十の神子と護衛役の秘密の契約
その日、紅玉は焔の見舞いに行っており、不在だった。
雛菊は、昨日神々から地獄とも言える異能制御の訓練を受け続け、精神的に疲弊し、子ども達の世話を受けながら、寝込んでいた。
そして、紫はいつも通り炊事・洗濯・掃除に勤しんでいる。
故に、蘇芳が神子の執務室に呼び出されたなど誰も知らなかった――。
蘇芳は執務室の真ん中に立ち、正面にいる人物達と向かい合っていた。
執務室に置いてある西洋の木彫りがなされた大きな机に水晶が座り、その周囲を鋼、語、要、いろはの四人の神が守るように囲んでいる。
「うみゅ、すーさん、悪いね。仕事中に呼び出して」
「いえ。神子の命とあればいつでも」
「んじゃまあお姉ちゃんが帰ってくる前にちゃっちゃと本題入るね。『彼の者』って誰?」
「…………」
水晶の質問に蘇芳は口を噤んだ。
「――神子の命である。神子護衛役、蘇芳。『彼の者』の名前を教えなさい」
「――申し訳ありません! それだけは……っ!」
「…………がねさん、許可する」
水晶がそう呟いた瞬間、鋼が刀を抜き、蘇芳に飛び掛かった。
蘇芳は瞬時に両手で鋼の刀を挟み、抑える。
二人の力は拮抗していた。
「蘇芳、教えろ。『彼の者』の名を」
「それはっ、言えない!」
「っざけんなっ!!」
鋼が威嚇しながら蘇芳を押し込む。
「あの女、あの萌っていう女が元二十七の御社に配属していた事も、誰かと通じて禁術を入手していた事も、禁術使ってちんちくりんを狙っていた事も、誰かに殺された事も、こっちは全部知ってんだ! なめるなっ!」
「っ!?」
鋼は乱暴に刀を振り払い、巨体を持つ蘇芳を床へと薙ぎ倒す。
その時、刀身が蘇芳の頬を斬ったが、蘇芳が手の甲で頬の血を拭った瞬間には、頬の傷は跡形もなく綺麗に無くなっていた。
「あの女は『三年前のあの事件』に絶対関わっている! いろはもそう言っている! 俺もそう思う! だが、あの女は殺された! つまりだ! あの女を殺したヤツは『彼の者』だ! そうなんだろう!?」
「……っ……」
蘇芳のその沈黙は雄弁に語り過ぎていた。
「……すーさん、やっぱり心当たりがあるんだね」
「っ……」
それでも蘇芳は何も言わない。堅く口を閉ざしたままだ。
「……質問を変えるね、すーさん。今回、晶ちゃんが熱を出した原因は分かってる?」
「…………はい」
「で、それの諸悪の根源も『彼の者』で間違いないんでしょ? えっちゃんから聞いているから。言い訳しても無駄だよ」
水晶のハッキリとした物言いに、蘇芳は押し黙る事しかできない。
あの時は水晶の身に何があったかを報告する意味で槐に打ち明けたつもりだったが、それがまさかこんな事態を招くとは思ってもみなかった。そして、「紅玉には話さないで欲しい」と言ったが、「水晶に話さないで欲しい」と言わなかった事を後悔した。
神ならば、自分が仕えている神子に報告しない訳がないだろうに。
「でもね、晶ちゃんだって神子だよ。ただ黙って高熱出して魘されていた訳じゃないから」
水晶の言葉に蘇芳は心の中で首を傾げた。
「雛っちに掛けていた結界術が破壊された瞬間、神力を通じて反動を受けてしまった訳なんだけど……その時、晶ちゃんは相手側の神力の波動を感じたの……桜色のすごく強い神力を」
「っ!!??」
神力の色は人によって異なる――蘇芳の神力の色は蘇芳色、水晶の神力の色は白縹――というように、決して同じ色の神力の人間はいない。
そして、桜色の神力を有する人物は、この神域ではあまりにも有名な人物であった。
桜色の長く柔らかそうな髪と苺色の大きな瞳を持つ、この世の美しさと愛らしさの全てを詰め込んだような可憐な少女の姿が、蘇芳の脳裏に浮かんだ。
「…………蘇芳」
「っ!!」
それは普段の水晶のものとは思えない言葉遣いと声だった。
まるで全てを凍りつかせるほどの冷酷さを孕んだ非常に恐ろしい神力の圧に、蘇芳は思わずたじろぎつつも――やはり紅玉の妹なのだな、と冷静な考えも浮かんでいた。
「蘇芳、あなたが『四大華族』という事はとっくに調べは付いているわ。あなたが『彼の者』について決して口を開かない理由は、それ?」
瞬間、水晶の神力の圧がさらに増し、神域最強と言われる蘇芳ですら息ができない程の錯覚に陥る。
執務室が白縹の波動で押し潰されていく。
「あなたが皇族に忠誠を誓っている『四大華族』の一族だから、『彼の者』を庇っているの? 『彼の者』があなたにとって守るべき存在だから口を閉ざしているの?」
凄まじい圧力に蘇芳は最早立ち上がる事ができない。
「あなたはいつか姉の敵になって、姉の前に立ち阻むの?」
「――違いますっ!!!!」
その叫びとともに、白縹の波動が蘇芳色の波動に相殺される。
目を見開き驚く水晶の前に、四人の神々が一斉に守りに入り、蘇芳を睨みつけた。
一方の蘇芳はふらりと立ち上がると、真剣な表情で水晶を見つめ、首を横に振った。
「神子……違います。信じてください。自分は、紅殿の敵になったりはしない。決してしない。断じてあり得ない」
