覚醒の兆し
「大変申し訳ございませんでしたああああああっ!!!!」
それはまるで手本にしたくなる程、見事な土下座であった。
「意識を失って倒れて神子様神様先輩方に多大なるご心配ご迷惑をおかけした上に、本当は大分前から意識を取り戻していたにもかかわらず、シリアスな空気に目を開けにくくなってしまってそのまま狸寝入りを決め込んでしまってほんっとうにっ申し訳ございませんっっっ!!!!」
挙句、雛菊は、寝台の上にいたにも拘らず、わざわざ寝台から下り、床の上で土下座をしていたのだから。紅玉はいっそ惚れ惚れとしながらその土下座を見ていた。
「えぇっと……意識が戻られたのなら良かったです」
雛菊の正直な謝罪に清々しく思うが、意識を失った人が寝ている部屋で姉妹喧嘩をしてしまっているだけに、むしろ紅玉の方も居た堪れない気持ちであるくらいだ。
ちなみに蘇芳や水晶、真昼達三人は退室していた。紅玉不在の状況では、雛菊の世話役は蘇芳の役目であったが、紅玉が戻ったのなら、女性である雛菊の部屋に長居はあまり褒められた行為ではないからと、蘇芳は水晶達を引き連れて立ち去ったのだ。
そして、その直後、雛菊の土下座が始まった。
「えっと、雛菊様、どうぞお顔を上げてくださいませ。お加減はいかがですか? どこか痛むところとか具合の悪いところとか――」
「あたしはっ! 物凄く! 元気です! ので! 申し訳ございませんっ!」
(――ですよね)
非常に元気そうに土下座しているので、一安心と言えば一安心なのだが――。
「雛菊様、医務課の先生の診断では、雛菊様の体調不良の原因は、身体的疲労ではなく、精神的疲労によるものでは、とのことです。そのようにご自分を責めては、また体調を崩されてしまいますわ」
「申し訳ございませええええええんっっっ!!!!」
(悪循環ですわ)
この数日で雛菊が酷く腰が低い事は分かっていたが、家が貧乏で幼い頃より苦労してきた彼女だ――最早土下座謝罪は癖のようなものなのかもしれない。紅玉は雛菊を若干憐れに思ってしまう。
とにかく言い方を変えなければ、雛菊はずっと床に額を擦りつけたままであろう。
「雛菊様、わたくしが言いたいのは、雛菊様がこちらにいらしてから精神的にご負担をかけているかもしれないという心配でして、それを解消する為にもどんな悩みも疑問も全てお話しいただけたらと思って申し上げているのです。勿論、言いたくなければ言わなくて構いませんので」
紅玉はいつも以上に優しく言いながら、いつも以上に優しく微笑みを浮かべた。
すると、ようやっと雛菊は床から額を離し、紅玉を見上げた。
「な、なやみ……ぎもん……」
「はい。雛菊様を煩わせている全ての事にお答えしますわ。悩みでしたら相談も乗りますので、遠慮なさらずに」
紅玉はそう言いつつ、さりげなく雛菊を立ち上がらせて、寝台の端に腰かけさせ、己はその傍にある椅子に座った。
紅玉にそう言われて、雛菊はふと考えるものの、今はこれといった悩みや疑問がなかった。この十の御社で、非常に良くしてもらっている。これ以上、何かを望むのは、欲深く罰あたりだと思う程に。
「あ、あえて言うなら、神術の訓練が、うまくいかなくて……」
「あらあら……でも、まだたった二日目。神術の扱いは非常に難しいのですよ。下手をすれば扱いきれるまでに五年以上かかった人もいますわ。わたくしなんて、神術使えませんし」
「そうなんですかっ!?」
雛菊はその事実に驚くばかりだった。神術を習得できるようになるまで五年以上かかるだとか、優秀な紅玉が神術を使えないだとか――たかが二日くらいの訓練で落ち込んでいる自分がちっぽけなものに思えた。
「なんか、ちょっとスッキリしました」
「それは良うございました――他に何かございますか?」
「えっと……」
雛菊は考えるものの、正直パッと浮かぶものがなかった。それこそ小さい頃は空腹で困る事があったり、ボロボロの家の隙間風が寒くて風邪をこじらせ死にそうになったりなど、悩みは尽きなかったが――。
疑問だって、紅玉が懇切丁寧に教えてくれるおかげで、大分神域での常識は身についてきた方だと思う――まだまだではあるが――。
「あ」
「はい?」
そう、雛菊は思い出してしまったのだ。昨日の事を。
(ど、どうしよう……あの事を直接紅玉さんに聞いていいものなのか……でも、蘇芳さんがいない今ならチャンスなような……蘇芳さんいた方が聞きにくいって言うか、絶対聞くのが怖いし……ああでも、紅玉さんにとって、『あの言葉』は差別言葉になるんじゃ……うーーーーーーん……)
「雛菊様、何か疑問に思っている事がお有りなのですね?」
(ぎくっ)
雛菊は考えている事が顔に出やすい己の性質を呪った。
「どうぞ、お気になさらずお話になってください。わたくしが答えられる範囲できちんとお答えしますので」
「うっ、でも……紅玉さんを不快にさせるかも……」
「ご安心ください。この世でわたくしを不快にさせる天才は紫様以外に居りませんわ」
「あ、うん、はい、そうですね」
紅玉のその言葉を聞いて、何故か納得と安心してしまった雛菊。そして、少し躊躇いながらも、疑問に思っていた事を口にする。
「あの……〈能無し〉ってどういう意味ですか?」
「ああ、そういえば、〈能無し〉のことは就職説明会では習いませんものね」
神域には神力の強さによって呼ばれる格付けのようなものがある。
〈神の愛し子〉――強い神力を持つ神に選ばれし者。つまりは神子の事だ。
