⑯ 駅でのできごと
思いのほか、うまくいったのは意外だった。また顔色が変わらないか、震えたりしないか、愛花と何気ない会話をしながらも全神経の注意を愛花に向けた。
五時出発の駅までの道のりは三回続けてなんなくクリア。始発から二本あとの電車に十分揺られて図書館の最寄り駅に到着。ガラリと人気のない電車に乗っている間も愛花の様子は変わらず、亜紀ちゃんがどうしたこうしたと話してくれる。四時に起床してナイトと散歩していると話したら、「すごい、早起き! マジ尊敬だよー。私朝弱くてさー、隆に毎朝起こしてもらってんの」と褒めてくれた、と頬を染めて教えてくれた。
隆……。あいつも確か朝弱かったような……? 宿泊学習のとき全然起きなかったぞ?
思ってもみなかった方向からの隆の健気情報の提供を受けて、今度からかってやろうと決意を固める。
愛花と隆の話を総合して思う。俺の初対面の印象では亜紀ちゃんはお調子者な子だった。だけど、話を聞いているうちに、色々考えて相手の琴線に触れないように気を付けている、頭の回転の速い子なのかもしれないと思うようになった。もちろん、愛花の浮世離れしたところには驚いてはいるだろうが、だからと言って「どうして?」とか、「なんでそうなるの?」とか突き詰めるようなことはしない。単純に自分と違う価値観を楽しいとも思える柔軟で聡い子だ。
そう隆に評したことがあるが、それは「いやいや、深読みしすぎ! あいつそんな賢い奴じゃないって。何て言うか好奇心旺盛なの。そんな考え方あるんだー! って純粋になんも考えないで楽しんでるだけ」という言葉によって一蹴された。
……亜紀ちゃんと付き合いの長い思慮深い隆がそう言うのならそうなのだろう。いづれにしても、亜紀ちゃんのおかげで愛花は楽しそうだ。もはや、信者なのではないかと疑ってしまうほど亜紀ちゃんに心酔している。
駅の二階の空中歩廊を渡って図書館の前まで行く。昨日久しぶりにゆっくりと亜紀ちゃんとチャットできたという愛花の亜紀ちゃん話は止まらない。実力テストがあってしばらくはまともにチャットができなかったそうで、愛花の亜紀ちゃん話にいつもの五倍以上は熱がこもっているのが分かる。
しかし、口数が少ないと思っていた愛花は単純に話すことがなかっただけなんだと改めて思った。俺との会話を両親にしていたみたいだし、オンライン授業では話すほどのことがなかっただけなのかもしれない。その証拠に亜紀ちゃんという楽しい友達ができてからは、よくしゃべってくれるようになった。
なんとも呆気ないことに愛花が亜紀ちゃん話に夢中になっている間に図書館に着いた。愛花が図書館の前に着いたことに、立ち止まっている俺に後ろからぶつかる形で気付く。
「あれ? ついた……の……?」
「……おう。やったな!」
「そう……。ふふ、ふふふふ。やった……」
俺と同じく呆気にとられて立ち尽くしていた愛花が表情を明るくしていく。両頬に手を充てて信じられないといったように小さく喜ぶ。
もちろんまだ図書館は開いてないから入れないし、どういうタイミングで恐怖に駆られるか分からないから真っ直ぐ家に送ることにする。
「今日はこれで帰ろうな」俺は愛花の頭をポンと優しくたたく。
不満そうに愛花が目を細める。
「帰る……?」
「うん。せっかくここまで来れたんだから今日はこの大成功を胸に刻んで帰ろう。きっと明日の練習の糧になる」
「わかった……」
しょんぼりする愛花はかわいそうだったけど、このあと帰るまでが訓練だ。愛花のかわいさに絆されているわけにはいかない。今日はいい思い出だけを持って帰りたい。明日のために。
