャンブルが強かった、ギャンブルの神様みたいな人、その神様が、ギャンブルは神になろうとする遊びだって言ったの、文脈は知らないけどね…、だから自分なりに解釈する、神になるってどういうことか、それは勝負の行方は自分だけは知っているということよ、つまりね、絶対に勝てる勝負しかするな、ということよ、株や為替がこれから上がるのか下がるのか、どんなに頭のいい人が知恵を振り絞っても当たらない、歴史上おそらく一番有名な経済学者のケインズだって、株と為替で予想がはずれて大損をしている、それだけ頭のいい人が大損よ…、予想っていうのは結局答えを知らない人間がすることよ、ギャンブルっていうのは自分は答えを知っていて、答えを知らないで予想する連中からお金を巻き上げること、それが私の解釈よ、ここまでは理解できるでしょう?」

ゆき子に押されて佑はうなずくしかない。

「私とギギはここでFXを取引している、でも、相場が上がるか下がるか、そんな予想は一切しない、やるのは答えがわかっていて絶対に勝てる勝負だけ、それがアービトラージ、日本語でも裁定取引。気が付いると思うけど同じドル円でも業者によってプライスが微妙に違ったでしょう?、じっと見てると、ほんの一瞬だけど、Aという業者のレートよりBという業者のレートが明らかに高くなることがある。その瞬間にA社の安いレートの買いと、B社の高いレートの売りを同時に実行するの。これはなんのリスクもない、早く気付いたもの勝ち。昔は動体視力と反射神経で勝負してたけど、今はギギが書いてくれたプログラムが10社くらいのレートの画像処理をして一日中お金を稼いでくれる、一回の稼ぎはほんのわずかだけど、私は何もしなくても一日中機械がやってくれるの、わかる?」

「あ、はい」

「次はこれの発展形、レートの更新の頻度や速さが業者によって違うのも気づいてた?、動き出したときに、目で追いかけられないくらい速くレートが更新される業者と、目視できるスピードでレートが変わる業者がある、どう?」

「あ、はい」

「本当に?、まあいいわ…、これは業者のシステムの設計の違い、でね、チャートで見ると一目同然だけど、相場って言うのはなんとなく上下に揺れているだけの時と、グイっと上がったり、ドーンと下がったり、明らかにトレンドがある時に分かれる、このトレンドがある時に、例えばグイっと上がる時には、更新が早い業者のレートが先に上がって、遅い業者は追いかける形になる、つまり遅い業者のレートは最新のレートではなく、少しだけ、数十ミリ秒とか、せいぜい数百ミリ秒、過去のレートよ、この意味わかる?、…遅い業者のレートを叩くということは、過去のレートで今取引ができるということ、その直後に上がるか下がるかの答えを知っている勝負ができる、だからグイと上がってるときであれば、遅い業者のレートの買いと、速い業者の売りを同時に行えば絶対に負けない、もちろんこれもギギの書いたプログラムがすべてやってくれる、…だけどね、これには一つ問題があるの、業者は私たち客の取引を業者の取引先銀行からカバーする必要がある、客が買ったら業者は銀行から同じ金額を買うの、その差が業者の儲けになる、だけど遅い業者が客の買いのカバーに動くときは、もうレートは上がっちゃってるの、だから遅い業者は損をする、つまりね、遅い業者が常にカモになるの、こういう業者はどうするかというと、もちろん正攻法はシステムのアップグレードだけど、同時にこういう取引をする客の口座を凍結して二度と口座ができないようにする、だからあまり目立つようにやってはいけないのよ、ギギはそのあたりもちゃんと計算してくれる天才なの、すごい人でしょう?」

「はい…」

「で、あんたを金曜日に稼がせてあげるって言った理由は、その日午後9時半にアメリカの雇用統計が発表される、経済指標って毎日のように何かしらの発表があるけど、一番影響力が大きいのがこのアメリカの雇用統計、…すごく大雑把に言ってしまうと、こういう重要な経済指標ではエコノミストと呼ばれる人たちの予想が前もって発表される、当日は実際の数字がその予想より強いか弱いかで市場が反応する、例えばアメリカの雇用統計が市場の予想より強い数字ならドル買い、弱い数字ならドル売りになる、しかもねえ、雇用統計の瞬間は激しく動くのよ、最近はそれほどでもなくなったけど、以前は強い数字が出てあっという間にドル円が1円くらい上がったりとかね、だから、雇用統計が発表される直前に売りと買いの両方を仕掛けておいて、指標発表の瞬間に動いた方を追いかけるの、その時にレートの遅い業者のプライスを叩けたら最高、一瞬にして勝負がつく、これを指標スキャルピング、通称指標スキャって言うわ、ただ動くのがものすごく速い、発表と同時にレートがすっ飛んでる、クリックなんかとても追いつかない、…でもね、世の中には便利なものがあるのよ、指標スキャの自動売買ソフトが海外で売られてた。私や伊庭ちゃんはそれですごく稼がせてもらった。でもそれはもうご法度なの。その取引の儲けはそのまま業者の損になるから、口座凍結されちゃうのよ。…昔はザルみたいなシステムの業者が結構いて、システムの隙をいくらでもつけた、でも今はほとんどの業者でシステムの隙がなくなった、でもギギはちゃんと見つけてくる。そのソフトよりもっとすごいプログラムを書いて、目立たないように稼いでる。だから金曜日も大丈夫、あんたは自分の口座を用意するだけ、後は何もしなくていい、資金は私が用意するし、取引はギギのアルゴリズムがやってれる、あんたはそのお金で学校行くか資格取るか考えなさい、誰かを殺す前にね…、雇用統計は金曜日の夜9時半だから、次は…月曜日の朝の9時にいらっしゃい、その時にはすべてが終わってる」

