砕条との対立
坤区の神域参道町を蘇芳と手を繋いで歩きながら、紅玉はふと冷静になっていた。
(わ、わたくし、もしかしてとんでもない事を蘇芳様に強要しているのでは……?)
いつもと違う服装で少し動きにくく、先程寂しさを感じてしまったせいなのか、蘇芳とどうしても離れたくなくて、袖を引いたつもりだったのだが、まさかその手ごと握られてしまうとは思わなかった。
今更ながら、少し恥ずかしさが込み上げてくる。
そんな思いを抱えながら、蘇芳をちらりと見上げると、恥ずかしさとは相反する思いを込み上げてくるのもまた事実――。
(安心……します……)
己の体温より少し高い大きな掌の温もりを紅玉は離したくなどなかった。
神域図書館は宮区と坤区と乾区の境辺りにある施設だった為、歩いて数分もしない内に乾区を結ぶ橋が見えてきた。
これを渡り、十分程歩けば遊戯街に辿りつける――そう思ったその時。
「――貴様、蘇芳か?」
そう呼ぶ声に思わず蘇芳と紅玉は振り返った。
そこにいたのは両目を見開いた男性だ。
まず目に付くのはその強靭な身体だ。見事に鍛え抜かれた身体を持ち、腕も脚も胸板も平均より断然に太く、厚い。
髪は耳の横だけが灰色に染まる漆黒。刈り上げられていて、厳めしい印象を更に強くしている。
軍服を身に纏っている事から、神域警備部である事は想像ができた。
非常に逞しい男性である。
だがしかし、蘇芳の方が断然に身体も腕も脚も胸板もその男性よりも遥かに大きく太く厚いものであった。
(普段、強靭過ぎる方を見慣れてしまうと、他の皆様が大分小さく見えてしまうものですね……)
紅玉は男性を見ながら、そんな暢気な事を考えていた。
しかし、男性がギロリとこちらを睨みつけてきた事に、紅玉は一気に気を張り詰める。
「貴様、坤区で何をしている!? 貴様の持場は艮区の十の御社であろう!?」
大股で詰め寄ってくる男性に、蘇芳は咄嗟に紅玉を背に庇いながら男性の前に出た。
「砕条、自分は任務を放棄している訳ではない。神子の命でここにいる」
「フンッ! そんな言い訳が通用するとでも思ったか!?」
砕条と呼ばれた男性はギッと眼光鋭くし、蘇芳の後ろにいる紅玉を睨みつけた。
「神子の命で女とで歩いていただと!? 嗤わせる!!」
「彼女は神子の姉君だ。神子は姉君を心配するあまり、自分に『姉の外出を傍で付き添って欲しい』と命じられた」
蘇芳の言葉に紅玉も驚いてしまう。
てっきり紅玉は、蘇芳が外出しているのは神子に使いを頼まれたからだと思っていたからだ。
(初耳ですわ……!)
紅玉は目をパチクリさせながら蘇芳を見上げる。
その一方で砕条は侮蔑したような目で蘇芳を睨みつけていた。
「全く信用できない発言だな! 先程の貴様らはどう見ても逢引をしているようにしか見えなかったぞ。それにこれから向かう先は方角的に考えて遊戯街といったところだろう。まったく、卑しいな。貴様も、その女も!」
「紅殿を侮辱する発言は撤回してもらおうか、砕条」
蘇芳の殺気が瞬時に露わになったのを感じ、紅玉は慌てて蘇芳の袖を引く。
ふと、背後から嫌な気配を感じ、紅玉が振り返ると、そこには神域警備部と思わしき男達三人が紅玉を見てニヤリと卑しく笑っていた。
状況から察するに、恐らく砕条の部下であろう。
「……卑しいのはどちらだ、砕条」
「フンッ! これは職務怠慢に対する指導だ、蘇芳!」
そう叫ぶと砕条は両手剣を出現させ、蘇芳に飛び掛かった。
ガギンッ! ――と、金属同士がぶつかる激しい音が響き、砕条の攻撃を正面から食らった蘇芳が後方へ押し出される――!
