㉖ アイカの名前はアイカ(下)
中学の入学式の少し前、お母さんは中学校に行っていた。登校できないアイカのために、先生と話をしに行ってくれたのだ。
「先生が言ってたんだけど、通信制の学校があるんだって。オンライン授業の。そこのパンフレットもらってきたんだけど一緒に見てみない?」
そのパンフレットには、何らかの事情により学校に通えない生徒たちが、安心して授業を受けられるようにオンライン授業をしていること、質疑応答もチャットで受付可能で、試験もオンラインで受けることができて、希望すれば登校も可能とのことだった。
アイカにとっては夢のような学校だった。アイカは家から出られないだけで、人と会うのが嫌なわけではない。
小学校の卒業式のすぐあと、前のアイカの友達だったという子たちが遊びに来てくれて少し話をした。最初は、当たり前のようにアイカとの小学校での思い出話をしてくれていたけど、アイカのなんとも言えない反応に声が小さくなっていった。
こんなにアイカを気遣って話してくれているのに反応できないのが申し訳なかった。その反応に戸惑ってしまったのか、それから姿を見せてくれることはなくなってしまった。淋しかった。
できることなら友達がほしかった。今のアイカにとって友達と言えるのはハルキだけだけど、ハルキの存在だけで友達というものがどれだけ素敵な存在なのかが分かる。
今は登校もできないアイカだけど、いつか学校に通ってハルキ以外にも友達が欲しい。
「アイカ、この学校行きたい」
「そう。じゃあ、パソコンの準備をしなくちゃね」
弾んだ声で満面の笑顔のお母さんを見ると、アイカもなんだか嬉しくなった。こうやってちょっとずつでもお母さんの期待に応えていくことができるといいな。
お母さんが、嬉々としてパソコンについて次々と問いかける。
「アイカはデスクトップ型とノートパソコン型、どっちがいいかしら?」
「デスクトップ? ノートパソコン?」
アイカの質問に、お母さんはダイニングキッチンにおいてあるパソコンへと手招きした。
「これがノートパソコン型で、持ち運びを考えるとこっちの方ね。デスクトップ型の方がノートパソコンより高性能で大画面のものが多いみたいだけど、あんまり性能高くても使いこなせないと意味ないしね」
お母さんが、パソコンを起動させてパソコンがいっぱい映っている画面を出した。
「これはこうらしいわよ。でも、使い方が分からない時にお父さんに聞けるように、これと同じメーカーの方がいいとは思うんだけど」
とページを切り替えながら熱心に話してくれる。
パソコンのことがよく分からないアイカは「これと同じので」と言い、お母さんは「じゃあ色だけでも好きなの選んで。好きな色のものが部屋にあると、それだけでウキウキするものよ」と言った。
アイカは赤がいいと言って、お父さんと相談して赤色のパソコンを買うことになった。
ちょっとした小物に赤色が多かったから、きっと前のアイカならこの色を選ぶと思ったのだ。
オンライン授業は思いのほか楽しかった。アイカに学校に行った記憶がないからか、とても新鮮に見えた。
パソコンの画面の中で黒板にチョークを持った先生が説明をしながら授業をすすめていく。アイカはそれを見ながらテキストを開いてマーカーをしたり、ノートに先生が書いた板書を写したりした。
学校帰りに家に寄る学ラン姿のハルキはアイカにとってすごく眩しいものだった。アイカもハルキと同じように進学出来ていたらセーラー服を着て登校していたのだろう。羨ましかった。
アイカにないものをハルキはたくさん持っているような気がした。モヤモヤと「公園に行こう」と言ったあの日のような、どす黒い感情が沸々と芽生える気がした。
だけど、アイカはもう絶対にハルキを傷付けない。そう決めていた。
この言葉はハルキを傷付けるんじゃないか、負担に感じさせてしまうんじゃないか、そう考えながら話すため、口調は自然と淡々としたものになってしまった。
怯えていたのだ。ハルキを傷つけるかもしれない自分自身に。
そしてそのせいでアイカから離れてしまうかもしれない可能性に。