家に愛花を送っていくと、まだ6時過ぎだと言うのにおばちゃんがバタバタとスリッパの音を鳴らして出迎えてくれた。心配そうに「どうだった……?」と聞く声は不安と期待に溢れていて、おばちゃんの鼓動が俺にも聞こえてきそうだった。
愛花が笑顔で「亜紀の話をしてて……気付いたら、着いてた」と答えて、俺が隣でグッと親指を立てるのを見て、おばちゃんの緊張の糸が緩んでいくのが分かった。「そう……そうなの……」と愛花を抱き寄せた。愛花は抱き寄せるおばちゃんをそっと引き離し、キリっと強い意志の宿った目で「まだ……一回目、だから……」と言うと、おばちゃんは泣きそうな笑顔で「そうね」と笑った。
翌日、翌々日と朝五時スタートの訓練がなんなくクリアできて、その帰り道に愛花が言った。
「明日も、今日と、同じことする……」
三回クリアしたから本当なら一時間遅いスタートにする予定だ。
愛花は早く亜紀ちゃんと図書館に行けるようになりたいんじゃないか……? どうした……? そう思いをめぐらせていると。
「試したいことが……」
「試してみたいことがあるのか?」
「そう……」
「メガネ……外して……」
「メガネ外して今日と同じことする?」
「うん……いい……?」
愛花のメガネは伊達メガネだ。伊達メガネといっても度が入っていないんじゃなくて、おばちゃんが昔使っていた度の入っているメガネで、視力の良い愛花は逆に視界がぐにゃりと歪むものになっている。愛花は宅配便の受け取りやナイトの散歩のとき、試験で学校に行くときとかの他人と遭遇する恐れのある時は敢えて視界を歪ませて歩いている。
当初危ないから使うなと、俺もおばちゃんも説得を試みたが「これをしていたら行けそうな気がする」という愛花の控えめなようで強固な訴えに負けて黙認することになった。事実、ナイトの散歩に行けるようになったときもメガネをしていた。
……あの時は驚いた。朝の五時前におばちゃんから「愛花がいないんだけど何か知らない?」と電話が来たのだから。玄関の扉の開く音で目を覚ましたおばちゃんは不審に思い、おじちゃんを盾に家中を見て回ったところ、愛花がいないことに気付いたとのことだった。電話を受けた俺は飛び起きて愛花を探しにおじちゃんと手分けして走り回った。
おばちゃんは「何かあったのかしら」とおろおろとして家の中をうろうろして混乱していた。愛花が帰ってきたら連絡してくれるよう、おじちゃんが家で待機させた。おじちゃんと俺は「なんでこんなことに」「いったいどこに……」と近くを探し回った。十分ほど探し回って汗が滝のようになったころ、おばちゃんから連絡があった。……愛花が普通の顔で帰ってきたと。
愛花の家に行くとおばちゃんは「どこに行ってたの」とボロボロと泣きながら愛花を抱きしめ、おじちゃんは安心したように「無事でよかった」と愛花の肩に手を置いた。俺はその光景を少し離れたところから息を切らしながら見ていた。ポツリと「今なら行けそうな気がした」と言う愛花に拍子抜けしたのを憶えている。一言言ってからにしてほしかった……。
そんな思い立ったら行動する愛花が、一緒に訓練してほしいと言うくらいなのだから、今回のミッションは愛花なりにも不安いっぱいのはずだ。そんな状態なのにお守りであるメガネを外して挑戦してみたいと愛花が言う。それをクリアして初めて1段階オールクリアなのかもしれない。もしかしたら単純に視界が歪んだままの(愛花にとっては)長距離の移動は気持ち悪くなるのかもしれない。それに、愛花にとってのお守りのメガネは俺にとっても大事なお守りだ。