だが、蘇芳は砕条の両手剣の攻撃を両腕に纏った堅固な籠手で受け止めていた。
砕条が悔しそうに顔を歪め、歯軋りをしながら腕に更に力を込める。
しかし、蘇芳は全くビクともしなかった――だが、飛び掛かられた時に刃が当たったのであろう。額に裂傷が付き、血が滴り落ちていた。
「――っ、蘇芳様!」
紅玉は慌てて蘇芳に駆け寄ろうとしたが、その前に男三人が立ちはだかった。
「おっと! 砕条さんの邪魔はさせないぜ!」
「お姉さんは俺達と遊びましょうぜ」
「おい見ろよ、随分触り甲斐のあるモノ持ってんじゃねぇの、この女ぁ!」
酷く下劣な発言に紅玉は思わず眉を顰める。
紅玉の危機に気付いた蘇芳だったが、すでに男三人は紅玉へと飛び掛かっていた――!
「紅殿っ!」
紅玉は男三人をキッと睨む。
真っ先に手を伸ばしてきた男の腕をひらりと避け、そのまま腕を叩き、次の男の腕もはらりと避け、背をトンと押し、最後の男は腕を掴んで、そのまま力の向く方向へと投げる。
気づけば、ドサ、ドサ、ドサと男三人が地面の上へと倒れ込んでいた。
何が起きたのか理解できない男三人達に比べ、紅玉は両手の埃を叩き落とす程の余裕ぶりである。
そんな紅玉の態度に男達は逆上した。
「この女ぁっ!!」
「馬鹿にしやがってっ!!」
「後悔させてやるっ!!」
男達が立ち上がって自分に向かってくるのを見て、紅玉が再び構えた――その瞬間だった。
男達の動きがまるで金縛りにあったかの如く止まる。むしろ息ができない。心臓が鷲掴みされたかのように苦しく、必死に鼓動を打つ。あまりもの苦しみに脂汗が滲み出てくる程だ。
為す術もなく男達は地面へと倒れ伏せ、もがき苦しみながら、男達は己の身に降り注ぐ得体の知れない何かの存在を感じ取っていた。
これは、殺気だ――。
そして、それを理解した瞬間、男達は殺気を放っているその人物を見て、本当に息の根が止まりそうになった。
そこには赤黒い殺気を纏わせた憤怒の形相の仁王のような蘇芳がいた。
相対しているはずの砕条すらも蘇芳から放たれる殺気に思わず怯む。
「貴様らの全身を引き裂いてやる」
まるで地獄の底から這い上がるような低い声に、ついに男の一人が泡を吹いて失神してしまう。
残った二人も顔面蒼白で情けなく悲鳴を上げながら命乞いをしていた。
しかし、蘇芳は聞く耳を持たず、殺気を纏ったまま男達へと歩を進める。その姿は最早仁王というより修羅だ。額から流れるその血すらも恐怖を煽るものでしかない。
このままでは部下達が殺される――そう頭では分かっていても、砕条は身体が動かす事ができない。
蘇芳が男達の下に辿りついたその時――。
「蘇芳様っ!!」
「いっ!?」
砕条は目を剥いた。
さっきまで殺気を全身から迸らせていた蘇芳の頬が、情けなくも横に引き伸ばされていたからだ。他の誰でもない紅玉の手によって。
「ふぇ、ふぇにほの、ひょ、ひょうひょうひひゃいひょひゃは……」
「当たり前です! わざと痛くしているのですから!」
「いぃっ!?」
紅玉の指に更に力が込められたらしい。蘇芳が悲鳴を上げる。
最早先程の仁王や修羅の姿など微塵もない。
「わたくし、どう見ても無事でしたわよね? あの方達に圧勝でしたわよね? むしろお怪我されているのは貴方ですわよね!?」
「い、いひゃ、ほへへほ、ほへはひんひゃいへ」
「わたくしの心配をなさる前に! ご自分の心配をしてくださいましっ!!」
紅玉はギッと蘇芳を睨みつける。
「ひゅ、ひゅひゃん……」
シュンとなった蘇芳を見て、紅玉は蘇芳の頬を引っ張っていた指を離す。そして、裂傷の付いた額を優しく撫でた。
