男と女
ウインカーを出すと同時にカイエンは右斜め前に発信した。後ろから来た車がクラクションをならす。
「バーカ」ゆき子は吐き捨てる。佑は黙っていた。
「伊庭ちゃんからこんなこと頼まれるとは思わなかったわ、よほどあんたのことが気になったんでしょう…、話はだいたい聞いたわ」ゆき子はハンズフリーで他の誰かと電話をしているような口調で喋る。佑がおそるおそる右を向くと左手の腕時計が目に入る。宝石がちりばめられたようにキラキラと輝いている。いかにも高そうなチャラチャラした腕時計を見せびらかす患者の家族、時々見かけるそんな光景に佑は何も感じるものはないつもりでいたが、ゆき子の腕時計の輝きは次元が違う気がする。視線をわずかにずらして横顔を見ると子供の頃絵本でみた魔女のような鼻をしている。
「あ、はい」佑は自分の言葉を耳にして決まり悪さを感じた。返事のタイミングが遅かったかもしれない。
「あんたみたいに人の言うことを黙って聞ける人はね、出会いが大切ってことよ、しっかりした考えを持った誰かに出会えば人を殺したいなどと思わずに生きていける、一生くいっぱぐれのない仕事とか、そんなありもしないことを本気で信じてる人間の言うことなんか聞くもんじゃないわ」ゆき子は別に気にしている様子もない。
「はい」佑はわかったように相槌を打ったが、今のゆき子の言葉が自分の両親に対する非難だと気が付くまでに、カイエンは青信号を3つ超えた。
「何をすればいいのでしょうか…?」洗脳でもされるのではないかと不安になり、佑は自分から質問をした。
「声震えてるわ、ビビってるの?」
「い、いえ…」
「そうね、強いて言うなら…絶対に勝つ勝負をするのよ、今日じゃないけどね…、ビビるどころか、つまらないほどあっけないわ…」
「ボクがやるんですか?」
「当たり前でしょう、自分でやらなくてどうするのよ」ゆき子は一喝する。
「あ、はい」
「と言いたいところだけど…」ゆき子の声が芝居がかる。「あんたがやることは簡単な事務手続きだけよ、それくらいできるわよね?」
「あ、はい」
「それさえできれば勝負には勝たせてあげる、勝てばあんたはお金を手にする、そのお金で何をするかは自分で考えなさい、以上」
「どんな勝負ですか?」
「いま、以上って言ったの聞こえなかった?、いつ、どうやって、どこまで説明するのが一番いいかは、もっとあんたのことを知ってから決めるわ、…いまから私の家に行く、五日後の金曜日の夜にあんたは勝負に勝つ、それまで黙って私の言うことを聞きなさい、おうちには返すから、いい?」
「はい」佑は要領を得ないままうなずくしかない。
「もし、私の家でおかしなことしたら伊庭ちゃんに迷惑がかかるわ、いい?、あの人怒ったらどうなるかしらね?」そう言い終わるか終わらないうちに、ゆき子は大音量で音楽をかけた。ゆき子の時計のブランドはわからなかったが、流れているのがずっと昔のオーケストラをバックにした映画音楽だというのは佑にもわかった。佑は横目でゆき子を見た。まっすぐ正面を向いて、曲に合わせて楽しそうに口を動かしているように見えるが。「あんたはここにいないわ」と佑に聞こえない声で話しているようにも見える。今自分が車から飛び降りても、この女は気にもとめないかもしれない、…佑はそんなことを考えた。
国道1号線の浅間台までの景色には見覚えはあったが、途中からまったく知らない道に入った。どんなすごいマンションに連れて行かれるのだろう、佑は少し期待をしたが外観を見る前に車はマンションの地下にある駐車場に滑り込んだ。
「後ろの荷物、持ってくれない?」エンジンを止めると同時にゆき子が言った。
「わかりました」佑は答える。カイエンの荷台には、高島屋の大きな紙袋が三つ並んでいた。中身はどうやらすべて食べ物らしい。1階のエントランスから建物に入り直し、オートロックの出入り口を通りエレベーターに乗ると、ゆき子は最上階の7階のボタンを押した。
エレベーターの中でゆき子はサングラスを外した。想像していたよりもずっと大きな目が口角と同じ角度で吊り上がっている。かわいいかかわいくないか、美人かブスか、佑の持っている美醜の物差しでは判断がつかないが、派手な顔立ちだということだけはわかる。年齢もまったくわからない。喋り方や伊庭の態度から自分よりかなり年上と勝手に思い込んでいた。自分より若いと言われたらとりあえずは驚くだろう。でも、たいていのことは二度目からは何とも思わなくなる、自分にも仕事の流儀があったことに佑は今気がついた。
ゆき子はドアを開けた。室内は真っ白。玄関には段差がなく、ペイズリーの柄の高級そうなスリッパが二足置いてある。廊下が無駄に広く、つきあたりの壁の前には、アイボリーのコンソールが置かれ、その上に黄色のベースに白と青で花の絵が描かれた華やかな花瓶の口からは真っ赤は花があふれるばかりに咲き誇っている。その左斜め上の壁には着物を着た女が未来都市に立っている漫画のような絵が飾られている。ゆき子に似ている。自分をモデルにして画家に描いてもらったのだろうか?、そんなことを想像しながらも佑には訊けない。
