特別任務準備中
本日は例の生活管理部親睦会の日だ。
紅玉は午前中から遊戯街にある「泡沫ノ恋」へやってきた。水色看板と貝殻やヒトデといった装飾が特徴的な店構えである。
紅玉は店の扉を開けた――扉にかけてある鈴が鳴り響く。
「おはようございます。ごめんください」
紅玉がそう声をかけながら、中に入ると、中にはすでに焔と右京がいた。
「紅玉先輩、おはようございます」
「紅様、おはようございます」
「おはようございます、焔ちゃんに右京君」
三人が互いに挨拶を交わしていると、店の奥から足音が聞こえてきた。
「ああ! 紅ちゃん! お久しぶり! いらっしゃいっ!」
「凪沙ちゃん、お久しぶりでございます」
やってきたのは、この「泡沫ノ恋」の店主の凪沙という女性だ。
牛乳を注いだ紅茶のような甘く茶色の髪がほんの一房が水色に染まっており、ふわりと波打つ度に甘い香りを撒き散らしている。纏う着物は袖や裾に飾縁がたっぷり使われた水色の着物である。剥き出しの肩や艶めかしい細い腰が酷く扇情的であるが、細身で小さく、可愛らしい印象の女性だ。
「話は世流ちゃんから聞いているわっ。ごめんなさいね。こちらの事情で予約取り消しできなくて……」
「いえいえ、それは仕方のない事ですわ」
「その代わり、私達も違う方向からサポートさせてもらうわねっ。紅ちゃんには返しきれない恩があるんだものっ」
「ありがとうございます。とても助かりますわ」
任務のためとはいえ、臨時でこの店で働くのだ。店での仕事を多少覚えておかなければ話にならない。「泡沫ノ恋」の従業員全員が協力してくれるという申し出は非常にありがたかった。
「えっと、右京君は知っているんだけど、そっちのお姉さんは初めましてよね?」
凪沙はそう言いつつ、焔の方を向いた。
「初めまして。昨年度の夏より神域医務部所属しております、焔と申します。以後お見知りおきを」
「まあ! 医務部の人なのねっ。初めまして、私は凪沙よ。よろしくねっ」
「……はい」
焔は凪沙に頭を下げつつ、少し泣きそうな顔をして顔を歪ませていた。凪沙はそんな焔に気付く事はなかったが、紅玉は焔のその表情の意味を察し、凪沙に声をかけた。
「凪沙ちゃん、早速で申し訳ありませんが、お店のお仕事についてお伺いしても?」
「ええ、勿論よっ。じゃあ、まずは――」
凪沙は店についてのあれこれを説明しながら、紅玉と共に店の奥へと入っていく。
頭を下げたままその場で立ち尽くしている焔に、右京が肩を叩いて声をかけた。
「焔さん、大丈夫ですか?」
「すまんっ……すぐに冷静になるっ……」
右京もまた焔の事情を知っている。それが故、あまり急かすことなく、焔が落ち着くのを見守った。
「よかったっ……またあのように笑えるようになっているなら……よかった……っ」
「……紅様と、焔さんのおかげですよ」
「いや……私は違う……私は……罪人だから」
焔の言葉に右京は苦笑しながら、もう一度焔の肩をポンポンと叩くと、紅玉と凪沙を追い、店の奥へと入っていった。
そして、焔もまた顔を上げ、深呼吸をすると、いつものように落ち着いた表情で、店の奥へと入っていった。
店の奥では、凪沙が紅玉に配膳の流れなどを説明していた。
「うちのお店のコンセプトは『人魚姫』だからね、お酒とかお皿に、貝殻やヒトデの飾り付けをしてから配膳をする決まりなのっ」
「なるほど。ですからお店の名前も『泡沫ノ恋』なのですね」
「うん。叶わない恋をしている人達のお手伝いっていう意味もあるんだけどね」
(((それに関しては少し賛否が分かれる)))
紅玉、右京、焔の心の声が揃ったところで、凪沙はパンと両手を叩く。
「あっ、そうだ! みんな先にお店の制服に着替えちゃってから研修にしましょっ」
「えっ、店に制服があるのか?」
「うんっ。だってうちは『人魚姫』がコンセプトでしょ。制服もこだわらなきゃっ」