何はともあれ、予定がうまくいったときも、うまくいかなかったときも、予定と違うことをするときも、全てにおいておばちゃんへの訓練の報告が義務付けられている俺は「おばちゃんに相談してからな」と愛花の被る野球帽にポンと手を置いた。この報告は責任を分散するためにも必要とのことだった。なんにしても俺に全てを委ねてしまうようなことはしたくないとのおばちゃんとおじちゃんの判断だ。そしてやっぱり「ハルキとなら行けそうな気がする」という愛花の頑なな意思に負けたとも、親として頼ってもらえないのは淋しいとも言っていた。
『お母さんメガネなしで行っていいって。ハルキ明日いい?』スマホが愛花からのメールを告げる。俺は『大丈夫だよ。明日いつもの時間にな』と返した。
翌日、メガネをしていない愛花が玄関前で待っていた。ナイトの散歩を終えて、一緒に一度帰り、ナイトを置いてまた出かける。メガネがないことが不安なのかただの癖なのか、愛花は時折下がってくるメガネをあげるようにクイッと緩く握った手でツルの部分を上げるような仕草をしては、メガネをしていないことに気付いてそっと手を下ろした。そして行き場のない手を縋るように俺の手に伸ばした。
愛花の手を取り、手を繋いで2人並んで駅へと歩く。だんまりの愛花の緊張を少しでもほぐそうと亜紀ちゃんの話をふってみる。
「昨日は亜紀ちゃんとチャットしたの?」
俯いてとぼとぼと歩いていた愛花の顔が俺を見上げ、ぱぁっと明るくなっていくのが分かる。
……本当に亜紀ちゃんは愛花の太陽だな。こんなに愛花の表情に光をさしてくれるのだから。
「した。大学は、情報系のところに行きたいって……。亜紀はすごい。なんにでも前向き」
「そっか。もう大学の事考えてんだな」
「うん。スマホの……アプリ、作りたいって……ゲーム、好きって」
「よく分かんないけど、プログラマーってパソコンめっちゃカチカチ打って、だーっとシステムを構築していくイメージあるわ」
「そう……。だから、タイピング……早くなりたいって……」
「そっかぁ。そう言えば、チャット相手探してたのもそういうのだったな」
「そう……。亜紀は、ひまわりみたい……。太陽から目を逸らさないで……ずっと追いかけてる……」
「ははっ。太陽神だったり、ひまわりだったり、亜紀ちゃんも忙しいな」
「亜紀はアイカの太陽。だけど、亜紀にも太陽があって、夢中で追いかけてる」
「じゃあ、愛花は亜紀ちゃんのひまわりだな」
たまには俺のことも見ろよ。そして俺の太陽はお前で、俺はお前のひまわりだぞ。と思いながら黙っとく。
「そう。……ずっと、仲良くしてほしい……」
「きっと、ずっと仲良くしてくれるさ」
「そう思う……?」
「うん」
愛花がこんなに頑張ってるんだから。
愛花が俺を見上げてクシャリと笑った。そんなやりとりをしながら歩いていると、またしてもあっさりと駅までクリア。図書館までもなんなくクリアできた。
「着いた……」
「着いたな……」
こんなにもとんとん拍子で行くとは俺も愛花も思っていなかったので、少し拍子抜けする。あの日、駅まで行ったときは確かに愛花は不調を示していた。それは紛れもない事実だ。あのときと、今日までの四回の訓練との条件の違いに何か愛花の気分を悪くするヒントがあるんじゃないか……? 考え込む俺のシャツを愛花が引っ張った。
「明日、三十分、遅らせる……いい?」
「うん」
時間幅を縮める分には問題ないだろう。
それから、三十分ずつ時間を遅らせて、三回。メガネなしで四回目を繰り返してきた。途中俺や愛花が風邪をひいたり、悪天候や試験勉強で訓練を休むこともあったが、休みをはさんでも愛花が立ち止まったり、体調を崩すことはなかった。
今日は俺の学校の創立記念日を使って、平日のラッシュアワーの時間を試してみる。というのも俺には一つの懸念があったのだ。もしかしたら、愛花は人ごみがだめなのかもしれないと。おばちゃんにその可能性を話してみた。早朝のナイトの散歩も大丈夫。土日の午前中も大丈夫。まだ段階的に午後からの時間は試せていないのだが、一番最初に図書館まで行ったときと訓練で行ったときとの違いはラッシュアワーの時間帯で人が多いかどうかが考えられる、と。
