㉕ アイカの名前はアイカ(上)
瞼の向こうに明るい日差しを感じて目を開けた。白い天井に白い壁が見える。両手に温もりを感じた。右手は私の手を包み込む大きな手、左手には小さな手を感じた。
右側を見ると大人の男女がいて、女の人は私の手を握ったまま俯いている。男の人はその女性の肩を抱いていて、もう片方の手を女の人が私の手を握る上から重ねていた。その後ろには窓があって太陽が射している。ぼーっと日差しに目を奪われていると、反対側から声がした。
「おばちゃん、おじちゃん、アイカが!」
高めの大きな声に反対側を見ると、くせ毛がふわふわ柔らかそうな男の子が、ぐしゃぐしゃに濡れた大きな瞳を私に向けていた。私の手を握るその小さな手にギュッと力がこもったのが分かった。
男の子の大きな声に反応した大人の男女が、瞳を潤ませていて、頬をつたっていた涙が渇いているのが分かった。心配そうなホッとしたような表情で私の顔を覗き込んだ。
「アイカ、大丈夫? どこも痛くない?」
大人の女の人の乾いた涙の跡を辿るように、雫が頬をつたう。
私は、そっと辺りを見回した。
アイカって誰のこと? ここはどこ? この人たちは誰?
何も分からない。何を言えば良いのか分からない。
「アイカ? どこか痛いのか?」
男の人がそっと私の髪を撫でる。思わず、その手を振り払うように、頭を振ってしまう。女の人は握っていた手をそのまま持ち上げて自分の頬に寄せた。
「アイカ……?」
知らない場所、知らない人、知らない自分。漠然とした不安が自分の身に襲い掛かり、体が固まっていく気がした。
「アイカ……?」
口々に『アイカ』と発音する大人の男女に反して、男の子は不安そうな顔で静かに手を握ったまま私を見つめていた。
みんなの顔を凝視すると、その瞳の奥にある温かい眼差しに、何も分からないけど、この人たちが私を心配してくれているのは分かる。そう思った。
不思議と、強張っていた体の緊張が少しずつほどけて行った。
「アイカ、なんでもいいから声を聴かせて?」
じっと見つめる女の人の視線が自分に向かっている。私に話しているのだろう。私は乾いた口を開いた。
「……ア……イカ……?」
ひどく掠れた声が出てきた。……これが私の声。
「アイカ? 痛いところはない?」
「ア……イカ……? 私の……こと……?」
私の言葉に驚いた男女が呆然とした表情を浮かべて、次に慌てたように口々に言葉を発した。
「そうだよ? 分からない……のか……?」
「アイカ? アナタの名前よ」
「そう……」
それだけ話しただけで、なんだかとても疲れてしまった。私は目を閉じて、呪文のように繰り返した。
「アイカ、私の名前はアイカ。アイカ、アイカ、アイカ」あまりピンとはこなかったけれど、他に信じられるものがない。この人たちがそう言うのだから、私はアイカなのだろう。漠然とそう思った。
「アイカ? 具合悪いの?」
目を閉じている私の耳元を女の人の声がかすめる。私は目を閉じたまま、首を振った。
次に気が付いた時には男の人と男の子の姿はなく、白衣を着た男性がやって来て、名前や誕生日、現在地、年齢、学校名、最近の出来事など聞かれたが、全然分からなかった。
「分からない」と答え続けることが苦痛になってきたころ、白衣の男性の質問は終わり、ホッとした。
「分からない」としか答えられない自分に居心地の悪さを感じ、自分はどこかおかしいのではないかと不安が増した。
お母さんと名乗る人は、ここは自分の勤める病院で、最初目が覚めたときに一緒にいた大人の男の人がお父さん、男の子がアイカと同じ年のハルキくんと教えてくれた。
「アイカはお母さんとお父さんにとって大事な子どもで、生まれてから今までずっと一緒にいたのよ」と言った。ハルキくんは、アイカの幼馴染で、アイカの仲良しの男の子だと教えてくれた。
数日間、病院にいて「明日は退院よ。お家に帰るのよ」とお母さんが優しく微笑んだ。アイカは「なんで今までお家にいなかったの?」と聞いた。
ちょっとした疑問だった。お母さんは困ったような泣きそうな顔で「ちょっと風邪をこじらせていたのよ」と答えた。
アイカという名前をもらって、アイカの自宅という場所に連れられて行った次の日、ハルキと名乗る男の子は、ふんわりとした笑みをたたえてアイカの部屋にやってきた。
「退院おめでとう」