ハルキはきっとアイカの口調が変わったことに気付いていたと思うけど、とくに何も言わなかった。いつもと変わらないふんわり優しい笑顔でそこにいてくれるのだ。
ハルキが笑ってくれるとひどく安心した。アイカはハルキを放したくなかった。ずっと一緒にいたいと思っていた。
もし明日からハルキが家に来てくれなかったら、その時点でアイカとハルキの時間は終わる。たった二件隣のハルキの家にさえ行けないアイカには、ハルキとの時間を繋げるのは無理だ。
だけど、どうしてハルキはアイカと一緒にいてくれるのだろう。「学校の帰りのついでだから」と言って、毎日家に寄ってくれる。
ハルキは中学校で美術部に入ったから、入学して少し経った頃から家に来るのが遅くなった。
「本当は帰宅部にしたかったのに、全員部活に入らないといけなくてさ」
そう言ったハルキの描いた絵を見せてもらうと、お世辞にも上手とは言えなかった。強いて言えば抽象画なのかもしれない。その線では芸術的なのかもしれない。芸術的すぎてアイカには理解できないのかもしれないし、アイカの記憶がないからこの絵の素晴らしさが分からないのかもしれないと口を開けたまま、ポカンとしていると「笑ってもいいよ。もう笑われたあとだから」と苦笑した。
そして、ハルキが美術部でどんなことをしているのか話していると、気付いたときには美術部ごっこをすることになっていた。
土日はハルキとアイカで美術部ごっこをするのだ。ハルキが午前中部活だから、お母さんが作り置きしてくれたお昼ご飯を一緒に食べて午後から始める。
二人で果物を描いたり、部屋の一部を描いたり、窓から見える景色を描いたり、お互いにお互いを描き合いっこしたり。
ハルキが悔しそうにアイカの絵を褒めてくれた。部屋に色んな絵が貯まっていった。なぜか、アイカの描いたハルキはハルキによって取り上げられた。
とても気に入ってくれたらしい。鉛筆で描いた絵を見たお母さんが「これでお母さんのことも描いて」と張り切って水彩画セットを買ってきた。
ハルキに劣等感を感じてモヤモヤしていたアイカだったけど、絵がうまい、とか、頭がいい、とかハルキはいっぱい褒めてくれた。
芽生えかけていたどす黒い感情が、ハルキの言葉で少しずつ自信へと形を変えていった。
アイカはパソコンで、分からないことを何でも調べた。勉強で分からない公式を入力すれば、それに似た問題が出てきて、丁寧な解説がされていたし、分からない熟語を入力すればすぐに答えが分かった。
ハルキが褒めてくれるのは嬉しかったけど、アイカは一人で家にいたから、その分時間が余っていただけだ。部活をしないといけないハルキとも違うし、仕事に行かないといけない両親とも違う。
ハルキのおかげで少しは自信がついたけど、その違いが悲しかった。外に出れないから発生している副産物にすぎないと思っていた。
ハルキが褒めてくれるのが心苦しくなってきてそう言うと、「馬鹿だな」と言って頭をポンポンしてくれた。
「調べる時間があっても調べない奴はいっぱいいる、調べて分かっても理解できない奴も。それを当たり前にこなすから愛花はすごいんだ。副産物なんかじゃない。全部、愛花の努力だ。愛花はもうちょっと自分を褒めてやってもいいんじゃないかな」
「……そう思う?」
「心から」
そう言って、ふんわり笑うハルキに目を奪われた。いつもと変わらないその笑顔なのに。
思えば、ハルキは毎日のようにアイカの家に通ってくれて、アイカに『いつも通り』をくれていた。それまで『いつも通り』なんてなかったアイカに。
……アイカはいつまでハルキを縛っていていいのかな。何も返せないアイカとハルキはいつまで一緒にいてくれるのかな。
中学二年生になった。
ハルキとずっと一緒にいたいと思いながらも、早く解放してあげないといけないと思い始めてからも、何も変わらない毎日を送っていたある日、テレビで芸能人が「ブログ」とか「エゴサーチ」とか言っていた。
アイカはいつものように分からない単語「ブログ」と「エゴサーチ」をパソコンで検索した。検索した結果、「ブログ」は公開日記みたいなもの、「エゴサーチ」は自分のことをネット上で検索することと理解できた。
……アイカ、もしかしてブログやってたってことないよね?
