不幸を振り撒く存在
(遊戯街って、素晴らしいっ!)
手洗いに席を立っていた雛菊は、個室へ戻りながらそんな事を思った。
(女の人も男の人も見るだけで眼福だし、あのお兄さん店員さんもすっごく良くしてくれるし、良い思い出になった~!)
最初、三人だけの親睦会で不安しかなかった気持ちはどこへやら、雛菊はすっかり上機嫌だった。鼻歌を歌いながら、軽やかな足取りで個室までの廊下を歩き、そして襖を開けた。
(……あれ?)
まず気付いたのは、あの上司がいない事だった。
(お手洗いに行ったのかな……)
その割にすれ違った記憶はない。
(タイミングかな)
そんな事を考えながら、雛菊が席に座ると、萌が給仕をしていた店員二人に声をかけた。
「悪いけど、ちょっと部署内での大事な話をしたいの。部外者は出ていってもらえる?」
(えっ?)
萌の言葉に店員二人は困ったように顔を見合わせた。
「早く出ていって。邪魔よ」
萌の強気な言葉に、雛菊はビクリと肩を震わせた。
そして、店員二人は萌に言われるままおずおずと出ていった――あの男性店員が最後に雛菊の頭をポンと叩いてくれたので、雛菊は少しホッとした。
そして、襖は閉められ、雛菊は個室で萌と二人きりとなった――。
「これでやっと二人で話せるというものね」
萌はにっこりと笑っているが、その笑顔が胡散臭いものにしか見えず、雛菊は思わず身構えてしまう。
「えっと、生活管理部だけで話したい話なら、人が足りないと思うんですけど」
「ああ、あのエロじじぃはもう放っておきましょ。どうせあの若い店員とお楽しみ中なんだし」
(えっ!? ちょっ! なっ!?)
上司に対する悪口を包み隠そうとしないところとか、あの若い女性店員が今どんな目に遭っているかとか、驚くべき情報が多過ぎて、雛菊は頭の処理が追いつかない。
「さて、時間がないし、単刀直入に言うわ。これはあなたのためを思って言う事よ。神子管理部の紅玉の事を信用しない方がいいわ」
頭の処理が追い付いていない雛菊に、萌は畳みかけるように言葉を続ける。
「雛菊さん、〈能無し〉の事は知ってる? あれは、神力を全く持たない、異常で、神に見捨てられた、不幸を振りまく存在よ。これ以上かかわってはあなたが危険なの」
「なっ、なんでそんな酷い事を言うんですか? 紅玉さんはそんな人ありません。神力を持たないだけで不幸を振りまく存在って決めつけるなんて――」
雛菊の言葉に萌は首を横に振った。
「いいえ、根拠はあるの」
「――え?」
「これは三年前の話よ。三年前、紅玉は神域管理庁に入職した。その当時、神子の中に紅玉の幼馴染が五人もいたの。紅玉は、その幼馴染の神子を守るために、この神域管理庁に就職したらしいわ――それで、その幼馴染の神子五人は、今どうなったか知っている?」
雛菊は知るはずもない。紅玉の幼馴染が神子だなんて知ったのも聞いたのも初めてだ。
そして、雛菊は察してしまった。あの紅玉の事だ。幼馴染が神子であるなら――それも守りたいと思う程、大切な存在ならば、雛菊に一言でも話すであろうと。しかし、今日の今日まで雛菊は聞いた事もなかった。
それすなわち――。
「三年前、その神子五人は命を落としたの。一人残らず全員ね」
その言葉に雛菊は、全身が冷たくなっていくのを感じた。
そんな雛菊を余所に、萌は言葉を続ける。
「ねえ、これでわかったでしょ? 〈能無し〉がいかに危険なのか。私が上層部へ口添えしてあげるわ。あなたをあの〈能無し〉から確実に守ってもらえるように。だから、あなたは何も怖がらなくていいわ」
萌は雛菊に手を差し伸べた。
「さあ、私と一緒に逃げましょ! あの〈能無し〉の所へなんかに行かず、安全な所に! これはあなたのためなのよ!」
雛菊は思い出していた――この研修の日々の事を――。
美しい姿勢でお辞儀をして、優しく微笑む紅玉。
真昼や雲母やれな、多くの神々に信頼されている紅玉。
姉らしくキリリとした表情で、水晶を叱りつける紅玉。
黒い微笑みを湛えながら、紫を張り倒す紅玉。
蘇芳を見て、ころころと笑って、可愛いと言い放つ紅玉。
(これの……この人のどこが――――!)
