お金の稼ぎ方
翌朝、佑は4時のアラームで目を覚ました。すぐに活動できるようにランニングウェアで寝たので着替える必要はない。水を一杯飲み、顔を洗い歯を磨いて、着替えの入ったトレラン・ザックを背負って、両親が起きる前に家を出た。夏至まで三週間、すでに外は明るいが静かすぎて現実感がない。半分眠ったまま走り出した。
昨日帰り際に振り返ったときにも感じたが、ゆき子のマンションはそれほど高級な物件には見えない。両側の歩道が狭く交通量の多い幹線道路に面していて、ここに高層の建物があることに気づいているのは住人くらいではないか。行き交う人のほとんどは何も気に留めずに通り過ぎてしまいそうだし、お金に余裕があるならあえてこの立地に住みたいと思うのだろうか。
マンションのエントランスに入り、部屋の番号を呼び出す。返事はないが、ロックが外れてドアが開く。
部屋の前でインターホンのボタンを押すと、「入って」と声がする。ドアを開けるとゆき子が右手に水の入った500㎖のペットボトルのぶら下げ、手を腰に当てて背筋を伸ばして立っていた。上はグレーのスウェットパーカー、下は3本線のグレーのジャージ。昨日のような濃い化粧をしていないが、受ける印象はあまりかわらない。微笑は生母にも悪魔にも見える。ゆき子が履いているものとは別にペイズリーのスリッパが二足出してあった。
「閉めて」
「あ、はい」
「おはよう、何キロ走ったの?」
「おはようございます、7キロです」
「7キロねえ…、ちょうどいい具合に…中途半端ね、走り足りないでしょう?」
「ああ、はい」
「水飲んだらシャワー浴びなさい、ランシューはバルコニーに出して置くわ、玄関臭うのイヤだから…、それから昨日の約束覚えてるわよね?」
「はい」
「言ってごらんなさい」
「この場所のことは誰にも言わない、ここで見たことも誰にも言わない」
「はい、合格、じゃあ今から3つ目言うわよ、あんたは昨日の深夜伊庭に送られてここに来た。そのままずっとここにいる。で、今からシャワーを浴びる、設定はこれよ、いい?」
「あ、はい」
「で、本当はあんた昨日のいつ来たかしら?」
「お昼過ぎ…」
「あんたバカ?、晒されたい?、深夜って教えたでしょう?」
「すみません」
「気を抜くんじゃないわよ、本当に、大事なのはここからよ、いい?、あんたがここにきてからシャワー浴びるまでの間何していたのかに訊かれたら、何もしてないって答えること、これが3つ目の約束、できるわね?」
「はい」
「寝てたとか、身の上話してたとか、嘘を考えなくていいから、そういう苦手でしょう?、とにかく何もしてないって言えばいいの」
ゆき子がトイレの隣のドアを開ける。中は洗面台とバスルーム。佑は二人同時に使える広い洗面台の鏡の前でペットボトルの水を少し飲んだ。リュックから着替えを引っ張り出して、汗をかいたランニングウェアをさっと脱ぎ、スーパーのビニール袋にいれてリュックに突っ込んだ、バスルームにも巨大な鏡があり、見たこともないような茶色の容器にはいったアメニティがズラリと並んでいた。シャンプーもボディーソープもポンプを教えての上に載せただけで気持ちがよく、柑橘系の匂いが汗をかいた体に心地よく感じた。汗を流してバスルームを出ると、足の裏がふかふかのマットの上で歓んでいた。使っていいとゆき子に言われたピンクのバスタオルは、いつも家で使っているバスタオルの2倍の厚さがあり、くるまれていると幸せな気分になる。指示された通りにバスルームにかけて、浴室乾燥のボタンを押した。
バスルームを出ると、寝室と90度に角度に配置されたドアが少しだけ開いている。佑がドアを手前に引くと、白いリビングだった。
「広い方に座って」ゆきこは入ってすぐ右手にあるカウンターキッチンの冷蔵庫の横に立っていた。
