⑫ 壁
「俺はキモくない。キモくない。キモくない。絶対にキモくない」
愛花にバレていると知ったあの日からも、なんとなくやめることが出来ない俺だけのルーティン。なぜやめることができないかについては考えないようにしている。同じ幼馴染属性の隆から見てもキモい俺って……。いや、考えない。考えない。
「はい。アイカ」
「おじゃまー」
部屋に入ると愛花はパソコンに夢中だ。最近はずっとこんな感じだ。思っていたよりずっと早く愛花と亜紀ちゃんは親交を深めたのだ。こうなるのは自然なことだったのかもしれない。もともと愛花は人懐っこい子だったのだから。
「また亜紀ちゃんと話してんの?」
「そう」
「どんな話してんの?」
「……将来の話とか漫画の話とかリュウのこととか……」
リュウ? 隆のことかな?
「それたぶんタカシだよ。リュウとも呼べるけど。それと、人の彼氏なんだから呼び捨てはやめた方がいいんじゃないか?」
てか、俺以外の男を呼び捨てにすんなよ。にごった独占欲が俺の胸を占拠する。
「そうなの? 亜紀は気にしてない風だったから……」
「亜紀ちゃんのことももう呼び捨てなの? 仲良くなったんだな」
愛花の口から第三者の名前が出て来るなんて……。なんか微笑ましいような、くすぐったいような気持ちだ。
「うん。亜紀もアイカのことアイカって呼ぶ」
「そっか」
最近の愛花はなんだかずっと楽しそうだ。無表情なことが減って、毎日の会話も増えた。亜紀ちゃんとチャットの約束をしているときはそわそわして落ち着きがない。なんなら「邪魔だからハルキは帰って」って声が聞こえてきそうなくらいだ。もちろんそんな心の声は受け付けない。
愛花の話を聞いていると亜紀ちゃんて子は本当に漫画が好きなようで、同じく漫画を好きな愛花とはおもしろい漫画の情報交換をしたり、無料で見れる漫画サイトを教えてくれたりするらしい。
ブラインドタッチができるようになりたかったのは、将来プログラマーになりたくて、そのために今できることを考えたらタイピングスキルをあげることだと思ったらしい。
隆からは、亜紀ちゃん側の話を聞くことがあるが、愛花のことは好印象のようで、いつか一緒に遊びたいと思ってくれているらしい。
愛花が引きこもりだとか、ちょっと変わっているとか伝わっていたら嫌だなと思っていたが、隆はそういうことは何も亜紀ちゃんに言っていなくて、俺が愛花に亜紀ちゃんのことを話した程度の情報しかしていないみたいだった。
隆に「お前、前に愛花のこと変わってるって言ってたけど、そういうこと亜紀ちゃんにも言ってんの?」て聞いたら「いんや、何も。それは俺が思っただけだし、今からチャットすんならそれでお互いにどんな人間か知っていけばいいじゃん。知ってることが増えると会話が減るかもしれないだろ。それに亜紀も『自分で知りたいから他の意見とかいらない』って言ってたし」ということだった。
だから、俺は本当に安心して愛花と亜紀ちゃんの遣り取りを見守ることができた。
それに亜紀ちゃんは本当にコミュ力が高いようで愛花がツッコまれて困るようなことは言わないみたいだ。正確には言ってしまったとしても切り替えるのが上手みたいだった。前にどこの高校に通っているかって話になったとき愛花が通信制と答えたが『なんで通信制なのか』ではなく『通信制ってどういう授業スタイルなのか』という話題になったらしい。普通なら『なんで通信制なのか』の方に興味を持ちそうなものなのに、そういう邪推はしないようだった。
今は愛花が英会話ができることを知って『ゆくゆくは英会話チャットできるといいねー』なんて言ってくれているらしい。
隆様々だ。いや、亜紀様々だ。なんて良い子なんだ。
人が人と関わると言うことは、人を傷つけることを、人に傷つけられることを受け入れることかもしれない。それは家族でも友人でも変わらない。ただ、傷つけあうだけの関係じゃなくて、優しく労わりあって慰めあって、喜びあって。そういう一方的じゃない関係になることができたら孤独を感じることは少なくなるんじゃないかと思う。
愛花にもそういう関係の人ができたなら、なんて素晴らしいことだろう。
愛花の世界の輪っかがどんなに広がっても俺は愛花の一番近くにいるって決めてるけど。愛花の世界が広がることを望みながら狭いままの、俺の目の届く範囲にいつまでもいてほしいとも願う。愛花が大事だから色んな世界を見て欲しいし、愛花が大事だから今より広いところには行ってほしくない。
そんな矛盾をずっと抱えている俺は愛花の目にどう映っているのだろうか。
***
「俺はキモくない。キモくない。キモくない。絶対にキモくない」
ペチコンと両頬を叩き手形のついた顔で愛花の部屋の扉をノックする。
「はい。アイカ」
ガチャリと扉を開けたのは俺ではなく愛花だった。
「どうした?」
「お願いがある」
「なんだ?」
「今度、亜紀と出かけることになった」
すげぇ。亜紀ちゃんのコミュ力。愛花に外出の許可をとらせるなんて。
「大丈夫か?」
「わかんない」
愛花は首を横に振って続ける。
「だから、練習したい」
「練習?」
