客人と〈能無し〉
鋼に連れられ、紅玉と雛菊と蘇芳は応接室へとやってきた。その応接室は、雛菊が初めて案内された「応接の間」よりも遥かに小さな部屋だった。
応接室の長椅子には十の神子である水晶が座り、その後ろに数名の神々が立つ。そして、水晶の真向かいの長椅子に客人らしき女性が座っていた。
肩に付くか付かないくらいの髪は抹茶色。その髪のごく僅かに漆黒色が混じっている。瞳の色は銀杏のような淡い黄色だ。
その女性を目にした瞬間、紅玉はほんの一瞬息を呑んだが、それを悟られないように努めて平常心で、その女性の傍へと歩み寄る。雛菊と蘇芳は紅玉の後ろに立ち、鋼は神が並んでいる場所に着いた。
「お待たせしました。十の御社で神子の補佐役を務めております、紅玉と申します」
「ええ、知っているわ。私、一応あなたの同期だし、あなたはこの神域ではある意味有名人だから、知らない方が潜りだわ」
女性の言葉に紅玉は何も答えず、柔らかく微笑みを湛えるだけ。
一方の蘇芳は怒りを堪えるかのように眉を顰めている。
そして、雛菊の中では、その女性の第一印象が悪いモノになっていた。
(なんか……棘のある言い方ね……)
しかし、雛菊には、何故女性がそのような言い方をするのか全く分からなかった。
ジッと女性を見つめていたら、女性は雛菊の方を見て、ニコッと笑いながら立ち上がる。なかなかの美人である……と、雛菊は思った。
「初めまして、雛菊さん。私は生活管理部参道町配属巽区担当の萌。あなたより年齢は一つ下だけど、紅玉さんとは同期で、実質私が先輩だからよろしく」
「雛菊です。よろしくお願いします……」
内心、初対面に対してすでに上から目線の態度に、「よろしくしたくない」と思ってしまう。
「萌様、雛菊様に用事とのことですが、どういったご用件かお聞かせ頂けないでしょうか?」
「……雛菊さんと二人で話をさせてくれないかしら? これは生活管理部の用件なの。他の部署には関係のない話だから」
「それは、承服しかねます。雛菊様の研修担当は、わたくしでございます。研修生への用件は、担当者を介して報告すべきです」
「別に、絶対的な決まりじゃないでしょ」
「研修生は神域の常識について、右も左もわからない状態です。それらを教えるのが担当者の役目です」
「ホント頭固くて、融通利かないわね」
「一度例外を許してしまえば、示しがつきませんので」
紅玉と萌の応酬をハラハラと見守っていた雛菊だったが、不穏な空気が一向に収まらない事に痺れを切らし、口を開いた。
「あ、あの、あ、わたし、二人で話でもいいと思います……!」
「っ、雛菊様」
「ほら、雛菊さんもこう言ってるんだし――」
「で、でも、その後、必ず用件を全部紅玉さんに申し送りします。それでもいいですか?」
雛菊のハッキリとした言葉に萌は目を見開き、言葉を詰まらせた。そして、キッと雛菊を睨みつける。
(ひっ! 美人の怒った顔コワイ!)
しかし、それでも雛菊は発言を撤回するつもりはなかった。
「……萌様、いずれにせよ、貴女様のご用件はこちらに伝わるのです。今こちらでご用件をお話しくださいませ」
有無を言わせぬ紅玉の圧力に、萌は少し怯んだ。
しばしの睨み合いが続いた後、折れたのは、萌の方であった。
「……四日後、生活管理部所属者だけの親睦会を開催する事になったのよ。新人さん達は強制参加なのでよろしく」
「お待ちください。新入職者達が最も忙しい研修期間中に、そのような会が開催されるなんて、非常識にも程があります」
「だからこそ、やるのよ。忙しい研修期間中にだって休息時間は必要でしょ」
実際、紅玉の言う通り、研修期間中にそのような会の開催の前例はあまりない。どの部署も新入職者が神域に慣れた研修期間が終わってから開くのが通例だ。
では何故、生活管理部はこのような時期に会の開催を決めたのか――。
(どう考えても、雛菊様ですわね……)
この数年現れる事がなかった〈神力持ち〉が、今年度の新入職者に現れ、その人物が生活管理部所属だ――誰がどう考えても、〈神力持ち〉である雛菊に一刻も早く接触しようと画策しているのだろう。
萌は長椅子から立ち上がると、雛菊に近づく。
「――というわけで、コレ招待状ね。場所と時間はその中に記載してあるから」
「えっ、あの」
雛菊の返事も聞かず、萌は招待状を雛菊に押し付けた。
「新人は強制参加よ。ちゃんと来てくれないと、今後の神域生活で苦労するわよ」
(これってパワハラじゃんっ!)