少しの期待と少しの不安の中、検索ワードに「小柴愛花」と入れてみた。検索結果にいくつかのタイトルが並んだ。
それを見て息がつまった。胸がざわつきながらもタイトルの一つをクリックした。
――平成〇年〇月13日16時頃より○○市で行方不明になっていた小学6年生の小柴愛花ちゃん(11)が18日未明、同市において同級生の男児と愛花ちゃんの飼い犬により発見された。同市警では誘拐とみて周囲の聞き込み捜査を行ったが、愛花ちゃんの行方についての有力な証言は得られず、16日に公開捜査に踏み切っていた。なお、被害者である愛花ちゃんには外傷などは見られないが、念のため市内の病院で入院しているとのこと――
――平成〇年〇月18日に、小学6年生の女児を連れ去ったとして、会社員の氷川卓容疑者(40)が逮捕された。氷川容疑者は動機について、亡くなった娘と同じ年頃の被害者女児を見て自分の娘として育てて行こうと思ったと語っているという――
当時の和暦と自分の年齢、所在地、何よりも氏名が、その記事が自分の過去であることを物語っていた。そして、腑に落ちた。
退院の時に何故入院していたのか聞いた時の、お母さんの困ったような泣きそうな顔、公園に行くと言ったときの、ギョッとした後に、取り繕うように笑顔をはりつけた表情。行けなかった公園。
この同級生の男児というのはハルキのことだろう。だから、あんなにも充分すぎる優しさと思いやりを与えてくれていたんだ。誘拐されていたアイカを心配して。もしかしたら、アイカを発見してしまった故に使命感が強制的に植え付けられてしまったのかもしれない。
……あぁ、ハルキを解放してあげないと。
自分が誘拐事件の被害者だったという衝撃より、ハルキへの想いが先に立った。
アイカはなぜ外に出られなかったのか。誘拐されたから本能的に家が安全で外が危険と思っていたのかもしれない。
でも、アイカは自分が誘拐された過去を知った。誘拐犯は捕まっている。今、アイカを攫う人はいない……かもしれない。外の世界を知らないから自信は持てないけど、確率の問題だ。
そんな誰もかれもが誘拐されないし、誰もかれもが誘拐犯になったりしないだろう。
あまり人が出歩いていない朝方なら大丈夫だろう。ナイトとハルキがアイカを見つけてくれたのなら、ナイトと一緒なら大丈夫な気がする。
もう二年近くもハルキを縛ってきたんだ。アイカはアイカにできることをしよう。誘拐犯は捕まっている。外は危険な所じゃない。両親もハルキも毎日外に出ているんだから。大丈夫。危険じゃない。
……だけど、予防として誰の目にも付きにくいように、誰のことも分からないようにしたい。帽子をかぶって顔を隠して、お母さんの度の強いメガネをしてアイカの視界を歪ませよう。
翌日早朝、帽子とメガネをしたアイカは玄関にいた。帽子はともかくメガネはアイカの視界を歪ませたけど、見えないってほどじゃないし、それがねらいだ。ぼやっと物の位置は分かる。鏡を見ると顔は分からないけど、着ている服はなんとなく分かった。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて深呼吸をする。ダメ押しで両頬を叩く。キーっと玄関の戸を開けて目を閉じて敷居を跨いだ。心臓の音がうるさく感じたけれど、前みたいに耳鳴りがしたり肩が震えたりはしなかった。あの時とは知っている事実も覚悟も違う。
「大丈夫」とボソリと呟いてナイトがいる庭に向かう。ナイトのリードをとって、家の門を抜けた。あとはきっと散歩コースを憶えているナイトが連れて行ってくれるはず。行き当たりばったり感は否めなかったが、今じゃないとうまく行かない気がした。
数歩先を行くナイトだけを見つめ、前へ前へと歩を進める。動悸はあいかわらずだったけど、ハルキのあのふんわりとした笑顔を思い出すと、まだいけると思えた。ハルキの目に映るアイカはきっと努力家だ。ハルキにそう思い続けてもらうためにも頑張ろう。
そう思っているとナイトがコンビニで立ち止まり、来た道を戻るように尻尾を振りながら踵を返した。ホッとした。あと半分だ。あともうちょっと、あともうちょっとだ。途中、ボヤ―っとジャージ姿の男性が視界に入って、慌てて目を伏せる。目を伏せたまま。またナイトだけを視界に入れて家へと急いだ。
