藤の神子乱心事件前夜
目の前で蜜柑を失い、藤紫は蜜柑殺害の容疑者とされ逃亡した。
そこに追い打ちをかけるようにして放たれた桜姫の言葉に、紅玉の心は砕け散った。
意識を失い、元々悪かった体調が輪をかけて悪化したのだ。
医務部の医師にも診察してもらったにもかかわらず、原因は不明。
だが、時間を追うごとに紅玉の容体は悪化していった。
顔色は非常に悪く、全身が冷たくなる一方で、呼吸はどんどん浅くなっていく。
まるで風前の灯火のようになってしまった紅玉を、蘇芳は付きっきりで看病した。
今、全職員に藤紫の捜索命令が出ていたが、幽吾が配慮してくれたのだ。
感謝してもしきれない。
しかし、蘇芳の懸命の看病も虚しく、ついには脈拍も弱まり始めたのだ。
「紅殿……」
冷たい手首から感じる拍動がどんどん弱くなっていく。
呼吸も随分と浅い。
顔色はまるで土のような色だ。
このままでは、紅玉が死んでしまう……。
感じたことのない恐怖に蘇芳は思わず身体を震わせた。
ふと、時計を見ると、今は丑三つ時と言われる真夜中だ。
原因不明だと医師には匙を投げられたが、やはりもう一度診察をしてもらうべきだろう。
医務部であれば、夜勤で働いている職員もいるはずである。
思い立った蘇芳が立ち上がろうとしたその時、この八の御社の関係者ではない気配を感じ、蘇芳はハッと戦闘態勢を取る。
(邪神か!?)
今、神域は重大な神子不足で、挙句つい先程、もう一名神子が失われてしまったせいで、酷く乱れていた。
あちらこちらで邪神が発生し、神子自らが邪神退治に出陣している程だ。
兄であり、八の神子である金剛や神々も邪神退治に外に出ており、今、この八の御社に残るのは蘇芳と臥せっている紅玉だけだ。
しかし、蘇芳は神域最強として名を馳せる男。
邪神の数体程なら屠れる自信があった。
(なんとしてでも、紅殿を守る!)
紅玉を背に庇い、気配のする方を鋭く睨みつけた。
「……そんな怖い顔をしないで欲しいな、蘇芳さん」
少ししゃがれのある、聞き覚えのある声に蘇芳は思わず目を見開いた。
ふわりと、月に照らされて目の前に降り立ったのは、藤紫色の長い髪を二つに結い、猫のように大きな青紫色の瞳を持つ、儚げな雰囲気を持ったその人――現在殺人犯として追われているはずの藤紫だ。
側近の男神に抱えられていたが、地に足を着くと、真っ直ぐ蘇芳と向き合った。
「こんばんは、蘇芳さん」
「藤紫殿……!」
「どうか人を呼ばないで欲しい。あんな状況で信じられないかもしれないけど、ぼくは蜜柑ちゃんを殺していない。信じて欲しい」
「勿論だ。紅殿も、貴女の無実を信じている」
「……ありがとう」
ほっとした藤紫だったが、その表情はすぐ曇る事になる。
蘇芳の背後で臥せっている紅玉を見たせいで。
「紅ちゃん……っ!」
すぐさま紅玉に駆け寄り、その手を握る。
その肌の温度はまるで氷のように冷たかった。
「……苦しい思いをさせちゃってごめんね……今、助けてあげるから」
「紅殿を救う手立てがあるのか!?」
すぐさま反応を見せた蘇芳に、藤紫は思わず笑みを零す。
「うん、あるよ……でも、その前に聞いておきたい事があるんだ」
「……何を?」
藤紫は真剣な表情になると、蘇芳に問いかけた。
「君に紅ちゃんを任せてもよいのかどうか」
「……任せる?」
「単刀直入に聞くよ。蘇芳さん、紅ちゃんの事をどう思っているんだい?」
真っ直ぐなその質問に、蘇芳は目を見開いた。
しかし、真剣な藤紫の眼差しに誤魔化しなど許されないと悟り、蘇芳もまた真剣な表情で藤紫を真っ直ぐ見て、言った。
「……化け物の自分に、嘘偽りなく心から笑顔を返してくれたのが、紅殿だった。見守る内にその微笑みに惹かれ、彼女の心根を尊敬し、彼女の動きや姿に見惚れた。傍にいて、守りたいと思った……だが、自分は化け物で、化け物の自分がこんなこと想うのは分不相応なのかもしれない…………」
今まで紅玉に感じていた、この甘くてもどかしい感情――。
化け物として育てられた蘇芳にとって、その想いの名を口にする事を躊躇っていた……。
だが――。
「自分は、紅殿を愛している」
その想いの正体を問われた瞬間、自然とその想いを真っ直ぐ口にする事ができていた。
だから、こんなにも紅玉の隣にいたいと願ってしまう。
紅玉の悲しみも悲しいと感じてしまう。
紅玉の苦しみも苦しいと感じてしまう。