「いいんですか?」

「不満?」

「いえ…」

「でしょうね、絶対に遅れないでよ、今日は喋り過ぎたわね、時々こうやって口に出して頭の中を整理するの、全部独り言だから忘れていいわ、とにかくあんたは首を突っ込まずおとなしくしていればそれでいいの」

佑にはそう言った時のゆき子の表情が今までと変わっていたように見えた、脅しているというよりも、くさくさした感じに。



月曜日の朝、佑を出迎えたのはギギだった。内心期待していた朝食の用意もなく、モニターの並ぶ部屋に入ってもゆき子の姿はなかった。ギギに訊くと「音楽鑑賞の時間だよ」と寝室のドアを指さした。

「何も聞こえないけど…」佑はポツリと言った。

「この部屋、防音。大音量で昔の映画音楽かけてる」

ギギはちょうど一週間前に自分が座っていた椅子に佑を座らせると、口を開いた。「一時間くらい好きにPCいじっていいよ、その間スマホを預からせてほしい、預かるだけ、何もしないから」

佑は黙ってギギにスマホを渡し、二人で黙ってそれぞれ画面を見ながら時間を過ごした。

約束の一時間を過ぎた頃に、ギギがスマホを持って佑に近づいて言った。「銀行の口座確認してよ、いくら入ってる?」

佑は銀行のアプリを開いて残高照会をした。見たことのない8桁の金額が表示されている。

「え?」佑は自分の顔の筋肉が動くのがわかった。

「早合点するなよ」ギギはバカにするように言う。「ほとんどはゆき子さんが準備した元手、キミの稼ぎは120万。あと税金が20%かかるから、その分は残して来年ちゃんと確定申告してよね。で、その120万を残して全額今から言う口座に振り込んで」

 初対面の時に「お前」呼ばわりをされたギギから「キミ」と呼ばれるのは気持ちの悪い感じがしたが、佑は言われた通りにした。そういえば、今日は会話を記録しようとしない。口座の名義人はホウライユキコだった。

「これで全部完了、満足?」

「毎回こんなに儲けてるんですか?」

「こんなに?、そんな相対的な質問をされても答え方がわからない、…まあ、とにかくキミはFXで稼ごうなんて気は起こさない方がいい」

「はい、やるならアービトラージですよね」

佑の言葉にギギは笑った。微笑むのとは違う、呆れてて、吐き捨てるような笑い方だった。ギギはPCをいじった。すぐに佑のスマホがメールを着信した。

「情報処理とかプログラミングのスキル学べそうなスクールのリスト、送っておいたよ」

 佑はメールを開いた。ずらずらとリンクがたくさんついている。一番下までスクロールするだけでも間が持たないくらいの時間がかかった。

「ありがとうございます、…すごい、こんなにたくさん…、何がいちばんおすすめかきいてもいいですか?」佑は興奮していた。もちろん原因はメールの内容ではなくお金の方だ。

「あのさあ、…これ全部おすすめのつもりなんだよ、あとは関心だよ、興味、キミが興味持てるかどうかだよ、すすめられても興味が持てないことは続かない、そういうこと、いいかげんわかろうよ」

 それがギギからの最後の言葉だった。佑は玄関を出る前に「お世話になりました」と頭を下げたが、ギギは子守の時間は終わったとばかりに、軽くうなずいてドアを閉めた。

 

今朝ここに来るまでの時間はそれでもワクワクしていたのだろう。一、二時間前と同じ色をしているはずの雨曇りの空の色は、朝の10時に終わってしまったような一日を灰色に塗り潰しているようだった。

佑は試しにギギのくれたリンクを一つ開いた。「パイソン・プログラミング・スクール6か月コース」という文字が目に入る。お礼くらい言っておこうと、ギギのメールに短い返信をした。すぐに着信が来る。驚いてスマホのメールを開くと、エラーが戻ってきていた。ギギはこのメールアドレスを既に削除していた。蓬莱ゆき子はアドレスも電話番号も教えてくれなかった。わかっているのは誰にもいうなとゆき子に言われたこの場所だけ。


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