② コードK
それにしても昨日の愛花には驚かされた。
昨日――
愛花の奇怪な行動の理由を聞いた俺は、とりあえず電気の傘の細工をはずした。電気の傘にはA4のレポート用紙がマジックで塗りつぶされてペタペタとセロハンテープで止められていた。
愛花の部屋の電気の傘は丸く蛍光灯を覆っている。そこにA4のレポート用紙を少しずつ張るくらいなら、大きい布で傘を隠すようにして画鋲でとめれば良かったのではないかと思う。
落ち込む愛花にそんなツッコミを入れられるはずもないけど。
目の前には膝を抱えて悲しそうに俯く愛花。よく見ると髪の毛が少し焦げていた。焦げた髪を触るとパラパラと床に崩れ落ちた。
「愛花。髪が焦げてる。熱くなかったのか?」
俯いたまま答える愛花。
「少し熱かった」
「熱かったのになんで気絶のフリを続けたんだ?」
「代償だと思った」
「代償……?」
「この熱さを我慢したら異世界に行けると思った」
なんだその不味い薬ガマンして飲んだら病気が治る的な発想は。
「でも行けなかった……」
だろうな!
俯き伏せた長いまつ毛。唇の端はキュッと結んでいる。愛花に何か声をかけないといけない気がしてくる。
そうだ。昔から俺は愛花のこの落ち込んだような悔しいような、そんな表情に弱い。
何か褒めてやらないと。何か。何かないか。俺はもう一度部屋の中をマジマジと観察する。
アレだ!
「でも頑張ったんだな」
俺は天井の電気を指さし、もう片方の手で黒く塗られた紙を持つ。愛花もその指先に視線を向ける。
「大変だったろ? どうやってあんな高いところにこれを貼ったんだ?」
頬を赤くした愛花が恥ずかしそうに部屋の隅を指さしてポツリと呟いた。
「脚立を持ってきて貼った」
愛花の指先を視線だけで辿ると、部屋の隅に折り畳んだ脚立が立てかけてあるのが目に入った。
「この黒いのはマジックか?」
コクンと頷く愛花。
「うん。頑張った……」
「それにアレは魔法陣か? 自分で書いたん……だよな?」
「うん。それはすごく大変だった」
「上手に書けたな」
「3日……」
「3日かかったのか?」
「すごく大変だった。大きい魔法陣がほしかったから……。でも上手にできた……」
控えめに、だけど誇らしげに愛花は答えた。
なんなんだ、コイツのこの情熱は。そして画力がハンパない。
「そっか」
「うん」
愛花は抱えた膝に顔をうずめて、うりうりと額を膝にこすりつけた。
いったいどこに照れる要素があったというのか。
ん? 指先に黒いものが……。
パラパラと愛花の指先から黒いものが散っている。
「その指のは?」
愛花が自分の指先をジッと見つめた。俺の口元に指を差し出す。
「ハルキ……。食べる?」
じっくり見ると黒く染められたスナック菓子のようだ。
「……なんで黒くなってるんだ?」
俺は口に近づけられたスナック菓子を匂ってみた。
「!! くさっ! 生臭っ!! 何したんだ?」
愛花は臆さず自分の指先にはまった、スナック菓子を口に入れた。への字に唇を結ぶと。
「変な味。口の中が生臭くなった」
「どうやって黒くしたんだ?」
「イカ墨に浸した」
「いったい何匹のイカを捌いたんだ?」
「ハルキ……。イカは匹で数えない。杯で数える」
今それどうでもいいよ!
「何杯捌いたんだ!」
「10杯。疲れた……」
俺は目を閉じた。せっせとイカを捌いてイカ墨をスナック菓子に浸している愛花が瞼の裏に浮かぶ。
スナック菓子をイカ墨に浸している間に、プリントアウトした気持ちの悪い写真と、気味の悪い絵を壁に貼る愛花。
魔法陣は3日前から仕込んでいたのか。小さい体で、脚立の上でもきっと背伸びをして……。でも異世界には行けなくて。
あぁもう! 意味わかんねぇけど一周回ってかわいいじゃねぇか!
