出立準備中
空と鞠を見送ると、蘇芳は口を開いた。
「紅殿、支度は整ったか?」
「はい、わたくしはとっくに」
紅玉は朝早々に準備を終えており、紫の矢絣の着物に臙脂の袴を乱れなく着こなしている。
先程まで軽装だった蘇芳も、今は着替えてその軍服を着用し、帽子を被っていた。仁王か軍神かといった容姿の蘇芳に、軍服はあまりにも似合っている。
余談だが、実は神域管理庁の職員には制服がない。よっぽど軽装でなければ指摘を受ける事もないので、割とそれぞれ好きな物を着ている。敢えて言うなら、蘇芳が所属する神域警備部の職員は軍服着用率が高く、紅玉が所属する神子管理部は袴着用率が高いと言っておこう。
「あら、蘇芳様、少し屈んで頂けませんか?」
「ん? こうか?」
蘇芳が屈むと、紅玉は蘇芳の詰襟に手を伸ばす。
「いけませんわ。首が窮屈になるからって襟を外されては。こういう正式な時はきっちりと留めてくださいませ」
「あっ、いやっ、紅殿……!」
「少し黙ってくださいまし」
いやそうではないと、蘇芳は心の中で叫んだ。距離が酷く近いのだ。互いの香りが感じられるほどの近さと首に触れる指の感触に、蘇芳はドギマギしてしまう。
ふわりと漂う花のような甘い香りに蘇芳は眩暈がしてくる。
「はい、これでよし。式典が終わるまでは我慢してくださいませ」
「あ、ああ……」
頬の熱さをひたすら隠しながら、蘇芳は最早詰襟の苦しさなど感じてなどいなかった。よっぽど今の時間の方が苦行であったからだ。
そんな蘇芳を、神々が憐れんで見つめ、中には肩を叩き、蘇芳を慰めている神もいた。
「ところで……晶ちゃんは遅いですね……」
「ん? 紅殿は準備の手伝いはしていないのか?」
「ええ。わたくしは他にも準備がありましたので、女神様達にお願いしてしまいました。皆様、張り切っていらしたから、もしかしたらとんでもないものが出来上がっているかもしれませんわね」
水晶は十三歳にして儚げな美しさを持つ少女だ。だらけた姿ですら、美しいと思うのだから、着飾った日にはとんでもない事になる。そして、日頃神子を着飾りたいという欲求を抱えている女神達の鬱憤がここぞとばかりに爆発してしまったようだ。少なくとも準備に間もなく一時間半以上が経過しようとしていた。
すると、御社の玄関の扉が僅かに開かれ、中から女神が顔を覗かせた。その顔は満面の笑みである。
「ふっふっふ~~~! お待たせ!」
そして、扉は大きく開かれる。
「じゃっじゃじゃ~~~~~~んっ!!」
そこに立つのは、まさに「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という古来より使われる美人の形容に相応しい美少女だ。神力を纏ったふわりと波打つ白縹の髪は艶々と輝いており、その一部が綺麗に纏められていて、簪がシャラリと飾り付けられている。薄く化粧を施され、肌は更に白く、頬は桃色に染められ、唇もほんのりと赤に染められて、幼さの残る顔立ちが美人に仕上げられている。その身に纏うのは最上級の振り袖。水色から銀、そして白へ移り変わる美しい色彩の刺繍は見る者を惹きつける。それを着ているのが女神の如く美しい少女なのだから、眼福としか言いようがない。
「あらまあ……っ!」
「これはまた……!」
普段から水晶を見慣れているはずの紅玉も蘇芳も見惚れる程の会心の仕上がりだ。
「流石です! 女神様がた! あのぐうたら娘をこんな短時間で!」
女神達のその手腕に紅玉は拍手喝采だ。
しかし、それに不満げなのは、水晶本人。
「うみゅ、お姉ちゃん、そこはお世辞でも、晶ちゃんの元が良いと褒めて欲しかった」
むすっと頬を膨らませる水晶に蘇芳が慌てて弁解する。
「水晶殿、あまりお気になさらずに。紅殿は貴女の普段の姿を知っているからこそ、褒めにくいだけかと」
「みゅみゅっ!? すーさん、それフォローしてるつもり!? むしろ貶してるでしょ!!」
「あっ、いやっ、すみません……!」
ぷりぷり怒り出した水晶に蘇芳は平謝り状態だ。
すると、透かさず紅玉がパンパンと両手を叩く。
「はいはい、怒るのはそこまでになさい、晶ちゃん。もう出かける時間ですわよ。あと蘇芳様に文句があるのなら、ご自身の行動を少し顧みなさい」
「うみゅっ? 晶ちゃん、よくわかんな~~~いひゃひゃひゃひゃっ!! いひゃいいひゃい!!」
おどけてとぼけた水晶の頬が容赦なく餅のように引っ張られ、蘇芳が慌てて紅玉を止めに入る。
「べ、紅殿……!」
「まったく……ちっとも反省のない子ですね」
蘇芳に言われては仕方ないとばかりに、紅玉は水晶の頬から指を離す。