今も、物凄く心配で、不安で、失ってしまう事が恐ろしいと感じてしまう。
「俺は、紅殿を愛している。だから、なんとしてでも、彼女を助けたい」
蘇芳の告白に、藤紫は少し切なげに微笑んだ。
「……やっぱり、君以上に紅ちゃんを託せる人はいないよね」
藤紫は再び真剣な表情になると、言った。
「蘇芳さん、どうか、ぼく達の事情に巻きこんでしまう事を許して欲しい」
そして、藤紫は語り出した。紅玉の真実を。
「八年前の神力測定検査の時、ぼくらはある化け物に襲われた。その化け物に襲われて、犠牲になってしまったのが、ぼくらを庇った紅ちゃんだった。紅ちゃんは化け物に神力を奪われ……死んだ」
「なん、だと……紅殿が、死んだ……?!」
「だけど、その時、ぼくが『透視』の異能を開花させて、紅ちゃんは神力を抜かれて生命力を失っているだけだと見抜いた。ぼくは、紅ちゃんを救う為に神力を分け与える事を皆に提案した。そして、同じく『術式理論』の異能を開花させた葉月ちゃんが『神力を凝縮させて一つの塊にする』神術を編み出し、それを使って紅ちゃんを救った」
「神力を凝縮させる事は、非常に難しく困難だと言われている……そんな事可能なのか?」
「……ぶっちゃけ、もう意地だったよね。何が何でも紅ちゃんを助けるっていう、五人の意地が生み出した奇跡だよね。『透視』で紅ちゃんの状態を見抜いたぼく、土壇場で神術を編み出した葉月ちゃん、紋章を正確かつ美しく書き上げる事ができた清佳ちゃん、その紋章は壊すことなく緻密に重ね合わせることができた蜜柑ちゃん、そして膨大な神力の持ち主だった海ちゃん……誰か一人でも欠けていたら、できなかった奇跡だよ」
「貴女方は……本当に、仲良しなのだな」
「……うんっ」
蘇芳の言葉に藤紫は嬉しそうに笑うが、すぐに表情を暗くする。
「……だけど、紅ちゃんが神力を持たない〈能無し〉になってしまった原因は、この事件のせいなんだ。紅ちゃんの本当の神力は奪われてしまって、身体の中には無いから……」
「……そうだったのか」
「……挙句、せっかく五人で創った『神力の塊』も限界があると、ぼくは『透視』した。本当に紅ちゃんを救うには、奪われた神力を取り戻す以外方法はない。だから、ぼくらは神子になる事を決意した」
「……神子に?」
「ぼくらは神力測定検査で神子になれる素質があると判定されていたからね。神子になれる自信はあったよ。だけど、何より、紅ちゃんの神力を奪った犯人が、神域管理庁にいると思ったからね」
「神域管理庁に……!?」
「だって、事件現場は神力測定検査会場だった学校で起きたんだ。あの場所は当時、神域と同じ環境にされていたし、ぼくらを襲ったヤツはこの世のモノとは思えない醜い化け物だったからね」
「……っ……」
明かされた真実に蘇芳は驚きを隠せない。
紅玉が〈能無し〉であるその理由もそうだが、その犯人が神域管理庁にいる事、そして何よりも、紅玉が一度死んだ身である事も……。
「……今、紅ちゃんがこうなってしまっているのは、ぼくらが八年前に創った『神力の塊』がもう限界を迎えてしまっているせいなんだ。だから、ぼくはもう一度それを創りに来た」
「だが、藤紫殿……もう海殿も、葉月殿も、清佳殿も、蜜柑殿もいない。そんな奇跡を、もう一度起こせるだろうか……」
「何言っているの。君にはその奇跡が起こせるよ、蘇芳さん」
「……自分、が?」
「神域最強と呼ばれる程の力の持ち主で、何よりも紅ちゃんを誰よりも想っている君になら、奇跡を起こせるよ」
藤紫はそう言うと、蘇芳に五つの欠片を託した。
それは神力の欠片だった――紺碧色、萌黄色、薄浅葱色、蜜柑色、そして藤紫色の。
それらが誰の神力であるかは一目瞭然だった。
「……蘇芳さん、どうか紅ちゃんを救ってください」
「わかった。必ずやってみせよう」
紅玉を救う――その為ならば、蘇芳に迷いなどなかった。
「まずは〈木〉〈火〉〈土〉〈金〉〈水〉〈日〉〈月〉の全ての紋章を書いてください」
「大きさはどれ程で?」
「両手で包み込めるくらい。なるべく細く、正確に、何より美しく」
「わかった」
藤紫の指導の元、蘇芳は紋章を書き出した。
全ての属性の紋章を使用する――これすなわち、神力も大量に使う事を意味している。
紋章を書きながら、神力が身体の中からごっそり持っていくのを感じていた。
(問題ない、この程度。紅殿の苦しみに比べたら……!)
