⑳ 図書館に行く
玄関の上がり框に腰を下ろして靴を履く愛花を視界におさめながら、奥にいるだろうおばちゃんに向かって大きめな声を出した。
「おばちゃーん、愛花と図書館行ってくるねー」
パタパタとスリッパの音を響かせておばちゃんが駆け寄ってきた。
「春樹君、もしなんか困ったことがあったらすぐに電話ちょうだいね。あとこれ、タクシー代」
そう言って、一万円札を握らせられた。
「この時間帯は大丈夫だと思うけど、帰りは念のためタクシー使ってね」
「分かったよ。おばちゃんもスマホ肌身離さず持っててね」
駅での一件がまだ心に傷になっている俺は懇願するように、地板に立つおばちゃんを見上げる。おばちゃんは思わずといった感じで、困ったような嬉しいような顔で、俺の頭にポンポンと優しく手を置いた。
「あ、ごめんなさい。もう小さい子じゃないのにね……。ちゃんと肌身離さず携帯してるから安心して行ってらっしゃい」
「「行ってきまーす」」
見送ってくれるおばちゃんに手を振って外に出る。
亜紀ちゃんとの初めての図書館。それも、今のところクリアした時間帯での外出で、愛花に不安気な表情は見られない。むしろウキウキしているのが伝わってくる。今にもスキップして鼻歌を歌い出しそうだ。
「ハルキ」
愛花が俺の手に自分の掌を重ねて、そのままブンブンと勢いよく振る。あまりの勢いに愛花に視線を向けるとニカッと元気よく笑って見せた。
「ハルキ。今日楽しみだねー。今日は、化学の勉強するの。そんで、お昼になったらラウンジでお弁当食べてー。あ、ハルキ。図書館にラウンジあるの知ってた? あるんだってー。ふふふふ。そんで、お弁当食べてー、午後からはDVDコーナーに行って亜紀と鑑賞しても良いし、小説読んでもいいねって話してたの」
テンションが上がっているのか、楽しそうに今日の予定を抑揚のある口調で話してくれる。こっちまで楽しい気分になってくる。
「俺、弁当持って来てないけど……」
愛花が作ってくれてたら嬉しいな、と期待を込めて心の中で付け加える。愛花が担いでいるリュックが大きめだから、期待できると判断した。ニコニコ笑顔のままで愛花が答えてくれた。
「ハルキのはアイカが作って、隆くんのは亜紀が作るの」
「やったね。楽しみだ。愛花、荷物重いだろ? 俺もつよ。弁当作ってもらったし」
「平気。重くても大丈夫なようにリュックにしたんだよー。電車乗っちゃえばすぐだし」
「そっか。ありがとな」
「アイカも! ついてきてくれてありがとう!」
にぱっと笑う愛花に目を奪われる。いつもの図書館の往復訓練中は、周りを見るのを拒絶するように俯きがちになるのに、今日はずっと顔を上げてニコニコしている。
よほど嬉しいんだろう。できなかったことができる喜び、友達と外で遊べる喜び。心なしか歩くスピードもいつもより速い。
なんなく図書館に辿り着くと、入り口の自動ドアの前で隆と亜紀ちゃんが待っていた。手をヒラヒラ振って駆け寄る。ギョッとした隆の視線は俺と愛花の繋いだ手に注がれている。
なに驚いた顔してんだ?
