高熱の十の神子
階段を上りながら、紅玉は隣を歩く竜神の翡翠に問いかけた。
「熱を出して倒れたのは何時頃ですか?」
「八時半過ぎだったと思います。神子さんが湯浴みの支度をしようと、六花と一緒に立ち上がった時に急に倒れて、すごい熱で」
現在の時刻は大体九時半過ぎだ。
「医務課に連絡は?」
「紫さんがしてくれて、すぐに詩先生が診てくださったけど、原因がよくわからないって言っていました。身体的な問題ではなさそうだから、神力的な問題だと思うとは言っていましたけど、詩先生もあまり神力強い人じゃないから、明確には分からないって……」
「槐様は?」
「朝陽さんと仙花さんといろはさんの女神さん達と一緒に神子さんの看病に付きっきりです。でも、神子さんの熱が全然下がらなくて……詩先生にもお薬を打ってもらったり、氷で冷やしたりしているんですけど……」
そうこう話している内に、神子の寝室へとたどり着く。その周辺には、為すべき事がなく、困り果てた顔をした神々が立ち尽くしていた。
「紅ねえっ!」
「紅ねえっ! み、神子様がぁ……っ!」
「紅ねえ……」
真昼、雲母、れなの子ども達が涙目で紅玉の足元に駆け寄って来た。三人とも、水晶が心配で、心配で、何もできない己自身が不甲斐無くて仕方ないのだろう。涙で頬を濡らし、身体を震わせている子ども達が不憫であると、紅玉は思った。
周囲をふと見ると、他の神々も暗い表情を浮かべ、己の無力さを呪っているように見える。
紅玉は、そんな神々を励ますように、凛とした声ではっきりと言った。
「大丈夫ですよ。後は、わたくしにお任せくださいまし」
紅玉は泣いている子ども達を翡翠に託すと、神子の寝室の扉を開けた。
「紅ねえ……!」
紅玉が現われた事に気付いた槐が声を上げた。槐の声に気付いた女神達もハッと振り返る。
紅玉はそのまま、寝室へ入り、扉を閉めた。
紅玉の目に真っ先に飛び込んできたのは、寝台の上で息を荒く呼吸してぐったりとしている水晶の姿だった。
額は汗でびっしょりで、頬が火照って赤い。酷い高熱だという事が一目で分かった。
眉を顰め、込み上げてくる何かを堪えつつ、紅玉は槐に向かって言う。
「遅くなり申し訳ありません」
「いや、儂らこそ、神子の不調に気付くのが遅れてしもうて、こんな……」
「いえ、槐様――女神様達も、看病ありがとうございました。後はわたくしにお任せください」
紅玉はそう言うと、荒く呼吸を繰り返している水晶の横に立つ。そして、枕元に用意されていた水桶で手拭いを濡らし絞ると、水晶の額の汗を拭うと、そっと額に手を置いた。
すると、ゆるゆると水晶の水色の瞳が開かれた。熱に浮かされて、視点はぼんやりとしており、若干潤んでいる。
「神子!」
「神子様!」
槐や女神達が水晶へ呼び掛ける。水晶は苦しそうに呼吸を繰り返すだけで、返事はない。だが、口を開けたり閉めたりして、何かを喋ろうとしていた。
「晶ちゃん、苦しいですね。お熱も高くて、お辛いでしょう? 喉も痛いのかしら。でしたら無理にお話ししなくて結構ですからね。大丈夫、大丈夫。貴女はゆっくりおやすみなさい」
紅玉はゆるゆると水晶の頭を撫でる。そして、額に冷やした手拭いを置いた。
すると、水晶は必死に紅玉に向かって手を伸ばす。紅玉は迷いなくその手を取り、握る手に力を込めた。
「ええ、姉はずぅっとここに居りますわ。貴女が怖い夢を見ないようにずぅっとこうしていてあげますから、貴女は何も怖がる事はないですよ。大丈夫です、大丈夫。貴女の怖いものは、わたくしがぜぇんぶやっつけてしまいますわ。お姉ちゃんが強い事は、貴女も知っているでしょう? ねっ、だから、大丈夫です」
紅玉は、水晶の頭を、頬を撫でていく。そのひやりとした心地良い体温に、安心した水晶は身体を震わせ、しゃっくりを上げながら、ポロポロと涙を零し、もう一方の手を紅玉に向かって伸ばす。
「あらあら、まったくしょうがない子ですね」
紅玉は寝台の上に上がると、水晶をゆっくりと起こし、まるで母が子にするように抱き締め、背中をポンポンと優しく叩く。
「貴女が満足するまでこうして居てあげますから。だから、早く眠って、早く元気になってくださいな、晶ちゃん」
水晶はただひたすら優しい姉の声を聞き、姉の温もりに包まれながら、まるで揺籃に揺られるような心地良い揺れにゆっくりと、ゆっくりと、眠りに導かれ――やがて、穏やかな寝息を立てて、眠ったのだった。