そう言って差し出された小さな手にはお花が握られていた。「庭に咲いていたのを、母さんに言って切ってもらったんだ」と、恥ずかしそうに人差し指で鼻をこすった。アイカはそっとその花を受け取った。
この男の子はアイカの幼馴染。仲良しの男の子。頭の中でそう繰り返して、目を閉じて記憶を探ってみたけど何も思い出せなかった。
「ハルキ……は、アイカと仲良し……?」
「うん。まぁ、仲良し、かな?」
ハルキのひっかかる物言いに少し疑問を抱いた。
「違うの?」
「うーん。仲良しって言うか……子分?」
「アイカがハルキの子分てこと?」
「ちがう。逆だよ逆。ボクが愛花の子分みたいな感じかな?」
「アイカが親分?」
「ははっ。情けないけど、どちらかというとそう」
どうやらアイカは、すごくやんちゃな女の子だったらしい。近所の子どもたちを従えて、悪ガキのごとくのさばっていたようだ。
ハルキがアイカとの思い出を楽しそうに、時に困った顔で話してくれた。
侵入禁止ポールを使って前回りして、下のコンクリートに頭をぶつけて失神したこと。
「これ登るよ!」とハルキの家のブロック塀によじ登った末、ブロックが崩れてケガしてお母さんと謝りに来たこと。
「買ってもらったの」と自慢げに遊んでいたスーパーボールが、ハルキの家の玄関のガラス戸にぶつかりヒビをいれてお母さんと謝りに来たこと。
「ここはマグマだから落ちたら死んじゃうんだよー」と用水をジャンプすることを強いられたハルキが用水に落ちて足を挫いて泣いたこと。
ハルキの話を聞く限り、アイカはやんちゃな悪ガキで、それに振り回されていたのがハルキのようだった。
それなのになんでハルキはこんな優しい表情でアイカに笑いかけてくれるのだろう。その笑顔の奥に見える気遣わし気な瞳で心配してくれているのがよく分かる。
「アイカ、ハルキのこと振り回してたみたいなのに、お見舞いにまで来てくれるなんて。ハルキは優しいんだね」
ハルキは一瞬、驚いたように目を見開いたかと思うと、また元の優しいふんわりとした笑顔に戻った。
ふわふわした癖のかかった髪に優しい目元が、天使のように見えた。
「なんだかんだで、愛花といると楽しいからな!」
そう言い切ったハルキを見ていると、なぜだか心があったかいもので包まれていくような気がした。
お父さんとお母さんと同じように真っ直ぐと、アイカをただ心配し労わってくれるあたたかな瞳。初対面に近いこの男の子に、自分でも正体の分からない自分が「ここにいていいんだ」と言われているような気がして、ひどく安心できた。
それから、ハルキはほとんど毎日アイカの部屋にやってきた。特に何かして遊ぶわけでもないけれど、ニコニコとたわいもない話をして、そして帰っていく。それだけのために来てくれていた。
そんなある日の事、ハルキが言った。
「久しぶりに公園に行かない?」
ハルキの話によると、アイカとよく遊んだ公園があるらしい。今日は天気がいいし、公園もすぐそこだから、一緒に行かないか、とのことだった。
そこに行けば、この靄のかかった頭がクリアになるんじゃないか、色んなことを思い出せるんじゃないかと思った。
お父さんもお母さんも優しいし、すごく気遣ってくれる。「アイカの部屋よ」と通された部屋は確かに誰かの気配があったけれど、それは自分とは別人のような気がして、ひどく所在ない。公園に行けば何かを取り戻せるんじゃないか。そんな気がした。
「うん。行きたい」
「やった。じゃあ、おばちゃんに聞いてみような」
お母さんは、アイカが入院していた病院で看護師をしているが、アイカが退院して間もないということで長期休暇をとってくれていた。
お母さんに「ハルキと公園に行きたい」というと、ギョッとしたように目を見開いたあと、取り繕うように笑顔をはりつけた。
公園に行くことを反対したいが、いつまでも家に閉じ込めておくこともできない。お母さんの心配そうな瞳がそう言っているような気がした。
「せっかくだから、お母さんも一緒に行きたいわ。でも今日は公園はやめておいて、スーパーに行かない? お菓子を買ってあげる。春樹くんもね」
そう言ったお母さんの肩がわずかに震えて、緊張しているような感じがした。顔は笑顔だけど、どことなく不安気な、そんな印象を受けた。
「アイカ、ハルキと二人で公園に行きたい」
不安気なお母さんに、ハルキと二人で公園に行くことを提案すると、少し強めにアイカの腕を握り、「ダメよ!」と声を荒げた。