何度もそう繰り返す蘇芳に、水晶は思わずキョトンとしてしまった。先程まで見られた冷酷な圧が一切無くなる程、水晶は驚いていた。
「自分は……俺は……もう紅殿が傷付く姿を見たくない。『三年前のあの日』から俺は紅殿を守ると決めた。約束した。だから、紅殿も……紅殿が大切に想う者を全て守るつもりでいる。彼女は何時だって、自分の事よりも他人の事で傷つき、泣く人だから……」
「……すーさん」
「そして、一番守るべきは……神子、貴女です」
「……わたし?」
「貴女は、紅殿にとって誰よりも守りたい大切な人だから……貴女を、非常な危険な存在である『彼の者』と関わらせたくはない」
蘇芳の真意に触れ、水晶は目を見開いた。
そして、蘇芳は水晶の傍まで近寄ると、水晶の前で跪く。
「神子、貴女に誓います。自分は決して貴女の姉君を――紅玉殿を裏切りません。自分が生涯この手で守ると誓ったのは、紅玉殿であり、紅玉殿が大切に想う人達です。その為ならば、自分は四大華族の名も捨て、皇族も裏切ります」
「…………本気なの?」
「神に『真名』を賭けて誓いましょう」
「っ!!」
「神に真名を賭ける」――その言葉を聞いて、水晶は蘇芳の本気を悟った。
神域に住まう神子や職員の名は、実は本当の名前……「真名」ではない。「仮名」と呼ばれる仮の名前である。
大和皇国では、名前は魂の一部として考えられてきており、「真名」を知られることは魂を握られた事と同意と考えられていた。万が一、神に「真名」を知られてしまったら――神隠しにあったり、神に魂を喰われてしまったり――などという恐ろしい前例は存在しないが、遥か昔よりそういう言い伝えが存在する。
だから、神域に移り住む際、神子や職員は「仮名」で名乗り、「真名」を隠す。
つまり、「神に真名を賭ける」とはそれ相応の覚悟を意味しているのだ。
それこそ、命や魂を賭ける程の――。
水晶はしばらく蘇芳を見つめていたが、肩の力を一気に抜くと、机の引き出しを開けて、それを取り出した。
そう、彼女の大好物の「いもにんチップス」だ。
「パリッ、パリッ」という軽快な菓子の音が執務室に鳴り響く。
「「「「「………………」」」」」
執務室におかしな沈黙が流れる。
「うみゅ、すーさん、真名を賭ける時は、もっとちゃんと大切な時に掛けなさい」
「はっ? あっ、いやっ? あの……いえ、その、す、すみません……」
水晶のあまりもの雰囲気の落差に流石の蘇芳も混乱した。そして、決して蘇芳は悪くないはずなのに、思わず謝ってしまう。
「あと悪いけど、すーさん、晶ちゃん全力で関わっていくつもりだからよろしく~」
「――っ、神子!!」
「すーさんの言葉を借りるならね、お姉ちゃんの大切な人はすーさんも入っているの。すーさんもお姉ちゃんとそっくりで、自分の事より他人ばっかり。人のことばっかり守っていたら、自分の事が疎かになっているすーさんを誰が守るの?」
「うぐっ……」
十五歳以上も年下のはずの水晶に蘇芳は言い負かされてしまった。
「あとね、ここにいる契約組の為でもあるの。ここにいるみんなは『三年前のあの事件』についての真実をずっと追い続けているから……だから、晶ちゃんと契約してくれたんだよ。晶ちゃんが『紅玉の妹』だからって」
水晶の言葉を聞いた蘇芳は契約組――鋼、語、要、いろはの四人の神を見た。
四人の神々は蘇芳を見つめ、頷いていた。
「すーさん、お姉ちゃんを守る為に手を組まない? お買い得だと思うよ~。今なら契約料はなんと『いもにんチップス』一袋~」
「それはただ単に自分が食べたいだけだろう、神子」
要が睨みつけると、水晶は「なめちゃんのおかんめ」と頬を膨らませ、それを見て、いろはが「ふふふ~」とおっとりと笑う。
水晶の突然の申し出に蘇芳は迷った。
紅玉にとって、水晶はとても大切な妹である。
もしも、あの危険な存在である『彼の者』に関わらせて、水晶の身に危険が及んだら、紅玉の心は今度こそ――と、考えていた蘇芳だったが――。
「蘇芳さん、僕らと手を組んでください」
「語殿……」
「安心してください。神子様は必ず僕らが守ります……今度こそ。それに、あなたも紅ねえもいる。皆で力を合わせれば怖くないでしょう?」
それは、いつも紅玉に言って聞かせる己の言葉に似ており、蘇芳は思わず苦笑いをした。
「……決まりだな」
鋼はそう言って、蘇芳の背中を押し、水晶の目の前まで押し出す。
すると、水晶は椅子から立ち上がり、小さな右手を差し出した。
「『彼の者』について正体を明かしたくないなら明かさなくてもいいよ。でも、すーさんが持っている情報を出来る限り晶ちゃん達にちょうだい。晶ちゃん達も情報をすーさんに渡すから。全てはお姉ちゃんを守る為に」
「…………はい、神子のお望みのままに」
蘇芳はそう言って、水晶の小さな手を自身の大きな手で握った。
「うみゅ、契約成立」
これが、神子の執務室で行なわれた秘密の契約。
大切な妹と尊敬する先輩との間で交わされた契約の内容を、紅玉が知る由もなかった――。