社会人になれば、一度は経験するかもしれないと覚悟はしていたが、思ったよりも早く経験する事になってしまい、雛菊は恐怖に震えた。
「萌様、今の発言は脅しにも取れます。発言にはお気を付けください」
「……ちょっと、あなた、さっきからいちいちうるさいわよ」
「わたくしは正当な意見を申し上げているだけでございます」
「へぇ、あっそう」
紅玉の至極真っ当な返答に、萌は自尊心を傷つけられたようで、最早苛立ちを隠せなくなっていた。
「〈能無し〉は、文句だけは立派なのね」
〈能無し〉――その言葉が出てきた瞬間、紅玉、萌、雛菊以外の全員の雰囲気が変わった。応接室がまるで極寒の地に変貌してしまったかのように、ピリピリと空気が凍りつく。
(え、な、なに……!?)
雛菊は只ならぬ周囲の様子の変化に戸惑ってしまう。
これ以上、それを言わない方がよいと、事情を知らない雛菊ですら直感で察せるというのに、萌はさらに言葉を続ける。
「私とあなたは同期入職だけど、あなたは〈能無し〉で私は〈異能持ち〉よ。格の違いがわからないの?」
「……わたくしは、〈能無し〉ではありますが、日々の業務を真面目にこなし、神子様を支えているつもりでございます。その仕事に向き合う心構えは、〈能無し〉であろうと〈異能持ち〉であろうと、関係ないことだと思います」
「それが問題だってずっと言われているじゃない。〈能無し〉が神子様にお仕えするなんて、それこそ非常識で前代未聞よ。だってあなたは〈神に捨てられし子〉じゃない」
雛菊は全身を凍らせた。そして、酷く恐ろしくなる。萌が原因ではない。原因は自分の隣にあった。
自分の隣に座る仁王か軍神かの容姿のその人が放つ気配が、あまりに恐ろしく、そちらを見ないようにする方が最早必死だ。
「……萌様、それ以上は言葉を慎んでくださいませ。これは貴女様の為に申し上げております」
「はあ? だから、〈能無し〉が誰に向かって口答えしているの? 神力がない、神様にさえ見捨てられたあなたは、神子様にとっての疫病神でしかないって、三年前の事件でも――」
ぞくり――――!!
心臓が抉られるような恐ろしい殺気に萌はそれ以上言葉を発せなくなる。
どくり――心臓が脈を打ち、全身から冷や汗が吹き出す。瞬きも、視線を動かす事も、口を開く事も、ましてや息をする事も出来なくなる程、全身が金縛りにあったかのように動かない、動かす事ができない、むしろ立っていることすらできない――。
すると、腕を乱暴に掴まれ、崩れ落ちそうだった身体を何とか支えることができた。倒れ込まなくて良かったと、安心したのも束の間――己の腕を掴む人物を見た瞬間、萌は見た事を後悔した。
威圧感のある軍神のような強靭な身体から赤黒く迸る殺気を纏わせ、その顔は仁王のような憤怒の形相。金色の瞳も相手を射殺さんばかりに鋭く光っている。
その人物――蘇芳は、萌の腕を乱暴に引き、まるで屑を投げ捨てるかのように、萌を応接室の入り口へと放った。
萌はその場に座り込み、全身を震え上がらせ、真っ青な顔をして、蘇芳を見る事しかできない。
「帰れ。今すぐに。全身を原形も無く、無惨に潰されたくなければな」
ビリビリと空気を震わす低い声に、萌は「ひっ」と情けない声しか上げる事ができず、まるで蘇芳から逃げるかのように、床を這い、足を滑らせながら、慌てて逃げ出して行った。
「……誰か、てきとーに見送って。あと塩まいといて」
そう言った水晶の声も、いつもよりあきらかに不機嫌であった。