頭の中で、己と同じ声が響いた――。
紅ちゃんのせいじゃないっ!!!!
雛菊はギッと萌を睨みつけた。
「お断りしますっ!!」
雛菊の言葉に、萌は目を剥いた。
**********
個室から追い出された紅玉と右京は内心焦っていた。
「今まで黙っていたかと思ったら、やはり彼女も雛菊様目当てだったわけですね……!」
「紅様……!」
「何とかしてもう一度中に入る口実を作らなくては……!」
しかし、料理は運び切ってしまった。追加で注文された物はない。
「仕方ありません。怒られるのを承知の上で無理矢理部屋に押し入りましょう」
「言い訳はなんとしましょう?」
「そうですね――」
その時だった。
「ぎゃああああああああああああっっっ!!!!」
叫び声と何かが割れる大きな物音。そして――。
「このド変態親父ぃいいいいいいいいいっ!!!!」
あの怒号は紛れもなく焔の物だ。
その怒号を聞いて、紅玉と右京はすぐに察した。
確か焔は、食器を下げに行っていたはずだ。そして、焔に執着を見せていた男性職員は手洗いに立っていたはず――。
「……紅様、申し訳ありませんが、少々様子を見に行っています」
「はい、お願いしますね、右京君」
右京は軽く頭を下げると、騒ぎの元へと駆けていった。
(さてと……確か、雛菊様の御膳と男性職員の御膳はまだ下げられず、多少残っていたはず……それを理由に中に――)
そう思いつつ、紅玉が襖に手をかけようとした時だった。
「おっ!? 呉藍ちゃんっ、どこ行ってたんだよぉっ!」
「っ!」
それは雛菊が来店するまで対応していた男性客の一人だった。まだ店に居たようで、随分と酒を飲んでいる事が見るだけで分かった。
「こんなところにいねぇでさっ、オレに酌してくれよぉっ!」
「お客様、申し訳ありません。わたくし、只今こちらのお部屋の担当をしておりまして、手が離せないので――」
「いいじゃんっ! 呉藍ちゃんっ! ちょっとくれぇよぉ~~~っ!」
(ああもう、こんな時にっ)
普段から酔っ払いの相手をしている事が多く、あしらうのも簡単かと思っていたが、やはり気心の知れた相手と、客とでは、対応の仕方も違く、なかなか思うように事が運べない。紅玉の焦りは募るばかりだ。
「申し訳ありません、お客様。また後程お伺いさせて頂きますので――」
「いこういこう! オレが酒でも何でも奢ってやるからさっ!」
「っ!?」
客に手首を掴まれ、紅玉は慌てて振りほどこうとするが、予想以上の男性客の力強さに抵抗ができない。
「お客様っ、困りますっ!」
「呉藍ちゃんの困った顔もカワイイなぁ~~~食べちゃいたいくらいだな~~~」
近づいてくる男性客の顔――紅玉の限界も近かった。
「っ、いい加減に――」
紅玉が掴まれていない反対の手を振り上げようとしたその時――。
「どわりゃああああああああああああっっっ!!!!????」
「どんがらがっしゃああああああんっ!!!!」という轟音と共に、どこかで聞いた事のある叫び声が個室の中から聞こえてくる。
紅玉は男性客の手を振りほどくと、慌てて個室の中に飛び込んだ。