「うん。亜紀と約束の時間帯に外に出る練習」
「いいよ」
「じゃあ、明日学校終わったらいい?」
「今日でもいいぞ」
俺は突然のデートの誘いに舞い上がって前のめりになる。
だが愛花はまた首を横に振る。
「それはアイカの心の準備ができてないから明日おねがい」
「分かったよ」
翌日、愛花は玄関先で俺の到着を待っていた。学校を出る前に愛花にメールを送ったんだ。『今から学校出る』って。もうこれは「おはよう」から「おやすみ」までメッセージを交わし合う彼氏彼女に他ならない。
亜紀ちゃんとのデートの予行演習とはいえ、俺には降ってわいた天国。サンクチュアリ。あぁ。生きててよかったぁー。
「行こうか」
「うん」
「大丈夫そうか」
「たぶん」
差し出した俺の掌に愛花の小さい掌が重なる。手を繋いで家を出るなんて俺たちはやっぱりカップルだ。恋人だ。心の臓が跳ね上がって俺より先に前を歩きだしそうな勢いだ。
明日亜紀ちゃんと行く予定の図書館を目指してレッツゴーだ。
愛花は恐る恐る玄関の入り口をまたぐ。大丈夫なようだ。よし、この調子なら……。
「大丈夫か?」
「大丈夫だからあんまり聞かないで。余計に緊張する」
「悪い」
「うーうん」
玄関を出たところを左に曲がって駅へと向かう。二駅分電車に乗って改札を出たすぐのところが目的の図書館だ。一歩一歩体調と相談しながら歩く愛花。掌に汗をかいてきているのが分かる。「大丈……」と言いかけて踏みとどまること数回、なんとか駅に辿り着く。
電車は少なくともここ五年くらいは乗っていないはずだ。大丈夫だろうか。汗ばんだ愛花の掌から緊張が伝わってくる。俺の肩くらいの身長の愛花の表情は更に麦わら帽子で隠れていて俺からは確認できない。何か喋った方が気がまぎれるのだろうか、それとも何も話さない方が緊張の糸が切れなくていいのだろうか。黙ったまま、だけど頭の中はフル回転で意識を愛花だけに向ける。
乗車券の買い方を教えて、改札の通り方を俺の見様見真似で後をついてくる。改札を抜けるために離した手は愛花の意思によってすぐに元通り繋がれた。
ホームへ向かうため階段を上る。学生の帰宅ラッシュで人が込み合っている。一番人の列が少ない車両に並ぶ。
「電車が参ります。黄色い線の内側に並んでお待ちください」
ホームにアナウンスが響き渡る。「電車くるよ」とつないだ手を軽く引っ張るがツンと抵抗を感じた。
「愛花?」
顔を上げた愛花は血の気が引いて目が潤んでいた。
俺は愛花の肩を抱き、ベンチへと愛花を連れて行った。
「座ろう」
「え?」
「ひどい顔色だ。今日はやめとこう」
青白い顔のままの愛花が答える。
「でも、明日亜紀と約束してるから」
「亜紀ちゃんはそんな顔色の愛花が来たら心配すると思うよ?」
「え? ……そんなにひどい……?」
両頬を掌で押さえて自分の表情を確認するように顔のあちこちを触りながら俺を見上げる。
「ひどいって言うか、体調がすごく悪そうな顔してる」
「そうなの……? 大丈夫……」
「その顔色見て大丈夫と思う人はいないと思うよ」
愛花の顔色がますます悪くなっていく。もう青いじゃなくて白いといっていいほど血の気がない。
「なぁ、愛花。約束って確かに大事だけど、お互いに都合が良くて体調も良くないと結果的に楽しめないんじゃないかな。少なくとも俺はそうだよ」
「そうかな……」
「そうだよ。体調悪いなら家で寝ててほしいし、無理に出て来てもらっても嬉しくないよ。調子悪いのかなって思ったら気も使うし。ちっとも楽しくない」
愛花にとってはちょっとキツイ言い分かもしれないが、それでも伝えなければいけないことはある。
「……楽しくない……?」
「楽しくない」
俺はキッパリと言った。
「でも、初めての約束なのに気を悪くしないかな?」
「初めての約束に青白い顔で現れたら次誘いにくくなると思う」
「……そう」
「そう。愛花。頑張ってここまで来れたんだから。ちょっとずつ行ける範囲を広げて行けばいいじゃないか。ゆっくりやって行こう?」
愛花の目に涙が貯まって一雫また一雫と頬を濡らしていく。
「わかった……」
帰り道、俺と愛花の手は繋がれたまま、だけど来た時みたいにすぐ隣には愛花はいない。少し後ろを俺に手を引かれるように肩を落として付いてくる。
愛花。大丈夫。大丈夫だから。と心の中で何度となく呟く。今日がだめでも明日。明日がだめなら明後日。そうやってここまで来たんじゃないか。愛花ならできるよ。そんな無責任な言葉を泣きじゃくる愛花にかけることは到底できなかった。
「ハルキ……今日はありがとう」
家の玄関先でなんとか愛花が言葉を絞り出す。
「チャットでお断りするね」
「ごめんな。俺なんにもできなくて」そんな無意味な言葉を飲み込んで、頭をポンポンと叩く。
俺は何もできない。あの時の悲鳴みたいな叫びを、ガクガク震える小さい肩を知っているのに、電車にさえ乗せてやれない。
ごめんな、愛花。愛花ごめん。守ることもできなかったくせに、それでも今も傍にいる。俺が今しているのは、愛花の進みたい先に立ちふさがる壁でしかないのかもしれない。