「それ、冷蔵庫の前に置いてくれればいいわ」ゆき子は顎で紙袋を示すように言う。佑は言われた通り、シルバーの自分の家族が使っているよりもずっとデカい冷蔵庫の前に、膝を曲げて丁寧に紙袋を並べた。
「これからすぐに作業に入るわ、トイレ行くなら先に済ませて」
「じゃあ、お借りします」
「あっちよ」
廊下の左側にはドアが二枚あり、手前がトイレだった。ドアを手前に開けるとすぐに大きな鏡が目に入る。左側に便器があり、前後の壁には背景のない女の絵がかけられている。先ほど目に入った絵と同じ画風だが、こちらの二人は明らかにゆき子よりもかわいく見える。大きな絵も買ったものなのだろうか…、そう思いながら佑は用をすますと、トイレから出た。
「こっち来てよ」黄色い花瓶の右側にドアが半分開いていて、中からゆき子の声がする。佑は中に入った。ゆき子はオットマンのついた黒い皮の椅子を横に向けて顔だけこちらを向けている。これだけ皮の量が多い椅子を佑は初めて見た。奥の机の上にはパソコンのモニターが二台、左側にはキングサイズのベッドが置いてあった。ベッドのこちら側には金属製の柵みたいなものがつけられていた。
「ベッドの手前に座って」
佑は素直に床に座った。
「そう、それで両手広げて後ろの金属の棒みたいの持てる?」
佑は言われた通りにした。顔を上げると天井には淡い藍色のアラベスクが一面に描かれている。
ゆき子は猫のようにはベッドの上に乗った。乗ったと思ったら突然何かが両方の手首をつかんだ。ビックリして金属を掴んだ手を放したが、手首が自由にならない。佑の両方の手首は手錠でベッドの柵に括りつけられた。
ゆき子はベッドから降りて左側からタスクを見下ろした。そしてすぐに膝を曲げ、佑の目の高さに視線を合わせ微笑んで行った。
「ジーンズ脱がすわよ、…なによ、勃ってないじゃない、失礼ね、汚い、おしっこの染みついてるわよ」
佑は恥ずかしいのか嬉しいのかわからない気持ちになる。
「AVでも見てなさいよ」
ゆき子はVRの機械を佑の頭にガバっと被せた。動画がすぐに始まった。佑の耳元でAV女優がねっとりと囁き、服を脱ぐ、胸とおしりが丸見えの下着の意味をなさない青い下着姿なりなり。AV女優は男のペニスを咥え始めるが、まるで自分のものをおしゃぶりされているようなアングル。佑はとっくに勃起している。現実の女の手が佑のトランクスを少しだけずらすと勃起したペニスが窮屈な場所から解放される。目の前の女優はしゃぶり続けるが、現実の女の手はじらすかのように何もしない。佑の腰は催促するかのように動き始める。どうにでもしてほしいという気分が盛り上がったところで、VRの機械は取り上げられた。佑のすぐそばに女の脚があった。見上げると女はスマホをかざして満足そうに笑っている。
「お楽しみはおしまいよ」女はそう言って歩き出す。デスクの前に戻りスマホとPCをいじっている。慣れた手つきで作業をすますと、女は佑の方へ椅子を回した。スマホを持った右手の肘から上をゆらゆらと揺らせている。
「今クラウドに保存したから、これ奪っても無駄よ」女は満足そうな表情から、最初に会ったときの見下すような微笑に戻っていた。「3つ約束をして。守らなかったら今の恥ずかしい動画晒すわ。いい?」
「あ、はい」
「一つ目、この場所のことは誰にも言わない、もちろん私のこともね。二つ目、この場所で見たことも誰にも言わない。ここまでいい?」
「はい」
「三つ目は、…今言って忘れられても困るから、明日の朝教えてあげる、ランナーなんでしょう?、明日の5時に家からここまで着替え背負って走ってきて、わけないでしょう?」
「何キロくらいですか?」
「そんなの自分で調べなさいよ、20キロでも30キロでも構わないでしょう?、帰るときにここの部屋番号と場所記録しておかないと、動画の録られ損だからね、私は構わないけど、あんた困るわよね?」
「はい」
「もし、ちゃんと現れないと、まだ言ってない三つめの約束を破ることになるかもしれないわ、そうなったらどうなるかわかってるわね?」
「はい」
「じゃあ、約束の話はここまで、免許証と銀行のカード持ってる?」
「はい」
「マイナンバーカードは?」
「あります」
「完璧じゃない、ちょっと借りるわよ、あんたにやらせるより私がやった方が早そうだから、…何そんな憐れな顔してるのよ、証券会社の口座申し込むだけよ、銀行のカードは出金口座の登録に必要なだけ、火曜日くらいにはあんたの家に書類が届くはず、自分の口座で稼ぐのよ、わかった」
「あ、はい」佑は少しだけ要領を得た気がする。
「この銀行、ネットで振り込みできる?」
「はい」
「今ここでやれって言われたらできる?」
「え?」
「どっち?」
「あ、はい」
「よろしい、やれって言ってるわけじゃない、できるかできないかを聞いただけよ、これでもう何も問題ないわ…、それから、この家では出さないでよ、処理したかった家に帰って一人でやってよ」