金糸雀の暴走
もう間もなく日付が変わる時間帯だというのに、遊戯街は大変賑わっていた。
そんな遊戯街のとある場所――遊戯街の規約を破った違反者が捕らえられる地下牢では、今宵も規約を破った愚かな者達が幻術で悪夢を視ながら罰を受けていた。
そんな湿っぽく、陰鬱とした地下牢に、ドロリと怪しい黒い影が忍び込んだ。
顔はない、表情も無い、ドロドロと黒い影のような身体を持つ怪しい存在は、ある牢屋の前に立ち、するすると中へと忍び込む。
その牢屋の中では、一人の人間が悪夢を視て、魘されていた。
すると、黒い影は己の腕を鋭く尖った刃のように変化させた。そして、その腕を目の前の人間に向かって、一気に振り下ろした――。
**********
皆が寝静まり、日付が変わった深夜、蘇芳は神子の寝室の前で寝ずの番をしていた。寝室の中では、紅玉と水晶が眠っているのが、気配で分かった。
何故、蘇芳が寝ずの番をする事になったのかというと――水晶ははっきり受け答えができるほど回復をしていたが、まだ高熱は続いていた。
紅玉が寝ずに看病をするというのを止めたのが蘇芳だった。しかし、水晶の看病はした方が良いと、蘇芳も思った為、妥協案で紅玉と蘇芳が交代で看病する事になったのだ。
本来であれば、水晶の傍につき、看病をした方が良いのであろうが、水晶は幼いとはいえあくまで性別は女性。そして、水晶の部屋で紅玉も仮眠を取る事にしたので、神子の寝室に男性である蘇芳が立ち入る事は許されない。
だが、蘇芳であれば、寝室の中で異変が起きても察知する事ができる為、こうして神子の寝室の前で番をしているのだ。
目を閉じたまま精神を研ぎ澄ませていると、蘇芳に近づく気配があった。蘇芳にはそれが誰であるか分かっていた。
蘇芳は目をゆっくりと開ける。
「……槐殿」
「お疲れさん、蘇芳。隣、よいかのう?」
「どうぞ」
槐は蘇芳の隣に立ち、壁に寄り掛かる。
「……まだらから話は軽く聞いたわい」
「……異常事態です」
「そうじゃのう……」
槐は窓から見える夜空を見上げた。不可解な謎がまるで目にしている闇夜のようで、取り巻く得体の知れない存在に、槐は眉を顰めた。
「菊ちゃんを狙っているヤツらに、神子か神が関わっている可能性があるってことでええのかのう?」
「まだ、わかりません……が、無関係とは言いにくいでしょうな」
「……じゃろうな」
槐は腕組みをして言った。
「お前さんが『紅ねえには話さないで欲しい』って言っておったから、まだらはほとんどの神には話してしまったぞい」
「構いません。元よりそのつもりでお願いをしましたので」
「……なんで紅ねえには話さないんじゃ?」
「…………自分は、神子の結界を解いた者に心当たりがあるからです」
「なんじゃと?」
「そして、自分は、紅殿とその者を会わせたくない」
蘇芳のその言葉を聞いて、槐には思い当たる節があった。
「……それは、三年前の事件と関係があるんじゃな」
「はい」
「道理で……」
「何か?」
「まだらから、神子の結界が解かれた話をした時に『契約組』が心当たりありそうな顔をしておったからのう」
「『契約組』様方が……そうですか……」
槐の言う「契約組」とは、この十の御社に住まう鋼、語、いろは、要の四人の神の事である。この四人の神、神子である水晶とは少し変わった方法で契約をしたものだから、「契約組」と呼ばれていた。
「のう、蘇芳。儂には『その者』が誰か教えてはくれんのかのう?」
「…………申し訳ありません、槐様。自分は……忠告を受けている――『決して彼の者を侮るな、見縊るな。利己的で野心が強く、己の為に嘘を平然と吐き、己の為ならば強奪も厭わない。警戒に警戒を重ねよ』――と」
「そりゃまたえらい人間がおったもんじゃのう」
「いいえ、槐殿。その者は最早人間にあらず。人の皮を被った化け物です」
そう言い放った蘇芳の目があまりに恐ろしく、槐は思わず目を見張る。
「心根が優しいお前さんにそこまで言わるとは、随分難儀な人間が神域にいるもんじゃ」
「彼の者は、外面は大変よろしいと評判ですので」
「――――蘇芳」
槐が己の名を呼ぶ声があまりに真剣だったので、蘇芳は思わず槐を見た。
樹の幹のような柔らかそうな茶色の髪が月明かりに照らされ、黄色と緑の混じった不思議な色合いの瞳を持った男神が、酷く整った顔に哀愁を帯びさせて見つめていた。
「まだらも心配しておったが……お前さん、無茶はいかんぞ。お前さん、紅ねえのことになると、いつも無茶ばかりじゃ。のう、頼むから、己の身を滅ぼす事だけはせんでおくれ。お前さんに何かあれば、一番悲しむのは、紅ねえなんじゃからな」
流石は、神――そして、十の御社の神々のまとめ役を担っているしっかり者の槐であろう。その言葉は、的確で、深く、そして優しいものだ。
「ありがとうございます、槐殿。ですが、自分はわかっております」
そう、蘇芳はちゃんとわかっている。紅玉がいつも自分の為でなく、他者の痛みに傷つき、涙する事ができる酷く心優しい存在であるのかを。
「三年前の二の舞には決してさせません」
蘇芳の言葉はどこまでも真っ直ぐで、強く、固いものだった。
瞬間感じた気配に、蘇芳はハッとした――どうやら槐の同じ気配を察知したらしく、似たような表情を浮かべていた。
(神子の部屋……ではないな。となると、外か?)