愛花に話すと変に意識して、何も起こらない先に緊張してしまうかもしれない。だから、おばちゃんにだけこの可能性を話してみた。そのうえで、平日のラッシュアワーの時間帯が大丈夫か試すかどうかの判断を仰いだ。おばちゃんは「大事なときだから慎重に考えないと」と判断を保留にして、おじちゃんとの相談の結果を伝えてくれた。「また愛花が『行けるかも!』と一人で飛び出すことがあるかもしれない。愛花自身も大丈夫かどうか知っておく必要があるから。……愛花が春樹くんと二人で行くって聞かなくてごめんなさい」とゴーサインを出してくれた。正直、俺も愛花の思い付きに基づく突発的な行動が心配だった。「おばちゃんその日、夜勤明けで家にいるから何かあったらすぐ電話してね」とバックアップ付きで安心だ。
お守りのメガネをバックに忍ばせた愛花は心もとない様子で俺の手をとる。手を繋いで少し安心したように、昨日も亜紀ちゃんとチャットして、亜紀ちゃんをチャージしたと愛花は嬉しそうに破顔する。
駅に着いて改札を行き交う人が、電車の発車時刻に合わせて増えていく。学生服をきた男女が親密そうに話している。スーツを着た女性がスマホを見ながら改札を抜けていく。スーツを着た男性も腕時計を見ながら慌ただしくホームへと走っていく。
楽しそうに話していた愛花の言葉が止まって、俺の手を握る愛花の掌が汗ばんでいくのに気付いた。俯いて野球帽のツバに隠れた愛花の顔を覗き込む。真っ青になっている。肩がガクガク震えだし、息が切れ切れになっている。
「愛花……?」
「切符……」
真っ青の顔に無理やり笑顔を張り付けた愛花がそう答える。しかし、小刻みに震えた足は前に出ない。こんな状態の愛花にかけれる言葉は一つだけだ。
「帰ろ?」
「え……?」
青ざめた顔で俺を見上げたかと思うと、脱力したように握っていた手は離れ、すぅーっと意識を手放していくのが分かった。俺は後ろに倒れていく愛花を支えて横抱きにして愛花に呼びかける。愛花はうっすらと目を開けて「ハルキ……」と応じたが血の気がひいたままの状態は変わらない。
駅から出たところにあるベンチまで運び、俺にもたれかかるように座らせる。愛花の青白い顔色に虚ろな視線を目の当たりにして、背中を生温かい汗がつたう。どうしよう。どうしようとそればかりが頭の中を占拠して、心臓が自分の在り処を主張するようにドクドクと走る。駅員に声をかけようにも、駅の外のベンチで愛花を一人にするわけにもいかない。俺の目が届かなくなる。
何かに縋りたいけど、縋れるものが見つからず、肩にもたれかかる愛花の頭を撫でながら、視線を彷徨わせる。真っ白になった頭の中にふいにおばちゃんの声が蘇る。
「おばちゃんその日夜勤開けで家にいるから何かあったらすぐ電話してね」と言われていたのを思い出して急いで電話をかけた。
ゆっくりと焦点を合わせて意識を取り戻した愛花は声も出さずに涙を流して「ダメだった……」と呟いた。「ダメじゃないよ」という俺の言葉に悔しそうに首を横に振る。愛花の肩に腕を回して静かに肩をポンポンと叩くことしかできなかった。
電話のあとすぐに家を出たのだろうおばちゃんはエプロンをつけたままだった。
「おばちゃん……ごめん……」
ホロホロと泣き続ける愛花を横に情けない声をだす。なんだか俺も泣きそうだった。なんの役にも立てない自分が悔しかった。俺が愛花のお守りになれたらいいのに。
「何言ってるの! 謝ることなんて何もない」
そう言っておばちゃんは手際よく愛花を車の後ろのシートに寝かせた。
次話は「17 嫌になった」です。




