罪人の追憶
それは、昨年の夏の事だった。
本来であれば、二年の服役を終え、晴れて釈放の身となるはずの焔は、己の罪が二年という短い懲役で済まされる事を良しとせず、出てこようとしない。この二年間、食事も水分も満足に摂らず、ただひたすら己の罪を悔い、厳罰を望み、それが叶わなければ己自身を痛めつけ、最早精神の崩壊一歩手前であった焔は、ここに来て、ついに食事も水分も拒否しだした。
誰もがお手上げ状態となり、放置しようとしていたところを、幽吾がその焔を引き受けた。
そして、幽吾は、焔がいる監獄に、ある人物を連れて来たのだった。
カツリ、カツリ、と足音が響き渡る。その足音はやがて止まった――と同時に、焔は己の居る牢屋の前に人の気配を感じていた。
「……こんにちは」
柔らかい声に、焔はゆるゆると顔を上げた。
その瞳に光は無く、燃えるような色合いであるはずの銀朱の髪は仄暗く、艶など一切ない。顔や腕や足の至る所には、痛々しい生傷や痣があり、黒く汚れており、首と手首と足首には罪人の証である黒曜石のような拘束具が着けられていた。
それを見た声の主は一瞬悲痛な面持ちを見せるが、小さく微笑みながら言葉を続ける。
「初めまして、焔さん。わたくしは紅玉と申します。神子管理部所属で、現在は神子補佐役を務めております」
「………………」
「わたくし、幽吾さんに連れてきてもらって、貴女に会いに来たのです」
「………………」
「焔さん、貴女は二年前の罪の罰である服役をもう終えている身でございます。貴女は晴れて自由の身ですわ」
紅玉の言葉を焔は首を振って全力で否定をする。
「私は赦されない。私は赦されない事をした。私は、このままここで死ぬべきなんだ」
焔の言葉に、紅玉は後ろに立っていた幽吾を振り返る。幽吾は肩を竦めながら言った。
「言ったでしょ。この子、すごく頑固だって」
「ええ、そうですね」
紅玉は、少し考えてから言った。
「幽吾さん、牢屋の鍵、開けてくださいまし」
「いいよ。噛みつかれないように気をつけてね」
幽吾は重厚な作りの鍵を取り出すと、焔の牢屋の鍵を開けた。紅玉は躊躇うことなく、その中に足を踏み入れる。
「――っ、来るな!」
「ご安心ください。わたくしはただお近くでお話をしたいだけです。貴女がここを自ら出ようとしない限り、わたくしは一切貴女をここから無理矢理引っ張り出す真似は致しませんわ」
紅玉はそう言うと、焔から少し離れた位置に正座をして座る。焔は紅玉から距離を取ろうと、壁際に寄っていた。
「さて、何をお話ししましょう……貴女はこんなお転婆さんの事をご存知ですか?」
「……?」
「昔々、あるところに、とってもお転婆な女の子がおりました。女の子はそん所そこらの男の子よりも強くて、それこそ大人のお兄さんよりも強い女の子でした。女の子は弱い者いじめをする人が大嫌いで、そういう人を見つけたら、怒って投げ飛ばしてしまいます。考えるよりも先に身体が動いてしまうのです」
「いきなり投げ飛ばされた方は堪ったもんじゃないねぇ」
「女の子は弱い人を守ろうとして、いつも自分の方が傷だらけ。でも、そんなことはお構いなし。名誉の傷だと言って笑うのです」
「わあ、典型的な脳筋タイプだねぇ」
「……幽吾さん、少々お口にチャックで」
「は~い、お口にチャ~~~ック」
幽吾はおどけるように言いながら、口をニンマリとさせた。
紅玉は一つ咳払いをして、話を進める。
「……それで、その女の子は自分の思った事をハッキリ言う子でもありました。例えそれが正しくても正しくなくても、自分の気持ちを正直に伝えてしまう子でした。それ故に、時々友達と大喧嘩する事もしばしば。でも、反省もできるとても良い子でもありました」
「あ、あの……」
「はい」
「……それが?」
「……その女の子の事をどう思いました?」
「え?」
「どんな子だと思いました?」
紅玉の問いかけに、焔はおずおずと答える。
「真っ直ぐで、曲がった事が大嫌いな、少し気の強い子なのかなって……」
「まあ、素晴らしい! 大正解ですわ! 実はこの女の子、わたくしの幼馴染ですの。小さい頃から男子よりも強くて、意地悪な男子がいたら千切っては投げ、千切っては投げの大立ち回り! 本当にその時の彼女が格好良くて、憧れてしまいましたわ……今思えば、わたくしの初恋は彼女ですわね」
「え、紅ちゃん、実はそっち系のご趣味もおあり?」
「幽吾さ~ん、お口にチャックですよ。あと、わたくし、恋愛対象は男性のつもりですのでご心配なさらずに」
「はいはい、そんなこと君達を見ていれば、わかってるよ」
