男が男の世話を焼くとき
根岸旭台のY字型の交差点を左に折れると、道幅が一段狭くなり下り坂に入る。ドルフィンの前を過ぎれば、道路は左へカーブして見通しが悪くなる。いったん曲がりきったところが不動坂の交差点。黒のAMGが赤信号で止まった。湿度も雲もない梅雨入り前の日曜日の朝、運転席の窓が全開している。この先、道路はさらに急な角度で左に曲がる。見通しはさらに悪くなる。信号が青に変わり、AMGは行儀よく走り出す。最後まで曲がりきれば下り坂、やっと道路の先が見えるようになる。20メートルほど先の左車線のど真ん中に、白衣の上下を着た男の後ろ姿があった。サンダル履きでゆっくりと坂道を下っている。AMGの男は「邪魔」と言いたげに舌打ちをしたが、白衣の方は道を譲る気配がない。男はクラクションを鳴らした。白衣の男は歩道によける代わりにその場で立ち止まった、慌てて踏んだブレーキの音が響いた。白衣の男は面倒くさそうに体を後ろに向けた。綺麗な顔をした若い男。そして突然ビックリしたように両目を開き、すっ飛ぶように狭い歩道によけた。AMGの左側を自転車が降りてきたら間違いなく轢かれていただろう。そう思うと、事故を起こさなかっただけで幸運だった気がしてくる。AMGの男は続けて思いだす。自分は猫さえ轢いたことがない。人なんて轢いてたまるか。男はほとんど口から出かかっていた「死にたいのか?」という言葉を飲み込むと、深呼吸をして車を出した。アクセルをもう少し踏もうかと思ったとき、ふと白衣が気になった。下り坂のせいでバックミラーに映らない。角度を調節すると、ミラーの中の白衣の男は相変わらずとぼとぼと左車線の真ん中を歩いている。男はAMGを路肩に停めた、白衣の男はなかなか距離をつめてくれないが、この坂を上ったらきっと自分は息が切れる。男は車を降りて見守ることにした。
「大丈夫かよ?」白衣の男が近づくと、男は2メートルほど坂道を上った。
「ああ、はい」白衣の男の高い声には力がなく、声となるはずの塊のあちこちに穴が開いて、漏れ出す空気の音にプツプツ消されているかのように聞こえた。胸には介護施設の名前の刺繍がある。
「介護士さん?」その質問に白衣の男はだまってうなずいた。
車の男は両手で白衣の男の右手を握りしめて言った。「大丈夫じゃないよなあ?、…何かあったんだろう?、オレも元介護士だよ、…話してくれないか?」
介護士の男は握られた右手に左手を重ね、車の男と合わせて四つの手を自分の額に持っていった、そしてきつく目を閉じて、はあと息を吐き出し、「このままでもいいですか?」と相変わらず力のない声を出した。
「もちろん」男は優しい声を出した。
「逃げました…」介護士の高い声は相変わらず空気がダダ洩れしている。
「うん…」
「殺したくなって…」
「そうか、…辛かったなあ」AMGの男は動じない。
「はい」
「それで、やっちゃったのか?」
「いえ…」
「じゃあ、仕事を放り出して逃げただけか?」
「はい」
「大丈夫、それなら心配しなくていい、…それで、いつ逃げた?」
「昨日、お昼前…」
「昨日かあ、それはすごい!、どこで寝たんだ?」男はのけぞって思わず両手を離した。介護士は首を横に振る。
「寝てないないのか?」
介護士は頷く。
「食ってもいない?」
介護士は、もう一度頷く。
「じゃあ飯食いながら話そうか、その辺でいいよな?、まあ乗ってくれ」
介護士は生まれて初めてベンツに乗った、それもAMG。ハンドルを握る男は黙ってアクセルを踏んだ。とぼとぼ歩いていた先ほどまでとはまったく違うスピード感で景色が動き出す。介護士は枯れかけていた自分の体に水分が注がれた気がした、その水分の一部が目もとを濡らしているに気が付いた。気がついたら最後、涙は目から溢れだし、ワンワンと子犬のような鳴き声を上げていた。
遠慮のせいか、介護士はファミレスでメニューを選べなかった。車の男は一番ボリュームのありそうなステーキのセットを介護士のために頼んだ。自分は飲み物だけで済ませた。
「食いっぱぐれの心配がないから介護士になった?」介護士が食べ終わるのを確認すると、車の男が口を開いた。
「はい、まさにそうです」食欲が満たされると、若い介護士の声に生気が戻った。