リビングの真ん中には、大きなひじ掛けのある三人掛けの真っ赤なソファがカウンターキッチンと垂直の方向に置かれていた。左手の奥には同じ素材の一人掛けのソファがキッチンの方を向いて配置され、二脚のソファの前には透明な白いテーブルが置かれていた。ソファに腰を下ろすと佑の体が沈み、自然と両足が持ち上がる。緊張感を保たないと眠ってしまいそうだ。
「朝は粗食」そう言って、ゆき子は丸い黒いトレーを佑の前のテーブルの上に置いた。ヨーグルトの入った黒いボウルと、それぞれにドライフルーツとナッツの入った赤い蓋のついた口の広い瓶が載せられている。ありがとうございますと言うべきか、いただきますと言うべきか、一瞬悩んだそのすきにゆき子が言葉を継いだ。
「コーヒーに砂糖とミルクは?」
「いえ」そう返事をした時に両方言えばいいのだと気づいた。間の悪さを補おうと少し大げさに言ってみたが、妙にしらじらしく響いた。
「これは好きなだけ取って」ゆき子は両手に透明のボウルを持っていた。片方はサラダ、レタスと色鮮やかなパブリカに、チーズとカリカリに焼いたベーコンがトッピングされている。もう一つはフルーツ、一口大にカットしたスイカ、パイナップル、キウイが山盛りになっていた。ゆき子はテーブルの真ん中に置いた。エスプレッソの機械のガーっという音とともに、コーヒーのいい匂いが漂ってくる。
「どうぞ召し上がれ」そう言ってゆき子は佑の前に白いコーヒーカップを置いた。
コーヒーを口にしていると玄関の鍵を開ける音が聞こえた。佑は飲みかけのカップをソーサーに戻した。「おはようございま~す」と眠そうな男の声が聞こえる。「ああ、今週はしっかり儲けたいですね…」そう言いながら足音が近づいてくる。佑と視線があったとたん男がフリーズする。年齢は二十代半ばか、髪の毛が少し茶色で、黒ぶちの眼鏡。猫の顔が描かれた薄い紫のTシャツの上に、フロントジップのライトブルーのパーカーの上半身、下はピンクのクロップドパンツ。身長には特色がないが、ランナーには絶対にいない丸っこい体形。パステルカラーに塗り分けられたオタクにしか見えないが強烈な自己主張はリュックだ。黒地にピンクや紫や黄色の極彩色のドット模様がハーネスにまでついている。
「おはよう、ご苦労様、…ああ、この子?、夜遅く伊庭ちゃんが連れてきたのよ、思い詰めてしまった憐れな介護士よ、かつての自分を見てるようだから助けてあげてくれって」
「マジですか」オタクは棒読みの台詞を返す。
「伊庭ちゃんも親切よね、時には」
「そうは思いませんが…」
「今朝のギギ怖いわ、別人よ、ねえ」ゆき子は佑の顔を見て言う。「あんたがギギの機嫌を損ねたみたいね、挨拶くらいしなさいよ」
「藤田佑です、よろしくお願いします」
オタクはなんの反応も示さない。
「もう、ギギ、大人げない、自分の名前も言えないなんて」ゆき子はギギに諭すように言うと、また佑を見た。「こちらはね、葛城凪人、なまえに「ぎ」が二つ入ってるから、通称ギギよ、」それだけ言うとまたギギの方を向いた。「…ねえ、ギギ、ちょっとお願いがあるのよ」
「ボクがですか?」
「いいじゃない、どうせ金曜までの付き合いだから、それにこの子さっき口座開設の申し込みしたばかりだから、まだ何もできないのよ」
「そんなレベルですか?、…何で?、伊庭さん?、よりによってこんなやる気のない奴?、どうしろって…?」
「金曜日まで考えてほしいのはこの子の進むべき方向よ、とにかく金曜日にお金を稼がせてあげて、介護士なんかより役に立ちそうなプログラミングの勉強でも始めたらどう?、…ねえ、ギギ、あなただったら適性とかわかるじゃない?、人殺しになる前に何とかしてあげてよ」
「えっ!、人殺し?」
「大丈夫、未遂だから」
「殺人…未遂?」
「程度があるでしょう?、まだ引き返せる人だからどうにかしてあげてよ」
「ゆき子さん?」ギギは思い詰めたように言う。