それを見守っていただけの槐や女神達は、ただただ感心するばかりだった。
先程まで、あんなに苦しげに呼吸を繰り返していた水晶が、今は穏やかな寝息を立てている。紅玉が来るまでは、全員でおろおろするばかりであったというのに。
(流石、紅ねえじゃのう)
槐は穏やかな寝顔の水晶を見て、ようやっとホッと息を吐いた。
「……もう大丈夫ですわ、槐様。ここはどうぞ任せて、皆様を安心させてあげてください」
紅玉が水晶を抱えたまま、そう言った。
槐は水晶を起こさないように静かに頷いて返事をすると、女神達と共に寝室を後にした。
槐が寝室を出た瞬間、外で待機していた神々がドッと槐に詰め寄った。
「神子は!?」
「神子様は!?」
「お前ら、落ち着け! 今、神子がようやっと寝たから、しーっじゃ、しぃーっ!」
今にも神子の寝室へ突撃しそうな神々を必死に宥めながら、槐は小さな声で言った。
「神子はもう大丈夫じゃ。もう息も落ち着いておるし、薬も直に効いてくるじゃろう。あとはゆっくり休むだけじゃ」
槐の言葉に、神々全員が安堵の表情と声を上げる。
「うっ、うぅ、よかったですぅ、神子様ぁ……」
「な、泣くなよ、雲母っ」
「ったく! 心配かけさせやがって!」
「この喜びを表現する為に、代表してボクが舞い踊りましょう!」
「神子様が早く元気になるようにまじないをしよう。今からぼくが生贄となって苦しみを請け負うから、誰か、ぼくの身体に鞭を打ってくれないかい?」
「よっし、槐。お前は疲れただろ、交代だ。んで、神子の着替えを俺が手伝ってこよう」
「あなた方三人、今すぐ部屋に帰って寝なさい! 永遠に、です!」
神々の調子もいつも通りに戻りつつある事に、槐は一安心だった。
「はいはい、お前らは全員いつも通りに過ごすんじゃ。湯浴みしてはよぅ寝るんじゃ。あと、真心、お前ら『獣組』は今日の夜番担当じゃから、今日は寝れんぞ。はよぅ湯浴み済まして、仕事せい」
「そうでした! 私とした事が……っ!」
「では、今宵は神子の為に一晩中舞い踊りましょう」
「じゃあ、ぼくは神子様の為に一晩中磔に……」
「じゃあ、俺は一人寂しく寝ている雛菊の姫さんに添い寝でもしてやるか」
「……では、私はあなた方が一晩中動けないように、その四肢を噛み千切る事に致しましょう」
「これこれ、真心。みんなで協力し合って仲良く夜番するんじゃぞ! ほんじゃあ、全員解散じゃ」
槐がパンと手を叩くと、神々はぞろぞろと散っていった。
すると、そこへ水桶と氷を持った紫と蘇芳が現われた。
「槐さん、新しいお水と氷、持ってきたよ」
「おお、すまんのう、紫。中に紅ねえがいるから渡してやってくれんかのう」
「ああ、わかったよ」
紫が神子の寝室の扉を開けて中へ入っていく――のを横目に、蘇芳は槐に耳打ちをした。
「槐殿。深夜、神子に関する大事なお話が。詳細は、まだら殿に」
そう言われて、槐は目を見張った。しかし、蘇芳はそれ以上何も言わず目礼だけをすると、紫の後を追って、神子の寝室へと入っていってしまった。
蘇芳が神子の寝室に入ると、紅玉の指示で紫が水桶を交換している所だった。
蘇芳は水晶の方に視線を向ける。
まだ顔は赤く火照っているように見えるが、とても穏やかな顔で静かな寝息を立てていた。頭は紅玉の腿に乗せ、小さな手は紅玉の袴にしがみ付いている。
そんな水晶の様子を見て、蘇芳は安心したように息を吐く。
「それじゃあ、紅ちゃん、僕は先に休ませてもらうね」
「ありがとうございます、紫様」
「明日の朝食の準備は僕に任せて、紅ちゃんは神子ちゃんの傍にいてあげてね」
紫はそう言って立ち上がると、部屋から出ていった。
「蘇芳様も、明日に備えてお休みください」
「紅殿……」
蘇芳は寝台の横に立つと、頭を下げた。
「申し訳なかった」
「蘇芳様?」
「自分が神子の傍を片時も離れずにいれば、このような事には……」
「謝らないでください、蘇芳様」
そもそも、本来であれば、神子管理部所属で神子補佐役である紅玉こそ、傍にいるべき存在だというのに、紅玉は別任務で水晶の傍を離れていたのだ。蘇芳を咎める権利などないと思っている。
「蘇芳様に非はありませんわ。蘇芳様にも仕事があるにもかかわらず、貴方様に頼りきりになってしまった……わたくしの甘えが原因です」