〈神の友人〉――〈神力持ち〉と呼ばれる神子に匹敵するほどの強い神力を持つ者。
〈神の仕者〉――〈異能持ち〉と呼ばれ、比較的強い神力を持つ能力者。
〈神に祈る者〉――普通の神力の持ち主。つまり極普通の一般人だ。
ここまでは雛菊も就職説明会で聞いた内容であった。
「――実は説明会で教わる格以外にもう一つ格がございます。〈能無し〉――神力を持たない者の事。〈神に捨てられし子〉と呼ばれる存在です。そして、わたくしはその〈能無し〉――神域の長い歴史においても、〈能無し〉はわたくしただ一人だけだそうです」
紅玉の説明と、昨日の萌の蔑みの言葉で、雛菊は〈能無し〉がこの神域において、どういう存在であるかを悟った。
そして、信じられない思いでいた。目の前の紅玉が――〈能無し〉であると。
「あ、あの……紅玉さんは、本当に、〈能無し〉なんですか?」
「はい、間違いなく」
「で、でも、そんな証拠……」
「……雛菊様は、わたくしの髪と瞳を見て、何か疑問に感じた事はございませんか?」
「――え?」
雛菊は紅玉の髪と瞳を見た。それは大和人特有の漆黒の髪と瞳。何の違和感もない。大和人が当たり前に所持する色なのだから――現世では。
雛菊はその事にたった今気付き、目を見開いた。
「ええ、お察しの通り、わたくしは三年前の新入職お披露目の儀の際、大鳥居をくぐっても、髪の色も瞳の色も変わることなく、生まれたままの漆黒でございます。本来、神域に足を踏み入れれば、誰しもがその身に神力の色を宿します。すなわち、色が変わる事のなかったわたくしは、神力を持たない存在であることの何よりもの証拠。そして、この神域において、神力を持たない証である、この漆黒の髪と瞳は異常で、異端で、忌み嫌われるべき存在なのです」
紅玉の淡々とした言葉に、雛菊は唇を噛みしめた。
「就職説明会で、〈能無し〉の事を説明されなかったのは、その必要がないからだと思います。この神域で〈能無し〉はわたくし一人だけですから、わたくし一人の為の説明など時間の無駄でしょうから」
紅玉は至って真面目に説明をしていく。その表情は悲しげな様子も無く、ただただ普通だ。
「きちんと事前にわたくしの事を説明しておかなかった事、お詫び申し上げます。わたくし自身、昨日のような言葉を浴びせられる事には慣れてしまっていたので、雛菊様への説明と配慮が足りませんでしたわ。恐ろしい思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
紅玉は深々と頭を下げた。
「雛菊様、わたくしは〈能無し〉でございます。この神域で最も嫌われるべき存在です。もしかしたら、今後も昨日のようなことが度々あると思います」
紅玉はまるでそれが当り前であるかのように言う。
「わたくしが恐ろしいとお思いでしたら、喜んで研修の担当者を辞退いたします。代わりにわたくしが信頼する職員にしっかり申し送りさせて頂くので――」
ただただ、悲しかった――。
悲しくて、悲しくて、悲しくて、悲しくて――悔しい――。
先程からずっと、頭の中で、声が響いている――。
「そんなこと言わないで」――鈴を転がすような綺麗な声が。
「傍にいてあげたいのに」――苦しげに絞り出す声が。
「守りたいのに」――憤る女性の声が。
「声が届かない」――凛とした女性の声が。
そして――。
「お願い、助けて」――己と同じ声の泣きそうで消え入りそうな声が。
頭がガンガンする――。
声に感情が引っ張られそうになる――だが、それだけではなく、雛菊自身が、間違いなく「悲しい」と思っていた。
そして、雛菊は感情に身を委ねた――。
「何でそんな事言うのっ!!??」
雛菊の突然の叫びに紅玉は驚き目を見開いた。気づけば、雛菊はボロボロと瞳から涙を流しながら、強い意思の宿る瞳で紅玉を睨んでいた。
「紅はどうしてそんな自分の事を否定する言い方ばっかり! そんなの誰も喜んでないし、嬉しくない! なんで怒らないの!? なんで悲しいと思わないの!?」
雛菊は紅玉の肩に掴みかかる程、感情を爆発させている。
そんな雛菊の様子に紅玉は戸惑い、そして違和感を覚える。
「紅がすごく我慢強い子だって知っている……でも、それが今は辛いわ。もっと怒っていいし、泣いていいのよ……紅ちゃんの周りには頼れる人、いっぱいいるでしょう? もっと頼っていいの、甘えてもいいの」
「ひ、なぎくさま?」
「……だから、紅ちゃん、自分の事をもっと大事にしてほしい。もっともっと自分を甘やかして欲しい。君は無茶をする人だから」
そして、雛菊は再び顔を歪めて、大粒の涙を零しながら言った。
「紅ちゃん……ごめんね……肝心な時に傍にいてあげられなくて、ごめんねぇ……」
紅玉は驚きのあまり言葉を失う。
そして、雛菊は再び意識を失って、その場で倒れた――。
「え…………」
紅玉は極めて混乱していた――雛菊の様子や言葉や涙に――。
その理由を模索した時に、一瞬思い浮かんでしまった考えは、あり得ない。その可能性は万が一でもあり得ない。あり得ない。あり得るはずがないのだ。
意識を失って倒れた雛菊に駆け寄り、必死にその考えを否定するも、頭の中がぐちゃぐちゃに絡まり縺れ合い、どうすればよいのかわからなくなる――。
紅玉は頭の中に浮かんだ人物の名を咄嗟に叫んでいた。
「蘇芳様っ!! 蘇芳様ぁっ!!!!」
その声は少し震えていた――。