幽吾の台詞を紅玉は訝しげに思いながらも、再度焔と向き合う。
「申し訳ありませんね。何度も話が逸れてしまい」
「い、いや……別に」
「とにかく、彼女は――誰よりも強くて、真っ直ぐで、格好良くて、わたくしの憧れで、目標で――わたくしの自慢の幼馴染です」
紅玉はそう言って、満面の笑みを浮かべる。焔はその笑顔を見ながら、本当に大切な幼馴染なのだろうと、それだけはハッキリと分かった――だが。
「それが一体何なんだ? 私には関係ないだろう?」
「いいえ。関係あるのです。だからこそ、わたくしは貴女に会いに来たのです」
「だから何故!?」
「貴女が、わたくしの幼馴染が命を懸けて助けた人だからです」
紅玉の言葉に焔は目を見開く事しかできなかった。言葉が出てこない。涙が溢れてくる。そして、蘇る――火焔の中で息絶えた尊き人の姿。
「ごめんなさいっ!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!!!! 赦されるはずもない大罪を犯してしまった!! 私は!! あの人に救われながら!! あの人の命を奪ってしまった!! 赦されない!! 赦してはいけないのに!! 私は生き残ってしまったっっっ!!!!」
泣き叫びながら、打ち拉がれる焔の姿に、紅玉は悲しげな表情を浮かべた。そして、焔との距離を詰め、焔の目の前に座り、そっと焔の頭へ手を伸ばす。ゆるゆると撫でれば、焔の髪が酷く痛んでいるのが分かった。
「焔さん、どうかそのように自分自身を責めないで」
「私は赦されない!! 赦してはいけない!! 私はっ――私はっ――!」
「焔さん――どうか、聞いて」
紅玉の言葉に、焔は叫ぶのを止め、ゆっくりと地面から顔を上げる。紅玉の漆黒の瞳が真っ直ぐ焔を見ていた。
「わたくしの幼馴染――海ちゃんは、貴女を責めてなんていませんわ。貴女を助けたのだって、貴女が放っておけなくてお節介を焼いてしまっただけ。いつものように身体が勝手に先に動いてしまったのですわ。だって、海ちゃんですもの」
そう言って、紅玉は「なんて海ちゃんらしい」と、ころころと笑う。その微笑みは、あまりに屈託がなくて、焔が逆に驚いてしまう程だ。
「海ちゃんは貴女にお節介を焼いた事に後悔もしていませんし、貴女を責めたりなんてしませんわ、絶対に」
そう、紅玉にハッキリ言われてしまえば、そうなのかもしれないと焔は思った。
しかし、それでも焔は――。
「私は――私を赦せない」
これだけは譲れない。焔は赦さざるべき罪を犯したのだ。それは変わりようのない事実である。そして、焔は頑なに罪からの解放を拒む。
「……でしたら、こうしましょう?」
紅玉はふわりと微笑むと言った。
「焔ちゃんはご自分を赦さない。でも、わたくしは、貴女を赦します」
「――は?」
「わたくし、海ちゃんの幼馴染ですのよ。海ちゃんの考えている事なんて、すぐに分かりますわ。海ちゃんもきっと『あなたを赦す』と言ってくれるはずです。間違いありません」
自信満々にそう言う紅玉を、焔は信じられない目で見つめ、そして叫んだ。
「私は!! あなたの大切な人の命を奪ったんだぞ!?」
「はい、わかっております。ですが、わたくしは、貴女を赦します」
「私は赦されるべきではない!! 赦してはいけない!! 赦さないでくれ!!」
「いいえ、わたくしは、貴女を赦します」
「何故だ!? あなたの幼馴染の命を奪った私を、どうして赦す!?」
「海ちゃんが命を懸けて救った貴女が、そうやって殻に閉じ籠って出てこない事を赦せないからです」
「っ!!!!」
目を見開いたままの焔の傷だらけの手を、紅玉は取り、ゆっくりと持ち上げた。
「貴女はまだ若い。まだやり直せます。そして、命がある。海ちゃんの分まで生きる事ができます。貴女が成すべき事は、こんな狭い監獄で閉じこもって己の罪と向き合う事ではなく――海ちゃんの分まで、生きてください」
最早、焔の目に紅玉の姿は見えていなかった――視界が涙で歪んでしまっていたから。
「ねえ、焔さん。貴女に『海ちゃんになれ』とまで言いませんし、海ちゃんのように猪突猛進的にではなく、よく考えてから行動をして頂きたいと思っているのですが――わたくしと一緒に海ちゃんの分までお節介焼き続けて生きてみませんか?」
焔の目から滝のようにボロボロと涙が零れ落ちていく。嗚咽を上げ、紅玉の手を必死に握りながら、ただただ首を縦に振る事しかできない。
そんな焔を優しい微笑みで見守りながら、紅玉はひたすらその頭を撫で続けていた。