「いや、貴女に非はない。貴女には成し遂げたい使命がある――俺はそれを知っている。だからこそ、貴女の助けになると約束し、貴女の力になると決めていた。それにもかかわらず、この体たらく――やはり今回の事は――」
「蘇芳様」
少し強い口調の声で紅玉にそう呼び掛けられては、蘇芳は顔を上げられずにいられなかった。ゆっくり顔を上げる。
そこには、紅玉がハッキリとした意思の宿る瞳で、蘇芳を真っ直ぐに見つめていた。蘇芳はその瞳から視線を逸らす事ができなくなってしまう。あまりに美しい漆黒の瞳だったからだ。
反対に蘇芳は、まるで自尽でもするのではないかと思われると程、酷く思い詰めた顔をしていた。
そんな蘇芳を見て、紅玉は困ったように笑う。「責任感が強すぎる困った方」と思いながらも、そんな蘇芳に何か温かいものが込み上げてくる。
「蘇芳様、貴方様に非はありません。ですから、そのように責めないでくださいまし。貴方様がいつもわたくしの力になってくださってくれることが、それだけありがたいことか――神域では嫌われ者の〈能無し〉のわたくしの傍に一緒にいてくださるだけで、どんなに心強いことか――わたくしは貴方様に大変感謝しているのです」
ふわりと柔らかく紅玉は微笑んだ。
「わたくし、貴方様に感謝してこそ、責める気持ちなんてこれっぽっちもありませんわ。ですから、どうか、そんなお顔でなさらないで」
紅玉の言葉に、蘇芳は目を見開き、やがて困ったように微笑んだ。
「まったく、貴女と言う人は……」
先程まで己への自己嫌悪で潰されそうになっていたにもかかわらず、紅玉のたった一言で蘇芳の心は軽くなってしまった。
紅玉は一緒にいてくれるだけで心強い、感謝している、と言っていたが――。
蘇芳は俯き、そして、思う。
「傍にいてくれるだけで感謝しているのは、俺の方だ」
「……え?」
それはあまりに小さな呟きで、紅玉が聞き取る事など叶わなかった。だが、それでいいと、蘇芳は誤魔化すように紅玉に微笑みかける。
「ありがとう、紅殿」
「え、あ、はい? いえ、はい」
蘇芳があまりにも優しく綺麗に笑うので、紅玉は不意を突かれ、返事が思わずしどろもどろになってしまった。思わず蘇芳の笑顔に見惚れてしまいそうになる――。
――が、紅玉はある事に気付き、思わず真顔になる。
紅玉の急な様子の変化に、蘇芳は「ん?」と、首を傾げた。
「…………晶ちゃん」
紅玉はやや怒りの孕んだ声でその名を呼び、己の太腿に頭を乗せ、眠っている妹を見た。
「貴女、起きているでしょう?」
紅玉の言葉に、蘇芳も思わず紅玉の膝枕で眠る神子を見た。否、寝ているというより、最早紅玉の太腿に己の顔を摺り寄せているようにしか見えない。
「あ、どうぞお気になさらず。晶ちゃんの事は空気だと思って」
「…………」
「…………」
「晶ちゃんは久しぶりに、お姉ちゃんのむちむち太腿の感触を楽しんでおります故」
「…………」
「…………」
「あ~~~たまらんっ。程良い筋肉と脂肪の付いている太腿の感触はたまりませんな~~~」
紅玉の顔はどんどん地獄の使者の如く恐ろしいものへ、蘇芳は羞恥に顔を赤く染め、必死に何かを堪えるように、片手で目元を隠している。
しかし、水晶は止まらない、止められない。
「うみゅ、しかして、やっぱりおっぱいの柔らかさには勝てん。お姉ちゃん、ここはやっぱり胸枕を所望す――むにゅうっ!?」
「ふふふっ、晶ちゃ~ん、元気になられて良かったですわぁ。ですが、そのお口はもうしばらく閉じていましょうねぇ」
水晶の暴走発言を強制終了させたのは、やっぱり紅玉だった。柔らかな水晶のその頬を両掌で押し潰しており、水晶の顔はまるで潰れ饅頭のようであった。紅玉は黒い微笑みを浮かべながら、潰れ饅頭になった水晶のその肌の弾力を楽しんでいた。
「あらぁ、相変わらず弾力のある良いほっぺただこと」
「む、むにゅう、みしょじみゃぢかにょおはりゃとはくりゃべものににゃにゃ――むにゅう!」
「減らず口叩く暇がございましたら、さっさとおねんねなさ~い、ふふふっ!」
「べ、紅殿……!」
紅玉の押し潰す手があまりに容赦がなく、このままでは水晶の頬が本気で潰れてしまうと危惧した蘇芳は思わず止めに入るものの、水晶が元気になった事と姉妹のいつも通りのやり取りを見られて、内心安堵したのだった。
水晶はお姉ちゃんが大好きです