「この先消える仕事ではないけど、長く続けられる仕事じゃないってわかっただろう?」
「そういうことですね…」
「それなのに、誰もそう教えてくれなかった、…だろう?」
「はい」
「オレは早くに逃げ出した、キミは真面目だからおかしくなるまで頑張って働いた、違うか?」
介護士は黙ってうなずいた。
「ゆっくりと、少しずつだ」男はもったいをつけるように言う。「何かが間違ってるって、日に日に思うようになる、それでも自分を欺いて、心の声に耳を塞いで仕事を続けた、そしてある日突然事件が起こる、昨日まで我慢できたことがもう以上我慢できなくなる、患者を殺したいって思ったことはオレもあるよ、でも普通はそこまでは行かない、いろいろとブレーキがかかって暴力とか虐待どまり、…虐待はオレがいた職場でも日常茶飯事だったよ、…だからそんなこの世の終わりみたいな顔するなよ、…介護士は選んだのか、それとも親の勧めか?」
「最後に決めたのは自分ですけど、たぶん親に勧められたのが大きかったと思います…」
「出身は?」
「ずっと横浜です」
「じゃあ、実家?」
「はい」
「ご両親はご健在?」
「はい」
「70にはなってない?」
「まだです」介護士は一瞬変な質問だと思ったが、そのまま答えた。
「ほう、そうかあ…、兄弟は?」
「兄と姉が一人ずつ」
「ほお、三人兄弟か?、二人とも一緒に住んでる?」
「いえ、でも横浜市内です」
「ほお、そうかあ、じゃあすぐ会えるんだ…」
「あのぉ」
「何?」
「患者さんじゃないですよ、殺したいと思ったのは」
「じゃあ誰?、患者の家族?」
介護士は頷き、言葉を継いだ。
「マラソンっていう言葉がトリガーになったんです」
「マラソン?」
「昨日、患者の娘夫婦が面会に来ました、旦那の方が、明日マラソンの大会があるから今日は早く帰りたいのに、予定が狂うって、オレの顔見ながら言ったんです」介護士は少し間を空けて、浴びせられた言葉を浴びせられたとおりの口調で口にした。「まったくふざけるな!」その一言で堰が、切れたように、言葉が溢れ出てくる。「おとといオレは夜勤でした。夜勤の仕事は入所者70人のおむつを全部取り換えること。あの時間は、一生懸命仕事をしているふりをしながら、とにかく何も見ないようにしています。頭の中で全然違うことを考えながら、目の前で起きていることをとにかく記憶に残さない。どうやって目の前のことから意識をそらそうか、夜勤の前はそればかり考えてしまう。昨日の午前中、一人の患者の家族が夫婦で来ました。ところがその直前に、その患者、排便がうまくできず、自分のお尻の穴に指を突っ込んで、少しずつ便を掻き出して、枕やシーツにベタベタとくっつけ、最後は髪の毛や顔や手足がクソまみれ…」
「地獄だな…、それ」
「ええ、地獄ですよ、あれは…、夜勤が終わってあと少しで帰れると思ってたのに、…人が足りないから、オレが全部後始末をして、部屋に戻ったら娘夫婦が待っていた。事情を説明しても礼も言わない。『こういうことする人、お父さんだけじゃないでしょう、他にもいるでしょう、なんとかする方法あるでしょう』なんてぬかしやがる、そのあと旦那の方が言った。『予定がずれた、今日は早寝しないと明日の大会が完走できない』。その言葉で、ブチ切れました。オレもマラソンやります。フルはまだ二回しか走ってないけど初フルで3時間半切れました。徹夜明けでフル走れって言われれば走れますよ。なのに、あいつ…、しかも今はフルマラソンの季節じゃない、ハーフとか短い距離の大会ですよ、前日体調を整えるとか、そんなのいらないでしょう。そのくせ、自分の義理の親父の下の世話を全部押し付け、礼を言う代わりに文句を言い、昼前から寝る時間の心配をしてる、あの患者も家族が来てから始めてくれればよかった、そうすればあいつらだって手伝わないわけにはいかなかったのに、おまえの親がどんなに汚いか見せてやれたのに、二人とも殺してやろうと思った」
「それで…」
「想像しちゃったんです…、一人はベッドの上、一人は床の上に血を流して倒れている、自分は血の付いた刃物を握りしめ、返り血を浴びて突っ立っている。自分の周りを両親と職場の人がぐるりと囲んで、みんな恐怖にひきつったように口を震わせている。これからこうなるのかと思った恐ろしくて、ワーッと声をあげて逃げ出した。息子のことは突き飛ばしたかもしれません、たぶん…」