「晶ちゃんは反省していないわけじゃないもん。反省してからまたぐうたらするのです! キリッ!」
その言葉に水晶の頬を引っ張りたくなった紅玉であったが、今は本当に時間がない。もうそろそろ出なくては、式典の開始直前の入場になってしまう。
「ところで神様からの同行者は誰なのですか?」
「うみゅ、決めてないからこれから決める」
「……はい?」
水晶は集まっていた神々に向かって叫んだ。
「晶ちゃんと一緒に新入職お披露目の儀に行きたい人~~~?」
水晶がそう叫ぶと、ほぼ全員の神が手を挙げた。
「お前去年行ったじゃろう!? ダメじゃダメ! なしじゃなしっ!」
「そういうてめぇは一昨年行っただろ!?」
「なあ! 俺! 式典の料理食いたい!」
「女神組だって式典行きた~い! 神子様がモテモテな姿を間近で見た~い!」
「だから、行けるのは一人だって!」
「では代表してボクが」
「いやいやぼくが」
「ここは俺だろう!」
「待ちなさい! あなた方変態三人組の誰かが式典出席だなんて、私が絶対許しませんよ!? どうせ碌でもない事をして目立つつもりでしょう!? 手を下げなさい手を!」
あっちもこっちも自分が自分がと声を挙げ、最早事態の収拾がつかない。このままでは喧嘩っ早い神あたりが「よしわかった勝負で蹴りつけようぜ」とか言い出しそうだと、紅玉が思っていると――。
「よしわかった勝負で蹴りつけようぜ」
と、誰かが予想通りの台詞を言いだした。
それを聞いた一部の血気盛んな神達が「おっ! いいね!」「よしやるか!」など言い出し、腕まくりを始めている。
紅玉は、はあっと大きくため息をつくと、今度は大きく息を吸った。それを見た蘇芳はサッと耳を塞いだ。
「お静かにいいいいいいいいいいいいっっっ!!!!!!」
紅玉の大声に、神々は全員咄嗟に耳を塞ぎ紅玉を振り返った。
「皆様……時間がないと申し上げましたよねぇ?」
にっこりと微笑んではいるものの、その後ろに漂う黒い影は明らかに怒りだ。神々は全員震えあがった。こうなった紅玉は酷く恐ろしい事を誰もが知っていたからだ。中にはカタカタと子犬のように震えている神もいる程だ。
しかし、予想に反して紅玉は徐々に怒りを鎮めていく。その様子に神々は「おやっ?」と首を捻った。
「しかしながら、勝負で蹴りをつけるのはありだと思いますので、どうぞお好きなように」
「……紅殿?」
紅玉の言葉に蘇芳も首を傾げたが、紅玉は構わず言葉を続ける。
「でも、皆様、よぉく考えてくださいまし。本日は新入職お披露目の儀。主役は晶ちゃんでもお料理でも、ましてや変態様がたではなく、新入職の空さんと鞠ちゃんです。つまり今日は二人の晴れの日です。さて、皆々様、ここまで言えば、わたくしが言わんとしたい事、もうおわかりですよね?」
にっこり微笑む紅玉の言葉を聞き、誰もが「あっ」と思い出したように声を挙げた。
突然だが、空は神域で生まれ、彼が生まれた御社に住んでいた竜神に育てられた子である。その竜神は大層空を可愛がり、空もその竜神を父と呼び慕っていた。空の母が亡き今も、その竜神は空を我が子のように想い、大変大切にしている。
そして、その竜神は今、この十の御社に住処を移し替え、水晶に仕えているのだ。
神々は恐る恐る後ろを振り返った。そこには空が父と呼び慕う水の竜神が腕組みをしながら仁王立ちをして、膨大な青い神力を撒き散らせて不敵に微笑んでいた。
海のような鮮やかな青い髪と水面から深海へと移り変わる青と蒼が混じる瞳は、普段は非常に穏やかなものだが、放つ威圧感のせいで今や恐ろしさしか感じない。十の御社の中で最も身長が高く、がっしりとした体格の神という事もあり、それをさらに拍車をかけてしまっている。その凄まじさ、可愛い我が子の晴れ舞台をこの目で見るために、ここにいる神全員を屠る勢いだ。
「式典に参加したい者は、我を倒してからゆけ」
地響きの如く低い竜神のその声に最早戦意など誰にもなかった。
「「「「「蒼石さんで異議なーし!」」」」」
こうしてものの数秒で、同行者は水の竜神の蒼石に決まったのであった。
「うみゅ、計画通り」
水晶の発言は適当そのものだ。
「ふふふ、後で覚悟なさい」
本当は今すぐここで叱り飛ばしたいところだが、本当にもう時間がない。
蒼石が水晶を片腕に抱え上げ、紅玉が必要な物を持ち、蘇芳が先導する。
「それでは皆様、お留守番よろしくお願いしますね!」
「みんな~、いってきま~~~す!」
「「「「「いってらっしゃーーーーーーい!」」」」」
神々に見送られながら、四人は十の御社を出立した。
目指すは神域と現世を繋ぐ入口、大鳥居だ。