「いくら自然治癒の異能をお持ちとはいえ、痛みはあるのでしょう? もっとご自分を大切にしてくださいましっ」
紅玉はむっと頬を膨らませながら、服の隠しから手拭いを取り出し、蘇芳の血を拭う。
「紅殿! 血は、血はダメだ! ああああというか貴女が汚れる!」
「じっとして黙ってなさいっ!!」
「……はい」
そんな目の前で繰り広げられているやり取りを砕条は目を見開き、信じられない思いで見ていた。
すると、そこへ翼をはばたかせ、その場に降り立つ人物がいた。
背中から生える真っ黒な翼と尖った耳が特徴的な天狗の先祖返り。銀色の長い髪と木賊色の切れ長の瞳を持つ人離れした美しさを持つ男性――。
「天海さん!」
そこに現れたのは、同じ秘密部隊「朔月隊」に所属する天海だった。
「双方、武器を下ろせ」
天海の有無を言わせぬその声に、砕条は両手剣を、蘇芳は籠手を、それぞれ腰に付けていた透明な珠へとしまった。
天海はそれを確認すると、砕条の方を見た。
「神域警備部参道町配属特別班の天海だ。たまたまこの上空を巡視していたところ、あなた達が起こした騒動を目撃した。理由はどうであれ、邪神も捕縛対象者もいない参道町の中で、武器を出現させ振り回した事には非がある。厳重注意させてもらう」
「なにっ!? 職務放棄をしていた蘇芳ではなく、俺に厳重注意だと!?」
その言葉に天海は蘇芳を見た。
蘇芳は姿勢を正すと、正直に言った。
「自分は神子の命で『姉の外出を傍で付き添って欲しい』と命じられ、ここにいる。職務を放棄したわけではない」
蘇芳の言葉に天海は頷く。
「事情は分かった。だが、あなたは〈神力持ち〉で複数の異能を所持している事を忘れないで欲しい。自制できない殺気を無闇矢鱈に撒き散らし、周囲に迷惑をかけてはいけない」
「反省する。申し訳なかった」
蘇芳は頭を下げて素直に謝罪する。
一方で砕条は納得いかないように顔を歪ませていた。
「あなたも謝ったらどうですか、砕条」
そう言いながら現れたのは、輝くような黄色の髪に黒混じりの紺色の瞳を持つ男性だった。身体の線が細く、まるで異国の王子を彷彿とさせる容姿である。
砕条は男性の姿を認めた途端、更に顔を歪めた。
「うるさい、星矢。俺に指図をするな」
「今回ばかりはあなたに全面的に非があります。言い訳は通用しませんよ」
星矢と呼ばれた男性のはっきりとした言葉に、砕条は舌打ちをしながらそっぽを向く。
そんな砕条の態度に溜め息をつきつつ、星矢は紅玉と蘇芳の方を向いた。
「自分は神域警備部参道町配属坤区第三部隊副隊長の星矢と申します。こちらは我が第三部隊の隊長の砕条……我が隊長に代わり、お詫び申し上げます」
「いや、星矢殿、貴方が謝る理由は……」
「理由が何であれ隊長の失態は我が部隊の失態。副隊長として謝罪しない訳にはいきません」
「貴様っ! 星矢!」
「砕条、あなたはきちんと己が犯した過ちを認めてください。私情で蘇芳さんに襲い掛かるなんて、坤区第三部隊の恥晒しですよ」
「――っ、チッ!」
砕条は反論できない事に顔を歪めると、踵を返し、そのままその場を大股で立ち去っていく。
「砕条! 何処へ行くのですか!?」
星矢が止める声も無視し、砕条はあっという間に参道町の中へと消えていった。
星矢は慌てて天海の方を向く。
「申し訳ありません。砕条を追わねばならないので、自分もこれにて」
「わかりました。今回の件は神域警備部部長に報告させて頂き、また後日改めて第三部隊の詰め所にお伺いします」
天海が星矢にそう告げると、星矢は頭を下げた。
「承知しました」