「たぶん?」
「はい、…殴ってはいないと思います」
「それからずっと外に?」
「はい、…このまま続けたら人を殺しちゃう、人殺しになったら両親や職場に迷惑がかかる、死んだ方がいい…、どこにも帰れなくなりました…」
「そんなのたいしたことじゃないよ、思い詰めるな」男は明るく言い放つ。「まあ、あれだな、何はともあれ、そのくらいですんでよかったよ、それに季節も…、来週あたり梅雨入りかもしれない、昨日今日はこの天気だからよかったけど雨だったらどうしたんだよ?…、そちらも災難だったが、もしオレの車にぶつかっていたらこちらも災難だった…、何もなくてよかったよ、その程度の職場放棄なら、正直に話して謝ればなんのお咎めもない、心配するな…、ああ、でも、もう仕事には戻るなよ、今回はさぁ、誰かの顔を思い浮かべてどうにか我慢ができた、でも、次はどうかな…、このまま今の仕事を続けていたらいつか取返しのつかないことになる、…ええと、…ごめん、名前聞いてなかった」
「藤田です、藤田佑」
「たすくってどういう字?」
「にんべんに右」
「ああ、人助けをするような名前をつけられたってことか、しかもタスクは英語で仕事かあ、因果だなあ…、ああ、ツイッターやってる?」
「いえ」
「だめだよ、せめて別の名前で生きられる場所作らないと、逃げ場がない…、佑はいいやつだな、自分がおかしくなる寸前まで、親の期待に応えて、自分の仕事をまっとうしようとするなんてたいしたもんだよ、…でも、実はそこが、佑の悪いところじゃないか?、…自分をもっと大切にしないとな、…まあとにかく、佑がオレの車に轢かれなくて良かった。これでもオレ、介護士としては一応は先輩だ。これも何かの縁だろう、佑を助けてやりたい。それで…。人を紹介する。…そんな顔するなよ、犯罪なんかさせない…、信用できないか?、…じゃあ、ちょっとこれ見てくれ…、オレは伊庭進次郎、蜃気楼ってツイッターネームで写真をいろいろアップしてる、どうだ、これはフェラーリ。こっちはポルシェ、あとは時計とか、バッグとか…、もしオレが悪いことをしている人間だったらこんな風に目立つようなことはしない、ちゃんと税金を払ってるから税務署も怖くない、…だから信用してくれて大丈夫だ…、いいか?、信用するか?」
「あ、はい」
「よし、決まりだ、まあ、とにかくその恰好のままじゃしょうがないだろう、まずは職場に行こう、着替えと荷物取ってこないとな、…財布もないだろう?、とにかく正直に事情を話せ、佑の無事さえわかれば今日はすぐに解放してくれる、…場所どこだ?」
「戸塚です」
「戸塚から根岸って、どうなんだ?、どこを通ったか知らないけど、15キロくらい?…歩いたらかなりありそうだけど、一晩彷徨ったらもっと遠くに行けそうだけどなぁ、…それだけ錯乱してたわけか…、自宅はどこ?」
「生麦」
「正反対か…、まあ、いいや、とにかく職場に行くぞ…」
AMGの助手席に乗って佑は意を決して職場に戻ったが、介護士長からは叱責されるどころか、しばらく休んでいいとにこやかに告げられた。慢性的な人手不足に悩まされている職場だと思っていたが、伊庭の言う通りよくあることなのだろうか。自分が逃げたことにより同僚の誰かが割を食うことは間違いない。何かが起こるまで何も変わらないのだろう、介護士が一人失踪することなど、事件のうちにも入らない。佑はユニクロの一式に着替え、サンダルをスタンスミスに履き替えて伊庭の待っている駐車場に戻ってきた。
「話はついた、これから佑を助けてくれる人が来てくれる」伊庭は待ち構えていたように言った。「女だよ」伊庭は佑を上から下まで舐めるように見る。「そんな汚い体じゃ失礼だな、まず風呂行くぞ」