そう思い、周辺に意識を巡らせていると、屋敷の外から何か声が聞こえてくる――只の声ではない。切羽詰まったような叫びだ。
蘇芳と槐は顔を見合わせた。
「槐殿、ここをお願いしても?」
「わかったわい。気をつけるんじゃぞ、蘇芳」
槐に神子の寝室の守りを任せると、蘇芳は一目散に屋敷の外へと駆け出した。
他にも異変を察知した神々が続々と起き出している。
(一体何が――?)
そして、辿りついた御社の入り口である門にたどり着いた蘇芳は、その光景に目を剥いた。
**********
ズキン、ズキン、ズキン――と、割れるような頭痛に雛菊は目を覚ました。
(頭が痛い、重い、気持ち悪い――)
「――らけ――い――わせ」
声が聞こえる――不気味な声だ。
「も――ひら――けっ――を――わせ」
身体が言う事を聞かない――。
勝手に動き出す――。
雛菊は客間を出て、ゆらゆらと御社の廊下を歩いていく。
やがて階段を下り、屋敷の外へと歩みを進める。
「門を――らけ――結界――こわ――」
(やだ、やだやだやだ――そんなことしたくない――)
頭ではそう思っているはずなのに、身体は勝手に動く。
言う事を聞かない。
手には調度品として飾られていた斧が握られている。
そして、雛菊は辿りつく――御社の入り口である門の所まで。
「門を開け、結界を壊せ」
結界術が張られた門の鍵へ、雛菊は斧を振り上げた。
(いやだ! やだあ! 誰かあ――!)
斧が振り下ろされる――瞬間、雛菊は両腕を掴まれ、地面へと倒された。
斧がガランと地面へと落ちる音が響く。
「おいっ! 姫! 目ぇ覚ませ! しっかりしろっ!!」
珍しく切羽詰まった表情をして、叫んでいるのは、白か銀かという絶妙な色合いの髪と真っ白な毛で覆われた耳と尾を持つ男神の遊楽であった。
(助けて……!)
遊楽に押さえつけられていた雛菊は、突如暴れて抵抗を見せ始める。
「あああっ、う、ああああっ!!」
奇声を上げながら、暴れ出す雛菊に、遊楽も戸惑い、押さえていた手を緩めてしまう。
(いやだ! なんで身体が言う事聞かないの!? やだったら! 止まってよ!)
「おいっ! 姫! 落ち着け!」
しかし、無情にも身体は言う事を聞かない。
耳に聞こえてくる「壊せ、開け、壊せ、開け」という声が響く度、頭痛が強くなる。
雛菊は斧に手を伸ばして、掴み、目の前にいる遊楽を見て、斧を振り上げた――。
「(いやあああっ!!)ああああああっ!!」
「ダメです!!」
今にも遊楽に向かって斧を振り下ろそうとしていた手を押さえつけたのは、孔雀石のような煌めく髪を持つ男神の万華であった。
万華の加勢に体勢を立て直した遊楽は、再度雛菊の腕を押さえた。
「え、何? 何があったんだい?」
「遊楽さん! 何事ですか!?」
深秘と真心と、夜番担当者が続々と集まる。
そして、仁王か軍神かの容姿の蘇芳色の髪を持った男が現われた。
「雛菊殿!?」
蘇芳は遊楽と万華に押さえつけられている雛菊を視て驚きを隠せない。しかし、遊楽は冷静であった。
「おい、蘇芳! 姫さん、親睦会で何か盛られてねぇだろうな!?」
「っ、何!?」
「コレ何かに操られてんぞ!? 姫さんはすげぇ抵抗しているけど、あんまもたねぇ! 早く原因見つけろ!」
遊楽の言葉に、蘇芳は必死に思考を張り巡らせる。
親睦会で神子の結界術が解かれたと仮定しても、親睦会が終わるまで雛菊は雲母の守り石によってその身は守られていたはずだ。
その守り石はその帰り道に消滅してしまったが――。
親睦会の合間も、紅玉達がしっかり雛菊の身の安全を守っていたはずだ。薬の類を盛られた可能性も低い。
ならば雛菊は、いつ、どこで、何に操られているのか――?
「まさか――!」
その答えを見つけた瞬間、蘇芳は塀の上へと登った。そして、門の前にいる怪しい人影を見つける。
「そこで何をしているっ!!??」
蘇芳が憤怒の形相でそう叫べば、怪しい人影は肩をビクリと揺らし、踵を返し逃げ出した。
「逃がさん!!」
蘇芳は塀を飛び降りると、怪しい人影を追う――しかし、人影はどろりとした黒い影に飲み込まれ、その場から姿を晦ましてしまった。
「っ――くそっ!!」
敵を逃した事に蘇芳は悪態をつき、人影がいた場所に拳を叩きつけた。