やがて書き終えた紋章全ては正確かつ美しいものだった。
藤紫が思わず感嘆の声を漏らす程だ。
「……次にこの紋章を繋いで編んで、玉状にして欲しい」
「繋ぎ合わせる順番は?」
「対立相性同士は隣り合わないように、相互相性の〈日〉と〈月〉は向かい合うように」
「わかった」
全ての紋章を言われた通りに編み込んで一つにしていく。
酷く緻密で繊細な作業だった。
少しでも手元が狂えば、紋章はたちまち消え、せっかく集めた神力の欠片も粉々に砕け散る事になる。
そうすれば紅玉を救う手立ては永遠に失われてしまう。
(必ず、紅殿を救う……!)
その一心で、蘇芳は必死に紋章を編んでいく。
やがて己の神力の半分以上を使用し、全身汗だくになる頃、ようやっと紋章を一つにする事ができた。
瞬間、紋章から眩い光が放たれ、目の前に浮かんだのは、宝石よりも煌めいて美しい『神力の塊』だった。
「すごい……! 完璧だよ、蘇芳さん……!」
藤紫が感動の声を上げる中、蘇芳は無事紅玉を救う『神力の塊』を生み出せた事にほっと息を吐いていた。
*****
「紅玉の中に五人の神子殿の神力を与える神術を使ったのは、自分だ」
桜姫は衝撃のあまり、目を見開いて狼狽えてしまう。
「……確かに、神域最強と呼ばれる蘇芳ならば可能だな」
月城がそう言ったので、桜姫は更に動揺してしまう。
「しょ、証拠はあるのですか!?」
「これの証拠なら提示できる」
そして、蘇芳はその者を見た。
「二の神子、露姫様。先程見た紅玉の中に宿る神力の色を覚えておいででしょうか?」
「…………ああ、そういう事だったのね。よく分かったわ」
露姫は一人納得した顔をしながら立ち上がり、言った。
「先程のわたくしの『鑑定』で見た五つの神力の色は青、緑、水色、橙、薄紫……紅玉の幼馴染のもので間違いないでしょう。ですが、わたくしが見た神力はもう一つありました」
「もう一つ……?」
紅玉は神力を持たない〈能無し〉だ。紅玉のものであるはずがない。
では一体誰の……?
「最後の神力の色は深い赤……あなたの色ね、蘇芳」
「その通りでございます」
「どの神力よりも深く濃かったから、あなたが術者で間違いないでしょう」
「いかにも、その通りでございます」
露姫の鑑定結果に、桜姫はハッとする。
「もし仮に紅玉が五人の神力を奪ったとして、その身体に入れたのが蘇芳ということになれば……つまり、蘇芳は共犯者ね」
「そうなりますな。紅玉は決して五人の神力を奪ってなどいないが、もし仮に紅玉が冤罪で裁かれることになったとしても、自分も共犯者として裁かれることになるでしょうな」
「あら、そうなってもよろしいのかしら?」
「紅とともにあれるのならば、本望です」
「まあ。紅玉の中に宿る神力のように深い愛ですこと」
露姫はクスクスと笑う。
一方で桜姫は愕然としてしまう。
(何で……どうして……! 紅玉を裁く裁判のはずが、どうして蘇芳まで共犯にされてしまっているの……!?)
そもそも容疑者である紅玉を連れて逃げた時点で、蘇芳の印象は最悪なのだ。
それを、桜色を持つ姫である自分に再度仕えさせることで、蘇芳の名声を取り戻させる予定だったのに……。
(どうしてこんなことに……っ!?)
思わずギッと紅玉を睨み付けてしまう。
そんな桜姫を、証言を終え、紅玉の隣に戻ってきた蘇芳がギロリと睨み返した。
*****
「……さてと、準備は整ったね」
「ああ」
「おう!」
「はい」
「バッチリやで!」
ジャラリ――背後で無骨な鎖の音が響く。
そこに繋がれているのは、罪人二人だ。
一人は目隠しをされた女、もう一人は外套を頭から被った性別不明の者。
「じゃ、裁判所に殴り込みに行こうか」