そして、星矢は蘇芳と紅玉の方を向いて言った。
「申し訳ありません。後日きちんと謝罪させますので」
「いや、こちらこそ迷惑をかけてすまなかった」
「お気になさらず。砕条に圧倒的非がありますから……それでは自分はこれで」
そして、星矢は一礼をすると、腰を抜かしていたり、泡を吹いていたりしていた部下達を叱責し、無理矢理立たせ、参道町へと消えていった砕条を追っていった――。
騒動が収まり、紅玉はホッと息を吐く――が、ハッとして蘇芳を見る。
「蘇芳様、きちんと額の傷を見せてくださいまし! こちらにお座りになって!」
「あ、ああ……だが、もう傷は塞がっている、ほら」
確かに蘇芳の言う通り、ザックリと裂傷の入っていた額に傷はもう残っていなかった。痛々しく血の痕は残っているが。
「せめて血を綺麗に拭かせてくださいまし」
「紅玉先輩、これをつかってくれ」
天海はそう言って、消毒液を付けた医療用綿布を差し出した。
「まあ、天海さん、ありがとうございます。はい、蘇芳様、じっとしていてくださいね」
紅玉は受け取った綿布で蘇芳の額に残る血を優しく拭っていく。
その間、蘇芳は息を止め、ただひたすらジッとしていたが、己の顔に触れる指と額を拭う優しい力加減に頬の赤さまでは抑える事ができなかった。
そんな蘇芳の様子を天海は微笑ましげに見守っていた。
蘇芳の額が綺麗になったところで、紅玉は天海の方を向き、頭を下げる。
「天海さん、助かりました。天海さんが止めに入ってくれなかったら、わたくし達、あの方々に更に因縁を付けられそうでしたもの」
紅玉はそんな事を言いながら、砕条の事を思い出していた。
蘇芳に随分な言いがかりを付けてきた男だと、印象は最早最悪であった。
挙句、蘇芳に突然斬りかかり怪我をさせるとは――神域警備部として恥ずかしくないのか、と思ってしまう。
すると、天海は少し申し訳なさそうな顔をして、首を横に振った。
「すみません。坤区の上空を巡視していたのは本当なんですが……騒動に気付けたのは、彼らのおかげで……」
「……え?」
天海の言葉に紅玉は首を傾げた。
一方で天海は上空の方に視線を向けていた。
天海の視線を追うように、紅玉と蘇芳も上空へと視線を向ける。
「あ……」
春の空にゆらりゆらりと漂っていたのは、三つの鬼火。
山吹色の炎を揺らめかせながら、空をふわりふわりと浮いていた。
「そうでしたか……」
「お礼なら彼らに言ってあげてください」
「……はい。ありがとうございます」
「それじゃあ、俺はこれで。紅玉先輩、蘇芳先輩、また」
天海はそう言って頭を下げると、黒い翼を広げて空へと飛び立って行った。
天海を見送るように、三つの鬼火は揺れ動いていた。
そんな三つの鬼火を見ていた紅玉の瞳が切なげに揺れたのを蘇芳は見てしまう。
「……紅殿」
心配そうに覗き込む蘇芳に、紅玉は少し切なげに微笑む。
「大丈夫ですわ」
正直大丈夫そうには見えないが、三つの鬼火に向かって小さく手を振る紅玉を見ると、蘇芳は何も言えなくなってしまう。
「……行きましょう」
「……ああ」
乾区に繋がる橋を目指して歩き出した紅玉の手を蘇芳は有無を言わさず握る。
紅玉は少し驚いて蘇芳を見上げるが、優しい力加減で握る大きな手と優しく微笑む蘇芳を見て、少し切なくなった気持ちが温かくなっていくのを感じた。
「……ありがとうございます、蘇芳様」
「礼には及ばない」
「ですが、無茶はしないでくださいまし」
「……貴女に一番言われたくない台詞だな」
「ふふふっ」
そんな二人をからかうように、三つの鬼火はチカチカと爆ぜていた。