「待たせたか?」
「いんや。ちょっと前に着いたとこ」
俺らがあいさつを交わしている横で、愛花と亜紀ちゃんは「きゃー」と声を上げて手を握りあっている。楽しそうで何よりだ。
図書館に入り、4人用のテーブルを見つけるとそれぞれ席に着いた。この配置はちょっと納得がいかなかった。なぜ俺の隣は愛花じゃなくて隆なのだ。目の前が愛花だからまだいいけど。
「図書館ではお静かに」がマナーだから、声をひそめて愛花に勉強を教えてもらう。小さな声は俺の耳に届かず、少しずつ距離が近くなっていく。というのを期待していたのに。
むさいヤローが隣だとはがっかりだ。まぁ、俺らはおまけだし、正面に座る愛花をひたすら見ていようと思う。
仕方ないから愛花を時々盗み見しつつ、真面目に勉強した。分からないところは隆に教えてもらう。隆の分からないところは俺が教えてやる。その姿を愛花に見せつけて賢い俺を見てもらうのだ、と、鼻息荒く意気込んでいたが、俺が教えてもらうばかりで、そんな機会はなかった。無念だ。
静寂の中、カリカリとノートとシャーペンの摩擦音だけが音をなしていた。そこに俺の腹の音が割って入り昼食の時間を告げる。
クスクスと笑いながら、コソコソ声で「ラウンジ行こっか」と亜紀ちゃんが提案してくれる。
「トイレ行ってからラウンジ行くわ」
俺の言葉に便乗した隆がついてきた。
連れションとか……。トイレで二人並んで連れションとか……。
「春樹。俺びっくりしたんだけど、お前と愛花ちゃんて普通に手ぇ繋ぐのな」
「へ? あぁ、うん」
「お前らって付き合ってはいないんだよな?」
俺はムッとする。そんなこと知ってるくせに、わざわざ確認をとるとは悪魔の所業だ。
「わざわざ聞かなくても知ってんだろ」
「いや、そうなんだけど……。俺の常識では幼馴染とは手を繋がない。相手が小さい子ならまだしもさ」
は? なに言ってんだ、コイツ。幼馴染と手ぇ繋ぐのは当たり前だろ。
「お前さ、手ぇ繋いでたとこ見てたんだろ?」
「おう」
「手の繋ぎ方は見えなかったのか?」
「見えたけど、それがなんだよ」
「恋人繋ぎじゃなかっただろうが!」
俺と愛花の手の繋ぎ方は手と手を重ねているだけで、指を絡ませるような親密なつなぎ方じゃない。指を絡ませるかどうかが問題だ。
お互いの指と指を絡ませることで生まれる性への芽生え。少しの背徳感と指から脳に伝わる愛花の温もり。時間の経過とともにしっとりと汗ばんで、どちらの汗か分からなくなるほどに混ざり合う。俺の脳内に生涯保存案件だ。
純粋で無垢な愛花をそんな風に見てはいけない。俺は破廉恥な意識を振り払うようにブンブンと頭を振る。だけど、悲しいかな。頭を振ったくらいじゃ思春期の俺の妄想は止められない。自分の溢れんばかりの若さが憎い。
掌の感触だけじゃなくて、俺の神経を総動員した5本の指が愛花の指一本一本を愛でる。隙をみつけては指を曲げて愛花の掌をなぞる。それこそが手繋ぎの至福。恋人繋ぎをすることは身を委ねられていることと同義に違いない。そして、それこそが恋人の証なのだ。
隆はそんな当たり前なことも分からないのか。
手を洗い終えた隆が、髪をセットするフリをしながら掌の水滴を髪で拭って、ポカンとした顔で俺を振り返る。
ちなみに俺はハンカチを使わない奴の手がきれいになったとは認めない。手についた汚れを水で浮かせてそのまま髪につけるなんて、頭に局部が乗っているのと同じことだ。拭いきれていない掌も同じ意味を持つ。石鹸を使っていないなら尚更だ。
俺は絶対そんなことしない。愛花と繋ぐ手はきれいでなければいけないからだ。今の隆が亜紀ちゃんと手を繋いだとして、それは手と手を繋いだと言えるのか。否。言えない。亜紀ちゃんが繋いだつもりの手は隆の汚物だ。
やれやれ。信じられんな。
俺は肩を竦めて、ふーっと呆れた息を吐く。
「何言ってんの?」
俺の心の声が当たり前に届いていないせいで、隆は音声言語だけに反応した言葉を返す。
同時にムッとしていたのを忘れていたことを思い出す。俺はきれいに石鹸で洗った手をハンカチで拭きながら、眉を寄せて目に力を入れる。手の繋ぎ方一つで付き合えていない事実を突きつけてきやがって。この汚物手が。
「お前こそ何言ってんだよ。あの繋ぎ方は幼馴染のもんだろうが。その証拠に昔っから変わってねぇよ。分かり切ったことをわざわざ……。めんどくせぇ」
わざと聞こえるように舌打ちをしてやる。
「……」
隆は口を開けたままのアホ面で、ゴクリと息を呑んだかと思うと数秒俺に視線を固定した。眉を下げて困ったような、かわいそうな子を見るような表情で俺の肩をポンと叩いた。
