あなたがまるごと愛おしい
粗方話し終えた蘇芳は、ふぅ……と長い溜息を吐いた。
「家族と離れて暮らして数年後、兄が神子に選ばれて、俺は兄と共に神域へと移り住んだ。だが、それでも祖父も両親も、俺に連絡一つくれなかった。兄には……手紙をくれるのに……」
蘇芳は苦笑いを浮かべる。
「今にして思えば、あんな酷い仕打ちをされても、俺はとにかく必死だった。祖父に、父に、母に、認めて欲しくて、褒めて欲しくて……心のどこかでは家族に愛して欲しいという気持ちがあったのかもしれないな。だから、未だに兄にだけ届く手紙が羨ましいと思ってしまうのだろうな……」
思わず未練がましいなと、蘇芳は自嘲する――しかし――。
「っ……すおっ……さまっ……」
「紅殿……!?」
蘇芳は震えるその声を聞いた瞬間、目を剥いた。
隣を見れば、蘇芳の手を握り締めたまま漆黒の瞳からぼろぼろと大粒の涙を零しながら、蘇芳を見つめる紅玉の姿があった。
普段、決して人に涙を見せようとしないあの紅玉が、人目を憚らず大粒の涙を零している事に蘇芳は動揺する。
「紅殿、すまん……! 嫌な話を聞かせてしまったな。申し訳ない。気分が悪かっただろう」
泣いている紅玉にどうすればいいのか蘇芳は慌てふためく。
しかし、紅玉はそんな蘇芳に両腕を伸ばし、言った。
「あ……の……抱き締めてもいいですか?」
「……はっ!?」
紅玉は涙を零しながら蘇芳の手をもう一度握り、至って冷静に言葉を続ける。
「わたくし、蘇芳様を大変尊敬しております。真面目で、真っ直ぐで、お優しくて、周りをきちんと見てくださって、細かい配慮をしてくださる貴方を、わたくし、大変尊敬しております。お話してくださった事は、酷く辛い事だったと思います。わたくしも苦しくて、悲しいです……でも、幼い蘇芳様が必死に頑張った事が今の蘇芳様に繋がると思ったら、幼い蘇芳様も今の蘇芳様も、まるごと愛おしくて愛おしくて……」
蘇芳の手の甲を撫で擦ると、紅玉は再度蘇芳に両腕を伸ばす。
「もし過去に戻れるのなら、よく頑張りましたねって褒めたいです。生まれてきてくれてありがとうってたくさん抱き締めてあげたいです……だから、今の貴方を抱きしめてもいいですか?」
その言葉を聞いた瞬間、蘇芳は頭が真っ白になった。
そして、ほぼ無意識に紅玉のその腕を引くと、紅玉の身体を己の胸の中に誘い、両腕で閉じ込めた。
あまりに一瞬の出来事に紅玉は涙で濡れた瞳は思いっきり見開いてしまう。
しかし、蘇芳はそんな紅玉に気付く事も無く、その逞しい腕で紅玉の身体を抱き締める。
「貴女はっ、どうしていつも俺の欲しがっていたものを全部くれるんだ……っ!?」
滑らかな漆黒の髪が頬に触れ、仄かに香る花のような香りが鼻腔を満たし、全身に感じる温かく柔らかな紅玉の身体に愛おしさが込み上げて、抱き締める腕に無意識に力が入っていく。
「こんな化け物の俺に微笑んでくれたり、話しかけてくれたり、傍にいてくれたり、それだけで俺は満たされているというのに……更に俺に幸せを与えてくれて、貴女という人は――!」
「――すっ、すおうさまっ、ちょっとくるしいですっ」
トントンと蘇芳の胸を叩いて訴えかける紅玉の声に蘇芳はハッと我に返った。
「すっ、すまんっ!!」
慌てて紅玉を腕から解放した蘇芳は紅玉を見た瞬間、少し後悔した。
そこには顔を林檎よりも真っ赤にさせた紅玉が潤んだ瞳で蘇芳を見つめていたのだから――。
その照れが蘇芳にもうつり、蘇芳もまた顔が熱くなっていくのを感じる。
少し居た堪れない雰囲気の中、先に口を開いたのは紅玉だった。
「え、と……あの、どうか、ご自身の事を化け物だなんておっしゃらないでくださいな。わたくし、前にも申し上げましたが、蘇芳様の見た目はちっとも怖くありませんのよ。むしろ端整なお顔立ちが素敵だと思いますし、ふとした瞬間はとてもお可愛らしいと思っている程ですのよ。ご飯を頬張っている時なんか特に」
「ふふふっ」と楽しそうに語る紅玉を見て、蘇芳は思わず唸り声を上げてしまう。
「ほら、わたくしは見ての通り平凡でしょう? ですから蘇芳様が羨ましいですわ。十の御社にはなかなか整った顔立ち揃いですから余計に。空さんも鞠ちゃんももうすでに将来有望な子達ですし、紫様はあのお顔で何人もの女性を誑かしていますし、晶ちゃんなんて小さい頃からご近所で美少女と名高くて、本当に姉妹か? と聞かれる事も日常茶飯事で――」
「――は――貴女が――――」
「……はい?」
蘇芳が何か言ったのを聞き逃してしまった紅玉は思わず首を傾げた。
すると、蘇芳は金色の瞳で紅玉をキッと見ると、紅玉の両肩を掴む。そして、叫んだ。