「なあに?」
「こいつと二人で話してもいいですか?」
「どうぞ」ユキ子はぞにアクセントをつけて言う。「仲良くね、…でもね、ギギ、そんなに苛々しないでよ、まとまる話もまとまらないでしょう?、コーヒーの一杯くらい飲んでよ」
「わかりました」うなづいたそばからギギは唇をとがらせてタスクを睨みつける。そしてすぐに目をそらしキッチンに歩いて行った。エスプレッソの機械がまた音を立てる。
「おい」エスプレッソを一気に飲み干したギギは、おたくにしか見えない外見とは裏腹に唇を尖らせて攻撃的な声を出す。タスクを指さし、その指をそのまま閉じたドアに向けて、そして指を三度振った。あの部屋に行けといくつもりのなのだろう。そしてもう一度指を佑に向け、立ち上がるように指示をした。佑が腰を上げるとギギが先に歩き出し、部屋のドアを開ける。佑が後に続いた。「閉めて」ギギが言う。佑が言う通りにすると部屋は真っ暗になる。ギギが電気をつけた。部屋の両側に昨夜寝室で見たような真っ白なテーブルが壁に沿って奥まで延び、それぞれ上下二段に積みあがったパソコンのモニターが横に三列、その左側にその4倍の大きさのあるモニターが二台並んで載せてある。部屋の中にパソコンのモニターが16台。ギギはブラインドの降りた部屋の奥から指で手招きする。
「お前何者だよ?」
初対面だがギギの機嫌が悪いことは明らかだ。これがデフォルトということはないだろう。佑はゆき子との約束を思い出した。これは答えていい質問だ。
「介護士です」
「何で介護士がここにいる?」
「伊庭さんに助けてもらいました」佑が答えると同時にパソコンのキーをたたく音が聞こえることに佑が気がついた。
「どういう関係だ?」ギギの質問にもキーを叩く音が被る。ギギは佑との会話をすべてパソコンに記録しているらしい。
「昨日初めて会いました」
「知り合いじゃないのか?」
「昨日からです」
ギギは次の言葉を探しているがなかなか出てこない。辛そうな表情をして、やっと口を開く。「人を殺しって本当か?」
嘘はよくないな、答える前に佑はその言葉を思い出す。
「殺したいって思っただけです、手を出す前に自分が逃げ出しました」
「なんだ、そういうことか」ギギは少しだけほっとしたように笑う。佑は見てはいけないような表情を見た気がして視線をそらす。
「いつからここにいる?」ギギはすぐに不機嫌な声に戻る。
「昨日の夜、伊庭さんに送ってもらいました」佑は三つ目の約束をもう一度頭の中で繰り返し、注意深く答える。
「今シャワー浴びたばかり?」
「はい」
「じゃあ一晩ここにいたってこと?」
「はい」
「その間、何してた?」
「何も」
「それ答えになってないだろう?、何もしてないって何だ?、寝てたのか、起きてたのか?」
佑はゆき子のドスの利いた声を思い出す。(わかってるわよね?)
「だから、…何もしてません」
「ねえ、ギギ」締め切ったドアの向こうからゆきこが高い声を出した。ギギは佑を睨みながら歩き出す。佑は身をかわした。
「はあい」ギギはドアを開けて顔をだす。
「話し終わったら、その子にしばらく画面見せてあげてよ」ゆき子は声のトーンを落として言った。
「こいつに見せてもしかたないですよ」
「教えろって言ってるわけじゃないわよ、黙って見ててもらえばいい、ちょっとは将来のこと考えてあげないとねえ、…とにかく、ギギだって殺しの関係者にはなりたくないでしょう?」
ギギの背中がぴくっと動く。それが佑には見えた。ドアを閉めて振り向いたギギは佑の顔を見ようとしない。佑はギギを凝視した。ギギの頬の筋肉がわかりやすくひきつっている。佑は軽い優越感を感じた。でも、それもつかぬ間だった。
「待ってて」と言ってデスクに座ったギギは手元も見ずにカチャカチャとキーボードをたたき次々と画面を立ち上げていく。まるで別の次元の人間かのように。