ここは遊戯街――。神域で唯一の娯楽のための店が並ぶ特別区域。色艶やかで華やかな店が多く、見目麗しい男女が多く働いている。それに引き寄せられ、神子や神、そして神域管理庁の職員も、一時の夢を視る――。
そして、その遊戯街で働く世流や目の前にいる凪沙の服装を見れば、一体どういう制服が出てくるなど、想像が容易い。
紅玉と焔は恐怖と羞恥に震え上がった。
「あ、あの、凪沙ちゃん、わたくしは一番地味な制服で構いませんので! いっそ目立たないものを!」
「わ、私も同じものが希望だ!」
「ダメよっ! 二人ともせっかくイイものを持っているんだからっ! それに世流ちゃんに、二人を綺麗に可愛く変身させてねってお願いされているんだからっ!」
パチンと凪沙が指を鳴らせば、どこから現れたのか、「泡沫ノ恋」の従業員がそれはそれは良い笑顔で紅玉と焔を取り囲んでおり、二人は逃げ場を失った。
「さ~~~あ~~~、お着替えしましょうね~~~」
紅玉と焔は互いに身を寄せ合い、これから起こりうる未来を想像し、子犬のように震え、右京はただただそれを微笑ましく見守っていた。
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「本日の訓練はここまでにしましょう」
「ありがとうございました……!」
二日ぶりの訓練に、雛菊は予想以上に疲労を感じていたらしく、蘇芳にお辞儀をするとともにその場に座り込んでしまった。
「雛菊殿! また具合が悪いのでは!?」
「だっ、だいじょうぶです。単純に、すごくお腹が空いて、力が抜けただけです……!」
「それはよくないな。真昼殿! れな殿! 菓子と茶を頼む!」
蘇芳がそう声をかけると、真昼とれなはすぐさま駆け寄ってきて、菓子と茶を差し出した。
「大丈夫か? 雛菊さん、無理しちゃダメだぜ?」
「……お菓子食べて」
心配そうに見つめてくる二人に、雛菊は心がほんのりと温かくなる。
(あ~~~んっ! 可愛い~~~っ!)
そして、二人が差し出してくるおはぎに喜んで齧り付いた。甘さが口いっぱいに広がり、疲労が抜けていくのを感じる。
「おいひい……」
「ただの神力疲弊ならばよかった……また意識を失うような事があれば、申し訳が立たないからな。具合を本格的に悪くする前に遠慮せず言ってくだされ」
蘇芳の言葉に雛菊はおはぎをもぐもぐしながら頷いた。
三日前に二回も意識を失って倒れてしまった雛菊は、大事を取って、一昨日と昨日は休暇を取らせてもらっていた。そのため体調はすこぶる良好であった。
だが、雛菊には腑に落ちない点がある。
(なんで、あたしは意識を失ったんだろう……)
未だその原因は解明されないままであった。
二度目の意識消失の際、再び医務部の詩に診察してもらったが、やはり身体面に問題はなかったという事だ。雛菊自身も己の意識消失の原因を考えてみたのだが――。
(なんで、あたしは意識失う直前の記憶がぷっつり途切れているんだろう)
雛菊は己の愚かさを呪った。
一度目倒れた時は直前まで蘇芳と会話していた記憶はあるし、二度目の時もやはり紅玉と直前まで会話していた事も覚えている。
しかし、肝心の倒れた原因となる事柄を一切覚えていないのだ。
(ははは……まさかと思うけど、訓練のし過ぎで、意識失うほどお腹が空き過ぎて倒れたってのが原因じゃないでしょうね……いや、あり得るわ。むしろそれしか考えられないわ)
小さい頃の極貧時代は空腹で、一瞬亡くなった祖父母が見えたくらいなのだ。空腹で意識を失うという事は、身を以って体験しているだけに、強ち否定できない。
(空腹が原因で意識失って倒れましたとか、ホントただの恥でしかないから、一生黙っていよう! うんっ!)
そして、雛菊は今度こそ、空腹で意識を失う事がないように、おはぎをお腹に詰め込んでいった。
周囲では、何人かの神々が肩を震わせてプルプルしていたが、おはぎに必死に齧り付く雛菊はそんな事に気付けるはずもなかった。
一方、蘇芳は冷静に雛菊を見つめながら、三日前の事を思い出していた――。