「俺は貴女が誰よりも断然に美しいと思っている! 貴女は自分の魅力を分かっていない! 貴女の姿勢は見習いたいほど美しいし、言葉遣いも丁寧で、仕草も綺麗で見惚れてしまう程だ! 貴女は平凡だと言うが、俺は優しいその顔付きも凛とした表情も美しいとしか思えない! だから――」
「まっ、まっ、待ってくださいましっ!!」
紅玉は慌てて蘇芳の口を両手で塞いだ。
その顔は真っ赤を通り越して、汗が流れ落ちていた。
「ごっ、ごめんなさい。もう言いません。卑屈な事はもう絶対言いませんから……!」
蘇芳は口に当てられている紅玉の手を引き剥がすと、思わず笑っていた。
「謝らなくていい。俺も似たようなものだろう?」
「あ……言われてみれば……」
冷静になって考えると、互いに同じような事を言っている事に気付き、紅玉も思わずころころと笑ってしまう。
そんな紅玉を見ていたら、過去の事などもう彼方へと忘れてしまっていた。
「ありがとう、紅殿……話したらスッキリした」
蘇芳はそう言って柔らかく微笑んだ。
「……そうですか」
蘇芳の微笑みを見て、少しホッとした紅玉だが――、石段の上で膝立ちになると蘇芳をその胸に抱き締めた。
「べっ!? べにっ、どのっ!?」
突然の事に蘇芳は目を白黒させ、声が裏返ってしまう。
しかし、そんな蘇芳を気に留めず、紅玉は胸に抱き込んだ蘇芳色の短く硬い髪を撫で続けた。
顔に触れる柔らかさに蘇芳が限界を迎えようとした時――。
「ご家族の事は……簡単に割り切れないと思います……ご家族の愛情を欲していたのなら、尚の事……」
切なげに話し出した紅玉の声に蘇芳はハッとする。
紅玉の顔を見たくとも、しっかり抱き込まれてしまってはその表情を伺い知れない。
蘇芳は大人しく紅玉の言葉に耳を傾けた。
「でも、忘れないでくださいまし。わたくしが蘇芳様の事を尊敬している事を。晶ちゃんや空さんや鞠ちゃんが蘇芳様の事を兄のように慕っている事を。紫様や十の御社の神様達が蘇芳様の事を大変頼りにしているという事を。蘇芳様はわたくし達にとって、かけがえのない人……最早家族ですわ。ですから、どうかもう一人で苦しまないで。悲しまないで。たまにはこうして遠慮なく、甘えてくださいまし」
「っ……」
優しいその声に、温かなそのぬくもりに、己の髪を撫でるその手の感触に――蘇芳は満たされていくのを感じながら、しばしの間、身を委ねた――。
そうしてしばらくして、再び石段の上に並んで座ると、紅玉は言った。
「お家の事情をお話し頂きありがとうございました……辛い事を思い出させてしまって」
「いや、聞いてくれてありがとう。おかげで心の整理が付いた」
「……そうですか」
晴れやかな笑顔を見せる蘇芳に紅玉はホッと息を吐く。
「……ところで、四大華族に関する事で何かあったのか?」
「あ……」
紅玉は一瞬話そうか躊躇ったが、一応四大華族である蘇芳にも全く関係の無い話だったので、軽く経緯を話す事にした。
「実は……わたくし達が追っている術式研究所の生き残りの痕跡が、蘇芳様のお家の分家に当たる方が勤める神域警備部坤区の第三部隊の詰め所で見つかったらしく……」
「なんだと?」
「まだ確証ではないので調査段階です。それで八大準華族、四大華族の話になって、それで蘇芳様のお話を耳にしてしまって……」
「そうだったのか」
紅玉は胸の前で手を握る。
「蘇芳様、お気を付けくださいまし」
「何がだ?」
「まだ確証はないとはいえ、第三部隊に禁術の使い手がいる可能性がございます。そして、第三部隊の隊長である砕条様は随分と蘇芳様を敵対視されていました」
紅玉は可能性でありながらもその不安を口にする。
「もし……砕条様が禁術の使い手だとしたら、蘇芳様をまた傷付けてくる可能性だってありますわ。どうかお気を付けて」
「安心してくれ。俺は神域最強で、化け物だ」
紅玉を安心させるように言ったつもりだったが、蘇芳の言葉に紅玉は目を吊り上げる。
「もうっ! またそんなことおっしゃって!」
そして、紅玉は蘇芳の手を握って言った。
「でも、どうか……油断なさらないで……禁術は本当に恐ろしいのですから」
「ああ、分かっている」
そして、紅玉は蘇芳の手を離すと立ち上がる。
「わたくし、そろそろ昼食の準備をしなくては」
「俺も手伝おう」
そう言って立ち上がろうとする蘇芳を紅玉は首を振って押し止めた。
「蘇芳様はどうかお休みなさっていて。昔の事をお話して、お疲れでしょう?」
反論しようとする蘇芳を気にも留めず、紅玉は身体を翻し、蘇芳から距離を取る。そして、蘇芳を振り返って柔らかく微笑んだ。
「お昼ご飯、腕によりをかけて作りますので、食堂でお待ちくださいな」
そして、紅玉は蘇芳を残し、台所の勝手口を目指して駆けて行ってしまった。
※注意、この二人、まだ付き合っていません