風呂と言われ、佑はまずランニングの後に時々行く石川町の銭湯を思い浮かべた。でも、すぐに、この金持ちそうな男は、きっとみなとみらいの豪華なスーパー銭湯に連れて行ってくれるのだろうと頭を切り替えた。どちらも違った。「子連れじゃない時はみなとみらいよりこっちの方が落ち着ける、大人しか入れないから」そう言って伊庭が向かったのは横浜駅西口のスーパー銭湯だった。ハンドルを握る伊庭のロレックスは、華奢な伊庭の手首に対してお置きする気がする。それよりも気になるのは薬指に光るゴールドの太い指輪。「この人には結婚して子供がいるのか…」佑は思う。毎月の給与明細を見るたびに。結婚して子供が生まれて幸せな家庭を持つ日は永遠に来ないのではないかという心配が心をよぎった。伊庭も介護士を辞められたから結婚して子供を育てられるのだろうか。
落ち着ける、という伊庭の言葉とは裏腹に二人合わせて約5000円の入場料を払ったにもかかわらず滞在時間はわずか30分。再び慌ただしくAMGに乗り込んだものの、次のドライブは5分もかからない。移動している時間より信号待ちの方が長かった。伊庭は高島屋の横に車を停めた。
二人で外に出降りて、ガードレールに寄りかかって立っていた。伊庭はずっと右側を見ていた。5分ほどして「あれかな?」と呟いた伊庭の視線はこちらに向かってくる真っ赤なポルシェ・カイエンにくぎ付けだった。カイエンがAMGの前のスペースに停まる、ドアが開いて背の高い女が降りた。真っ黒なサングラスをかけた女は歩きながら手を振った。動いたのは手首から上だけ。恭しく会釈をした伊庭の表情から尊大さが消えていた。
女は伊庭の姿が目に入らないかのように佑に向かって歩いてくる。
黒いワンピースに黒のレースのカーディガン、ソールの薄いスニーカーを履いていたが身長が佑よりもかなり高い。たぶん175くらい。肩まであるストレートの真っ黒の髪の前髪はぱっつんと直線に切られ、顔の三分の一ほど隠れる大きな真っ黒なサングラス、唇は毒々しいほど赤く塗られ、大きな口は口角が上に上がり、目元が見えないのに人を馬鹿にして笑っているように見える。
佑の前に立つと、突然右手を差し出した。老人以外に握手を求められた経験のほとんどない佑は、どうしたらよいかわからず手ではなく背筋が伸びる。
「蓬莱ゆき子よ」女は名乗った。
なまめかしい風が吹いた。波が一気に引くように、佑の足元の景色が向こうへ流れて行く。横浜駅西口のごちゃごちゃした街並みがわっと遠くへ飛ばされる。ゆき子とカイエンだけが真っ白な背景に浮かび上がる。佑は立ったまま一瞬の夢を見た。
「おい」伊庭が佑の肘のあたりを小突き、耳元で小声で言う。「挨拶しろよ」
「あ…、ふ…、藤田佑です」佑は慌てて右手を差し出す。サングラスはまっすぐにタスクを見つめ、顔の位置は微かに動くこともない。ゆき子の右手は佑が触れるのを待ち構えていた。ガタイはいいとはいえさすがに女の手は柔らかい、佑がそう思った瞬間にゆき子は右手に力をこめた。あまりの痛さに口を開いたが声が出ない。佑の悶絶する顔を見て、ゆき子は少しだけ口角を上げ、手を離し、体の正面を伊庭に向けて膨らみの乏しい胸の前で両手で組んだ。
「珍しいわね、伊庭ちゃんが人助けなんて」
「お話した通りです」尊大だった伊庭の口調が豹変した。「オレと同じ仕事していたヤツが死にそうな顔して歩いてるの見たら放っておけなくて…」
「あら、優しいのね?」
「オレはいつだって優しいですよ、…今日も黒が似合いますね」
「ああ、これ?、黒じゃないわ、鴉色よ、…どうでもいいけど、まだ信用したわけじゃないわ、この子が私になんかしたら…、伊庭ちゃん?、もう一回ちゃんと言い聞かせておいた方がいいんじゃない?、まあ私の方が肩幅もあるし、心配はいらないかしら?」
「おい、佑、とにかくゆき子さんの言うことを聞け、それが今のお前のタスクだ、おかしなことしたらオレに迷惑がかかる、恩を仇で返すような真似だけはするなよ」蛇に睨まれたカエルが虚勢を張った。そしてゆき子を見て言葉を継いだ。「…明日こいつ乗せて行きましょうか?」
「ここでいいわ、あとは私が引き取る、とりあえず今からウチに連れて行くわ」
「よろしくお願いします、…今日ギギは?」
「日曜日だから今日は来ない、いいタイミングね、…この子がいればギギもきっとやる気出してくれるわ」
「そう願ってます、よろしくお願いします」伊庭はまた頭を下げた。佑の目には下手な演技にしか見えない。
「おまえも頭下げろ!」カエルに怒鳴られて、佑も頭を下げた。