「すごく頑張ったけど、行けなかった……。ちょっと行ってくる」
愛花は肩を落としたまま、押し入れへと消えて行った。
ショックだったんだな……。
愛花は落ち込むと押し入れに逃げる癖がある。押し入れの中でどう過ごしているかは分からないが、きっと一人になりたいんだろう。
愛花のことならなんでも知りたいが、今はそっとしといてやろう。
見渡すと荒れ果てた室内。焦げ付いた魔法陣は踏み跡でぐしゃぐしゃに折り曲がっている。雑然と貼られた絵。剥がれたカーテンのガムテ。
愛花の部屋にポツンと一人取り残された俺は叫んだ。
「誰がこの部屋掃除するんだよぉぉぉぉ!!!」
――片付けたのはやっぱり俺だった。結構時間がかかったのに愛花は押し入れから出てこなかった。だから俺は愛花に「帰るよ」と一言声をかけて帰った。
***
あれは高校に入学したばかりの頃だ。いつものように学校帰りに愛花の部屋に訪れたときのこと。いつものたどたどしい口調じゃなかった。
あぁ。昔の愛花だ……。そう思って嬉しくなった。
赤らめた頬で興奮した表情の愛花が俺の目の前に一冊の漫画を差し出した。
「ハルキ! これ!」
俺は差し出された漫画をパラパラと捲りながら聞いた。
「これがどうかしたのか?」
「ここ見て!」
愛花が指さしたコマには、手をつないだ男と女の後ろ姿。モノローグには――
『誰もいない一人ぼっちの世界だった。だけど、彼が教えてくれた。一人じゃないんだって……』
よくありそうな少女漫画の言葉だった。これが何だと言うんだ。
しかし、愛花はとてつもなく感銘を受けたらしい。
それは一瞬だった。「ね?」と俺を見つめた愛花は最近では見たことのない、晴れやかな笑顔をしていた。その笑顔に釘付けになりそうになったが、必死で気持ちを立て直す。
「何が『ね?』なんだ?」
「彼氏ができたら淋しくない」
愛花は小学校六年生の時から家から出られなくなった。
とにかく大好きな愛花と遊びたい俺は、それから毎日家に遊びに行った。
外にも誘ってみたけれど……。
今は、少しでも外の風を優しく届けられたらと思って、毎日帰り道に愛花の家に寄ることにしている。
少しでも家から出ることに関心が出て、一歩踏み出すことができたら……。
そんな愛花が今、彼氏というものに興味を抱いたようだ。愛花が大好きな俺の心は、台風が来た時のようにざわざわと落ち着かなかったが、『愛花ファースト』と血が出るくらいの筆圧で、心に刻むことで、気持ちを立て直した。
きっかけは何でもいい。とりあえず、外の世界に興味を持ってくれさえすれば。そう強く思い込む。
しかし、愛花贔屓の俺ではあるが、彼氏の前に友達を作った方がいいんじゃないかと思ってしまう。いや、まずは家から出ないと。お前のリハビリステップはおかしい。と思ったが久しぶりに感情ののった愛花の口調が嬉しくてケチをつけることはできない。
それに何がきっかけで愛花の世界が開くかも分からない。
「……彼氏が欲しいのか?」
愛花は首を傾げながら右上をじっと睨み考えこんでいるようだった。
「ちょっと違う。一人じゃない世界が欲しい」
「俺がいるだろ!」
愛花の言葉に長年秘めてきた気持ちがとっさに口をついて出てしまった。
やべぇ。今じゃないのに。愛花が俺を男として意識してくれるのを待とうと思っていたのに。ワタワタと焦る俺に愛花が言った。
「ハルキは……なんか違う」
はい。終了ー。
はいはい。恋じゃないやつね。
……なんでかな。おかしいな、目の前に水たまりがみえるんだ……。
とても近くに見えるんだ……。
「ハルキ? 聞いてる?」
愛花の問いかけに我に返る。
「おう。聞いてる」
「だから私はKDNY作戦にとりかかろうと思う」
「KDNY作戦……?」
「K彼氏がDできるならNなんでもYやります作戦」
色々言いたいことはあるがとりあえず……。
「KDNYって言いにくいんじゃないか?」と言う俺の助言? により、討論に討論を重ねコードKに作戦名は改名された。
***
「まさかここまで本気だったとはな」
下校中の夕焼けを遠くに見つめながら、のんびりと歩を進める。道の向こう側には小さい頃、愛花とよく遊んだこじんまりとした公園。ブランコに砂遊び場に滑り台。遊具に夢中になってはしゃぐ子どもたちが見える。
「どっちが高くこげるか競争ね」
「今度はお城を作ろう」
「ちょっとー。順番守ってよー」
俺と愛花もあんな風に遊んだな。たまにケンカもしたりして。
微笑ましい気持ちで公園内の景色を見渡す。
あぁ、懐かしい。入り口の侵入禁止ポール。車が入れないように鉄棒みたいな形のやつだ。昔、愛花が「前回りできるようになったよ! はるき見てて!」って言って、侵入禁止ポールを使って前回りしたな。
それで、愛花の胴の長さよりポールの方が低くて前回りしたまま、下のコンクリートに頭ぶつけて失神したんだった。俺は慌てておばちゃん呼びに行って……。
ホントやんちゃで馬鹿でどうしようもないヤツだったな。
「おい! ここがいいんじゃねー?」
「あー、本当だ。ここならこっそり作れるねー」
「せっかくなら大きいのにしような」
そんな声を辿ると、スコップを持った子どもたちがわらわらと集まって土を掘っている。
落とし穴を作ろうとしてんだな。そう察した俺は「悪ガキどもめ」と心の中で茶化した。
***
「はい、アイカ」
帰りに愛花の部屋に寄る。ノックに返事があった。今日はまとものようだ。
扉を開けて部屋に入ると、パソコンの画面をなにやら必死に見つめている愛花がいた。
「何見てたんだ?」
振り返った愛花は真剣な眼差しを俺に向ける。
「ハルキ……。MPを上げるためには……」
もう異世界ネタは勘弁してくれ!
俺は、MPを上げる方法とMPを上げるためにはまずゲームの世界に行かなければならない。だけど昨日のことを考えるとゲームの世界にも行けない。MPを上げるための異世界にそもそもいけない。現実世界でのMPの上げ方は……。
とかなんとかボソボソ早口で話す愛花の両肩に手を置き必死で説得した。
「ここは3次元の世界だ」「もし異世界に行けたとしたら、ここがすでに異世界だ」と。
昨日みたいな危ないことはもうごめんだ。