汚物手で触られた! 俺は隆の汚物手を触らないようにそっと体を除ける。そして、汚物手の持ち主に告げた。
「局部と同等の意味を持つその手で俺に触るな」
隆は衝撃を受けたように俺を見つめたあと、俺に促されるまま面倒くさそうに石鹸で手を洗い直し、ジェットタオルで乾燥した。「これで良いんだろ?」と眉をひそめて言う隆にワンポイントアドバイスをくれてやる。
「洗髪しない限りその頭の汚れはとれない。このあと例え雨に濡れたとしても、その頭は絶対に振るんじゃない。飛び散るその雫はもはやオシッコだから」
「……弁当楽しみだな」
隆は無表情で、話題をすり替えた。俺に論破されたせいだろう。
……なんか、よく分からないが呆れられて、諦められた気がする。俺がイラついていたはずなのにおかしい。
ラウンジは吹き抜けになっていて天井にはシーリングファンがクルクルと回っている。壁はガラス張りで外の木々の鮮やかな緑と太陽の陽気で解放感たっぷりだ。それとは逆に白い大理石のようなツルツルした床と茶色の革張りのソファーとシルバーのテーブルが無機質な印象を与える。
ソファーに座っていた愛花と亜紀ちゃんが持参した弁当を出してくれた。俺らはせめてものお礼に飲み物を買ってくる。
愛花が出してくれた弁当の上の段には、卵焼きとハンバーグとミニサラダ、レンコンのきんぴらが入っていて、下の段には俺の好きな炊き込みご飯が入っていた。スープジャーには湯気が立っている味噌汁だ。
「お味噌汁は朝ごはんのなんだけど、体あったまっていいかなと思って……」
そう言って、照れくさそうに頬を染める愛花は未来の良き妻だ。大声ですれ違う全ての人に俺の妻を紹介したい。
席の並びは図書館内と同じで、隣には隆、目の前には愛花だった。今日は全然愛花に近づけない。少し不満だけど、亜紀ちゃんと楽しそうに話して、クスクスと笑顔を絶やさない愛花を見ていると、不満心が優しい気持ちに変化していく。
「うぐっ。バリッ。バリバリッ。バーリバーリ」
キャッキャする愛花と亜紀ちゃんを微笑ましく思いながら、愛花の手作り弁当をおいしく食していると、隣から食事中の音とは思えない音が聞こえてきた。ほぼ同じタイミングで亜紀ちゃんの方からも「うんっ」と力をこめる勢いにまかせた声が聞こえる。
勘の良い俺にはその音の響きだけで全てを察することができた。卵の殻が入っていたに違いない。亜紀ちゃんの女のプライドに関わることかもしれない。あえてツッコまないでおこう。
「亜紀、これ噛み切れないんだけど」
「ははっ。わたしもー。固いねー」
「歯が折れそうだわ。悪いけど食べれない」
「奇遇だねー。わたしもー」
隆はひどい奴だ。何もみんながいるところで指摘しなくても良かったはずだ。でも、固いということは卵の殻ではない。勢いをつけても噛み切れないほどの固いものが何か、いよいよ気になってくる。
俺は欲求に任せて、チラリと隆の弁当を盗み見る。隆の弁当に辿り着くまでの、視線を巡らせている視界に、控えめに亜紀ちゃんの弁当を盗み見ている愛花が映った。愛花も気になったのだろう。それも無理はない。
隆の弁当のおかず部分は赤茶色一色の固形物だった。おいしそうな気もするが、何か分からない。
おもむろに箸の持ち方を握り箸に変えて、グサッと赤茶色の固形物に垂直に突きつけた。視界の隅で同じ動作の亜紀ちゃんを捉える。
盗み見ている俺に気付いた隆が、「餅が固くてさ」と教えてくれる。
餅……って弁当に入れるものなのか? 冷めたら固くなるよな。というか、固いのは餅だけではなさそうだ。全体的に煎餅っぽい。
「チーズタッカルビにしたの。今ハマってて」
俺たちの会話に気付いた亜紀ちゃんが取り繕うように口を開いた。俺は亜紀ちゃんの意思を組んで会話のラリーに参加する。気遣いが大事だ。
「チーズタッカルビ? おしゃれな響きだな。おいしそうだ」
「うん。おいしいんだよ。だから、隆にも食べさせてあげたくて」
なんだかんだで愛されてんじゃないか。
愛花も会話のラリーから取り残されないよう慌てて会話に参戦した。
「本当おいしそう。冷めちゃったからお餅は固くなったかもしれないけど、温かい時に食べたらソースが絡んでおいしかっただろうね。バリバリして触感も楽しそう。それどうやって作るの?」
愛花……。フォローしてんのか貶めてんのか……。その言い方だと、少なくとも今は美味しそうに見えないともとれる。