大きな声に困惑していると、その様子に気付いたお母さんの顔が、また笑顔に戻って「もう少しでおやつの時間だから公園はまた今度。今日はスーパーでお菓子を買ってきてみんなで食べましょう」と言われた。
お母さんの勢いに圧倒されるようにコクリと頷いた。なんとしても公園に行くのを阻止しようとするお母さんの様子にハルキをチラリと見ると、目を見開いたまま固まっていた。
アイカの視線に気づいて慌てたように「ボク甘いのがいいな」と言って笑顔を見せた。
先に靴を履いたお母さんとハルキが、玄関ホールでアイカが靴を履くのを待っていてくれた。アイカは立ってつま先をトントンと叩いて靴を履き終えて、お母さんと手を繋ぐ。
ハルキが玄関の戸を開けて、門の所で待っていた。玄関の敷居を跨ごうとした、その時、サーっと血の気が引いていくのが分かった。
手足は冷たく感じるのに、背中には生温い汗がつたう。心臓はドクンドクンと早鐘を打つ。
声ともならない声が玄関中に響き渡った。
その叫び声が自分から出たものだと気付くのに少し時間がかかった。ブルブルと肩が震える。思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「愛花? どうしたの? 気分悪いの?」
「愛花? 大丈夫か?」
心配そうな声が聞こえる。ずっと遠くで聞こえているような籠った声に聞こえた。耳の奥にキーンと高い音が響いて、目がチカチカとした。体が急速に冷えていく。
体の震えは止まらず、ここから出てはいけない、と体に直接警告されているような感じがした。
「ごめ……なさ……。ムリ……」
訳も分からないまま、涙が溢れてボタボタと床に滴り落ちる。
お母さんが、ふわっとアイカを包み込むように抱きしめた。そのまま優しく頭を撫でてくれる。
「謝ることなんてないのよ。無理ならやめておきましょう」
アイカはお母さんの腕の中で、ただ頭を縦に振るだけだった。お母さんに手を取られて、玄関ホールから上がろうとしたその時、ハルキがそっと肩に手を置いた。
腹が立った。アイカが今こんな辛いのは「公園に行こう」と言ったハルキのせい。アイカはこんなにモヤモヤした不安でいっぱいなのに、まだ連れ出そうとするのか。そう思ってしまったのだ。
アイカは肩に置かれたハルキの手を払いのけて、ハルキをキッと睨みつけた。
「そっとしといてよ!! もうアイカにかまわないで!! こんなに辛いのハルキのせいなんだから!!」
こんなの八つ当たりだ。
ハッとしてハルキを見ると、顔は青ざめて瞳を潤ませていた。
毎日心配して遊びに来てくれるハルキになんて酷い言葉を投げかけてしまったんだと、また血の気が引いていく。
「ごめ……」
「ごめん」
アイカが謝るより先にハルキがそう呟き、帰ってしまった。
ハルキを傷つけた……。アイカはもともと人を傷つけるような人間なのかもしれない。分からない。あの日目を覚ましたその前日の自分のことすら分からないのだから。
ハルキにあんな顔をさせた自分が怖くなった。もう何もしたくない。誰とも関わりたくない。といっても、ハルキももうこの部屋を訪れることはないだろう。
あんな顔をさせてしまったアイカなのだから。
そう思っていたのに、次の日、ハルキはいつもと変わらない笑顔をたたえてやってきた。
ひどく怖気づいた。
この優しい人をまた傷つけてしまったらどうしよう。アイカがアイカになったその日から、ずっと心配して寄り添ってくれていたハルキとの記憶が蘇る。
ハルキの優しさを思い出して、よりいっそう昨日の自分の発言が残酷なものと思い知る。
なんて、なんて酷いことを。堰を切ったように涙がとめどなく溢れて、頭がずきずきと痛みだす。
「ごめんなさい。ずっと、優しくしてくれていたのに……ヒック……アイカはなんて酷い……。アイカは……ヒック、きっと人を傷つける……。ハルキ……もう近づかない方がいい……」
ハルキはアイカの背中を撫でながら「大丈夫」と言った。
「ボクは知ってる。アイカは絶対にそんな子じゃない。そうじゃなかったらボクの気持ちを思いやってそんなに辛くなったりしない。それに昨日のことはボクが考えなしだったんだ。だからアイカは悪くない。ボクもすんごい反省はしたけど、ちっとも傷ついてないよ」
「だけど、アイカあんなに酷いこと言ったのに、傷付かなかったはずない……」
ハルキはポンポンと背中を優しくたたいた。「本当だよ」と続ける。