ハラハラドキドキしたナイトの散歩は、なんとかやり通すことができた。頑張った。ふぅ、と家の前まで来ると、青ざめたお母さんが門の前に立っていた。
「心配したじゃない! どこに行ってたの?」
「……ナイトの散歩」
「一言言ってから行ってちょうだい。急にいなくなってたら心配するでしょ!」
お母さんはホッとしたようにアイカを抱きしめて、ふーっと息を吐いた。すごく心配かけてしまったらしい。お父さんは家にいなくて、ハルキと一緒にアイカを探してくれているらしい。
家の門が見えたときの誇らしいような気持ちは罪悪感によってしぼんでいったが、この機を逃す気にはなれなかった。
お父さんとハルキに謝ったあと、ハルキは家に帰って、お父さんは仕事へと出かけた。
お母さんと二人きりになって、ネットで調べたことと、犯人が捕まっていること、だから家から出ても問題ないと思ったことを告げた。
誘拐の事実を隠していたお母さんは驚いたように目を見開いたけど、静かに最後まで話を聞いてくれた。
「知ってしまったのね。記憶を奪うくらいの事実なんて、できれば一生知らない方がいいと思っていたのだけど……。でも、アイカ、そういう事実がなかったとしても、女の子がこんな時間に一人でふらつくなんてダメよ!」
「でも、せっかく外に出れたから、ナイトの散歩は続けたい」
そう言い張って、しばらくはお母さんと一緒に散歩に行くことを約束させられた。一人でできることに自信を感じたから悲しかったけど、お母さんの心配を思うと、約束せずにはいられなかった。そして、防犯ブザーを携帯することも約束させられた。
「アイカを見つけてくれたのは、ハルキとナイトだった?」
「……えぇ。『ナイトなら分かるかも』って言って、毎日ナイトと一緒に近所を探してくれていたの。お父さんもお母さんも、警察さえも見つけられなかった愛花を見つけてくれたの。……ナイトに引っ張られるように進んでいくとアナタがいたんですって……」
「そう……。アイカ、ハルキに恩返しできるかな……」
「愛花の恩人はお父さんとお母さんにとっても恩人だもの。一緒に恩返ししていきましょう」
「どうやって?」
「そうね。春樹くんが困っていたら助けてあげる。どんな小さなことでも」
お母さんはアイカの髪を耳にかけながら、そう笑顔で言った。
ハルキが困ったときはアイカが助けてあげる。それは絶対だ。だけどアイカにしかできないことがある。
ハルキを解放してあげること。ハルキをアイカに付き合わせて、引きこもりの相手をずっとさせることなんてできない。だけど、いきなり一人になる勇気もなかった。
ネットで自分の過去を知った。あれはたぶん新聞の記事だ。ネットと新聞の中にはアイカの欠けたピースがあるような気がして、新聞もネットニュースも毎日見た。そのうち、小説や漫画などの物語の中にも、何かヒントがある気がしてどんどん読んでいった。
そして出会った。あの漫画に。
『誰もいない一人ぼっちの世界だった。だけど、彼が教えてくれた。一人じゃないんだって……』
彼氏が出来たら淋しくないのだと、その漫画が言っていた。アイカは胸を張ってハルキにKDNY作戦について伝えた。ハルキもアイカのお守から解放されるのだから喜んでくれるはず。そう思った。
「俺がいるだろ!」
焦ったようにハルキが言った。思わず口から出てしまった。そんな印象だった。ハルキはどこまでアイカのために時間を使おうとしてくれているんだろう。
今もまだナイトの散歩と学校以外は訳の分からない恐怖心に駆られて、外に出れないアイカだけど、そうじゃないんだよ。アイカはハルキに自由をあげたいんだよ。アイカに振り回されない自由を。
頭の中でぐるぐるとハルキのためにアイカができることが巡る。アイカの世話にかかりすぎて自分の幸せが後回しになっているに違いない。ハルキの為にもこれ以上アイカを甘やかすようなことを言って、アイカの決心を鈍らせないでほしい。
ハルキを傷つけないようにと、考えながら喋るようにしていたのに、口からスルッと言葉が飛び出していた。
「ハルキは……なんか違う」
そして、アイカのコードK作戦が始まった。作戦は漫画、小説、ネット――物語の世界に溢れている。
イケそうな気がする。
アイカは特に何もない目の前を熱く見つめた。
次は「㉗ それから、」です。