「そうなの! おいしいの。うちではホットプレートで作るんだけど、作るって言ってもレトルトで、好みでチーズ増し増しにしたり、お餅トッピングしたりするだけ。最後にご飯いれてソースに絡ませて、ヘラでホットプレートにジューって押し付けたら、おこげになって最後までおいしんだよ」
「で、最終形態まで作り上げた結果がこれか……」
普通に返事する亜紀ちゃんに心の中でそっとエールを送っていると、痛そうに頬を押さえた隆に、愛花がフォローという名の毒を吐く。
「最近の若者は柔らかいものばかり食べて、顎の発達が悪くなってるんだよ」
「愛花……」
何に感動したのか亜紀ちゃんが、愛花を眩しそうに見つめる。隆はスリスリと頬をマッサージするように撫でている。俺はどうしたらよいのか分からず、でも何かフォローの言葉を入れようと口だけが開いたままになっている。
「愛花は頭が良くて物知りなんだ」
口を突いて出てきたのは愛花自慢だった。なんのフォローにもなっていないことには気付いている。
呆然と会話の成り行きを見守っていた隆が、意を決したように、チーズタッカルビを箸で叩きつけて割って口に入れた。
……こういう工事みたことある。ドリルでコンクリート掘るやつ……。
「亜紀、餅は食べれないけど、餅以外はおいしいぞ。顎の健康維持にも効果的らしいしな」
隆が優しいこと言ってる。優しい隆はちょっと気持ち悪くて、座りなおすフリをして少し距離をとった。
「そうそう。たまには固いものも食べないとね。私もいい運動になるよ」
「そうだね。お腹も膨れて、運動にもなって一石二鳥だよ」
グルグル視線が落ち着かない愛花を見ていると、その必死さが伝わってくる。愛花は頑張っている。健気だ。
愛花に褒められて気をよくしたのか、亜紀ちゃんがハッとしたように顔を上げ、ポンと掌に拳を打った。
「今度、チーズタッカルビパーティしない?」
「パーティ?」
「うん! 愛花さえよければ愛花ん家で。……ダメかな?」
愛花の顔がぱぁーっと晴れわたっていく。次の約束が嬉しいのだろう。愛花ん家を会場に提案してくれる亜紀ちゃんの心遣いが身に染みる。なんて良い子だ。
その時にはぜひ掘削作業なしで食べれる状態で食したいと思う。
「うん! ぜひ! 家はいつでも大丈夫だよ」
「じゃあ、みんなが都合いい日にしよっ」
みんな。その響きに打ちひしがられる。良かった。クリパは別々だけど、チーズタッカルビパーティは参加できる。愛花と一緒にいられる。亜紀ちゃんと仲良くなってから愛花の時間の9割を独占できていた俺は、7割くらいに減って愛花不足なのだ。
「俺もいつでもいいよ」
「俺は部活ない日がいいな」
かくして、次の土曜日にチーズタッカルビパーティ、略してチーパーは決定した。
昼食のあと少し勉強したら、今日の予定範囲は終了したと女子二人はDVD視聴スペースに消えて行った。男子二人取り残された俺らは、最初から勉強したかったわけではないので、図書館内にあるカフェで各々スマホゲームをしたり、ちょっと話したりした。
「愛花ちゃんて、亜紀の話聞いてると、外出が難しいだけで、わりとスペック高くね?」
俺は自信満々に鼻息荒く答える。
「そうなんだよ! 頭も良いし、絵も上手いし、料理も上手だし。外出が難しいだけで、家ん中でできることはレベル高めにやってのけるんだ」
「……最後の料理上手は俺への当てつけか?」
隆が意味の分からないことを言ってくるので、思わず首を傾げる。あてつけるようなこと、なんかあったか……?
俺を凝視していた隆がフッと視線を逸らしてボソリと呟いた。
「そういえば、愛花ちゃん以外に興味ないんだったな」
「ん? あ、あぁ」
よく分からないが、とりあえず空返事をしておく。そうこうしていると、亜紀ちゃんから隆にメールがあって、そろそろ帰る流れになった。出先でもメールできる隆が羨ましい。
隆と亜紀ちゃんと別れて、俺はカフェ店員にタクシーを呼んでもらうよう依頼して、二人でお茶して時間をつぶした。
その間も、愛花の口は止まらない。亜紀ちゃんと勉強した内容を、どの化学式で亜紀ちゃんが躓いたか、どうやって覚え方を教えたか、もちろん視聴したDVDの内容も、その亜紀ちゃんの反応も交えて丁寧に教えてくれる。
愛花の口から出る言葉の5割が「亜紀」だ。そろそろ「ハルキ」と呼んでほしいと思った頃、店員がタクシーの到着を告げた。
手を繋いで店を出ると、タクシーに乗り込み住所を告げ、家路へと運ばれた。
今日の愛花は始終ニコニコヘラヘラ目尻が下がりっぱなしで、かわいかったが、俺と二人の時との表情の種類を比べて少し落ち込んだ。
少しだけだ。強がってはいない。
次話は「㉑ 俺の友人はかなりおかしいし、間違いなくキモい!」です。