「ボクはこれからもずっと、アイカと関わっていきたいと思ってるんだから、その可能性をボクから奪わないで」
ハルキがティッシュを渡してくれた。
「こんな言い方だと、脅迫になっちゃうかな」
へへっと穏やかに細めた目は赤くなっていた。
本当はアイカの言葉に傷ついたのかもしれない。もしかしたらアイカと同じようにアイカを傷つけたと苦しんでいたのかもしれない。
でも今はこの溢れんばかりのハルキの優しさに甘えよう。きっとそれがアイカにとってもハルキにとっても正解だ。そう思った。
小学校の卒業式の日、やっぱりアイカは外に出られなくて、お母さんが卒業証書をもらってきてくれた。学校に行けず落ち込んでいたアイカにお母さんがカラカラ笑った。
「卒業したことに変わりはないんだから、いいじゃない。家に居ながらにして卒業できるなんてお得だと思わない? お母さんも仕事に行かずしてお給料が欲しいわ」
その雑な慰め方に、居直った態度に、逆におかしさがこみ上げて、笑ってしまった。
「卒業したことに変わりはないんだから」とハルキも一緒にケーキを食べた。
ハルキが、「ボク校長先生役やってやるよ。アイカはお母さんに感謝の手紙書くんだ」と提案して、急遽ダイニングに卒業式場が出来上がった。
アイカはお母さんに手紙を書いた。ハルキが校長先生役をしてくれる。
「小柴愛花」
「はい」
三角座りしていたアイカは立ち上がり、ソファーの上に立つハルキの元へと向かう。お母さんは椅子に腰かけている。
「小柴愛花。あなたは〇〇市立○○小学校において、六年間の課程を修了しましたのでここに証します。平成〇年三月十五日。おめでとう」
アイカは練習したとおり、恭しく頭を下げて顔を上げると、お母さんが眩しいものを見るように目を細めて拍手をしてくれた。
ハルキがソファーの下で三角座りになり、今度はアイカがソファーの上に上がる。手紙を広げた。
「お母さんへ。『アイカ』、そう名前を付けてくれた日から、アイカは自分が生きていることを知りました。アイカは何もできません。外にも出れません。お家のお手伝いもできないことばかりです。
役立たずなアイカなのに、お父さんもお母さんも笑顔で傍にいてくれます。目を覚ましたあの日からアイカは淋しいと思うことがなかったです。
自分の事すら分からないのに、淋しいとか一人ぼっちとは思わなかったのです。
お母さん、アイカはお母さんたちが知っているアイカですか? きっと違うと思います。それでも温かく優しく見守ってくれる目をアイカに向けてくれるアイカの両親。
アイカは断言します。昔のアイカも絶対に幸せでした。そう思えるのは、今のアイカがすごく幸せだからです。
お母さん。アイカは小学校を卒業しました。これからは、お母さんが与えてくれる愛情を受け取るだけじゃなくて、お家のお手伝いを頑張って、お母さんに返していきたいと思います。
そして、アイカがいてくれて良かったと思ってもらえるようなアイカになれるように頑張りたいと思います。
記憶にない頃から今まで、ずっとありがとう。これからもよろしくお願いします。アイカ」
ふぅーと一息ついて、手紙を折り畳み封筒に入れてお母さんに持っていった。こそばゆい気持ちでお母さんの顔が見れなかったけど、封筒を渡すのにお母さんの正面に立つ。
お母さんも椅子から立ち上がって待っていてくれた。封筒を受け取ると、大事そうに胸に抱きしめて、それからアイカを抱きしめてくれた。
「愛花が生まれて来てくれたときから、今までずっと愛花は大事な娘よ。ずっと知ってる私の愛花よ。ずっと愛花がいてくれて良かったと思ってるわ」
不安だった。アイカはきっとお母さんの知るアイカじゃなくなっていると思ったから。
ずっと傍にいてくれる両親と同じように、アイカもずっとこの温かい空間に身を委ねていたい。そう思っていたから。
両親の優しさを日々感じながら、それでも頭の隅にあった不安は、いつか、アナタは私たちの娘じゃないと言われることだった。
だけど、お母さんの言葉に不安が薄れて行くのを感じた。
心の隅の冷たい予感に灯りがともる。温かい陽射しが降り注ぎ、アイカの心を全部温かいもので包んでくれる。アイカはここにいていいんだと心の底から思えた。
この両親のもとに産まれることができた運命に感謝しよう。この卒業式と手紙を書くことを提案してくれたハルキに感謝しよう。
次話「アイカの名前はアイカ(下)」です。




